母は、海の方に行かなかった。


海とは反対の、防波堤の方を目指していた。


「お母さん、これじゃあ遠回りだよ」


私は手を引かれながら彼女に言った。


彼女の行く方向は、家の方とは真反対だ。


「いいんだよ、こっちで」


彼女は黙って私の手を引く。


おかしいなぁ。


私はただ彼女に寄り添って歩いていた。


空は白く曇っている。


人っこ一人居ない、静かな海だった。


振り返ると、さっきの標識が海の真ん中にぽつん、とあった。


いっそ毒々しいほどの黒が、標識の中を泳いでいる。


そして、波打ち際に。


「お母さん、あの人嬉しそうだね」


私は波打ち際を指した。


そこには、一人の女性が立っている。


波打ち際、さっき私たちがいたところ。


そこで、彼女は笑っていた。


その目は糸のように細められていて、口の端が上がっている。

上がった口の端は頬のあるべき場所を突っ切っていて、虚空まで達していた。


人体構造を無視してまで笑っているなんて、よっぽど嬉しいことがあったのだろう。


「見ちゃだめよ。聞いちゃだめ」


だが、母はぴしゃりとそう言った。


何故だめなのだろう、嬉しそうな人なのにな。

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