第6話

 四階の受付に入るときは少々緊張したが、コンシェルジュは先日とは別の人で、志乃は止められることなく中層階用のカードキーを手にした。スムーズに配達を終え、廊下に出る。中層階用エレベーターで一番上まで登り、緑色のピクトグラムの下の扉を開けた。

 屋上に続く扉を開けると強い風が顔に吹き付ける。扉と共に押し戻されそうになりながら、志乃は屋上に足を踏み入れた。ログハウスはそこにあった。玄関の明り取りには人影は見えない。志乃は大きく深呼吸した後でドアをノックした。何故だろう、心臓の鼓動こどうが大きく聞こえた。

 長い時間に感じられた。鍵が開く音を聞いてドアノブを回すと、微かな軋みと共に扉が開く。目の前に立つ少年の姿を見た時、志乃は何故か声を出すことを忘れた。

 ふんわりと花の蕾が開くような、でもどこか寂しそうに見える微笑を浮かべ、少年は志乃に手を差し伸べた。

「来てくれたんだね」

 嬉しそうにそう言って、志乃を部屋に招き入れる。青い海の中で、志乃は少年と向かい合った。

「ありがとう、ウーバー」

 そう言われて、志乃は我に返った。

「あの、ウーバーイーツは会社の名前で。私は高橋志乃たかはしゆきのといいます」

 少年は不思議そうに首を傾げ、しばらく黙っていた。

「ユキノ?」

 志乃が頷くと、少年は再びふんわりと笑った。

「僕は、リーシャン」

 リーシャン、中国の人だろうか。鈴みたいな名前だと思った。

「そうだ。これ、あなたのですよね」

 ポケットから出したカメオのブローチを見て、リーシャンは頷いた。

「そう。僕が入れたんだ。おまじない。また会えるようにって」

 悪びれる様子もなくそう言うのを聞いて、志乃は身体の力が抜けるのを感じた。

「お返ししますね」

 ブローチを差し出すと、リーシャンは首を振った。

「ユキノにあげる。きっとよく似合うよ」

 驚きと共に微かな苛立いらだちを感じた志乃は、目の前の細い手首をつかみブローチをてのひらに押し付けた。

「冗談言わないで。こんな高価なものもらえるわけないでしょ」

「……そう」

 リーシャンは、そう言うとブローチを無造作むぞうさにテーブルに置いた。その横顔が少し悲しそうに見えてしまい、志乃は悪いことをしたような気持になって目を伏せた。

「お菓子食べる?」

 そう言われて顔を上げる。スウェット姿が立ち上がり、たなに手を伸ばすのが見えた。

 丸い缶の側面にクリームパピロという文字が見える。ふたに巻いてあるセロハンテープを外そうとして苦戦しているのを見かねて、志乃は手を出した。

「貸して」

 缶を手に取り、テープの端を見付ける。くるくると廻し取りながら、志乃は改めて部屋の中を見回した。不思議な空間だ。外の音が一切聞こえない青い世界に、グランドピアノとハープが置かれている。そして部屋の中央にはカバーが掛けられた何かが、妙な存在感を持って鎮座ちんざしていた。

「はい」

 テープを外し終わった志乃が缶を渡すと、リーシャンは蓋を開けようとしてまた手間取った。不器用なのか、力がないのか。手伝おうとして手を伸ばした時だった。玄関の方で音がしたと思うと、いきなり部屋の扉が開いた。

「リーシャン」

 困惑したような声だった。先日の男性が志乃の顔を見て眉を寄せる。

「ハオユー。ユキノだよ、来てくれたんだ」

 屈託なく言うリーシャンを無視して、ハオユーと呼ばれた男性は志乃に向き直った。

「帰ってくれ」

 低い声でそう言うと、志乃の腕をつかむ。素直に立ち上がり、志乃は玄関に向かった。

「駄目。帰らないで、ユキノ」

 リーシャンの声が追いかけて来る。

「ハオユーやめて。ユキノ!」

 縋るような声を、閉まる扉が断ち切る。志乃を非常階段に押し込むと、男性は黙ってスチールのドアを閉めた。

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