第29話

「契約はもう済ませました。今日はご挨拶あいさつだけということで」

 ソファに腰かけたスーツの男性が、人の良さそうな笑顔でそう言う。

「素敵なお部屋ですね。プロモーションビデオも、このままで撮れそう」

 肘掛けの紺色の布地を撫で、部屋を見回した女性がリーシャンに笑いかけた。

「広報が写真を欲しがっているのですが。スウェットかあ」

 着替えさせてきますね、と言って翠蘭がリーシャンを促す。立ち上がりかけた時、カメラを持った女性が「あ!」と大きな声を上げた。

「思い出した。琳 博文ブォウェンさんですよね、実業家の。そして奥様の翠蘭スイランさん」

 空気が緊張した。翠蘭がリーシャンをかばうように奥へと背中を向ける。

「お二人のお子さんだったんですか。素敵。話題作りにちょうどいいわ」

 無神経な言葉に、志乃は嫌な予感がした。

「このことは、ちょっと」

 浩宇が言いかけた時、予感は的中した。

「あれ? でも、莉香リーシャンちゃんは亡くなったんじゃありませんでしたっけ。だとしたら、あなたは」

 リーシャンがゆっくり振り向く。

「ネットで見たことがあります。もう一人お子さんがいらっしゃるんですよね。双子の弟の莉静リージンさん。あなたは莉静さんですよね」

 翠蘭の顔から血の気が引いていくのが見えた。

「でも何故お姉さんの名前でCDを? 十年も前に亡くなってるというのに」

 やめて!

 時間が止まったような気がした。リーシャンは不思議そうに首を傾げ、彼女を見た。

「僕は莉香だよ。莉静じゃない。莉静は海の底にいるんだ。罪を、犯したから」

 一瞬、すべての音が消えた。リーシャンの表情が変わる。大きく目を見開き、青い闇に目を凝らす。此処にはない何か別のものを見るように。おぼろげに輪郭りんかくを現す鬼胎きたいから目をらすことが出来ずに、その正体を見極みきわめようとするように。

 声のない叫びが聞こえた気がした。慟哭どうこくするテルミンに似たそれは、絶望をはらんだ音のない悲鳴だった。誰もが金縛りにったように動けない中を、一つの影だけが揺らめくように移動する。その動きはゆっくりなのに、誰も後を追うことができない。

 リーシャンは志乃の目の前を通り過ぎ、躊躇ためらいも無く玄関の扉を開けた。呪縛じゅばくくさりを引きちぎるように立ち上がった浩宇が後を追う。動かなくなってしまいそうな脚を無理やり引きずり、志乃も部屋を出た。

 風の音。風見鶏のきしみ。

 強い風に、リーシャンの髪がなびいていた。あおざめた顔で、途方に暮れたように、リーシャンは屋上に立っていた。ひざまでしかない低い柵にもたれるようにして。

「リーシャン!」

 呼びかける浩宇の声に、リーシャンはこちらを見た。

ごめんなさいドゥイブチー

 リーシャンの眼に涙があふれる。

「リーシャン、動かないで」

 志乃はそろそろと近付いた。リーシャン駄目、戻って来て。そっちへ行かないで。

 リーシャンの眼が志乃をとらえ、表情が微かに変化する。

「ユキノ」

 こちらに手を伸ばそうとしたように見えた瞬間、強い風が吹いた。

「危ない!」

 誰かの叫びの後、いくつもの悲鳴が響いた。

 リーシャンの身体は風にあおられ、柵の向こうに大きく傾いた。足が地面から離れる。舞い上がるように、リーシャンは空に投げ出された。

 吠えるような浩宇の声が聞こえた。

 そのとき何をしたのか、何故そうしたのか、自分でも分からない。志乃は柵をり、空中に飛び出していた。リーシャンの手が目の前にある。精いっぱい腕を伸ばし、その手をつかむ。離さないで。此処にいるから。ちゃんと側にいるから。

 リーシャンの口元に幸せそうな笑みが浮かんだ。志乃もそれに笑顔を返す。互いの身体を引き寄せ、かたく抱き合って一つになる。

 そして二人は、空に落ちた。

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