10

靴下を履くと、足の感覚が次第に戻ってきた。

トバリは靴のまま海に入っていったせいで、中までしっかり濡れていた。車に戻ると、濡れたものを脱いでもらって、僕のコートを膝にかけた。無いよりは良いはずだ。

そのまましばらくの間は、座席に深く沈んで身体を休めた。今日は一日歩き続けていた上に、体温がかなり奪われていて、お互いに一言も発さなかった。

空を見上げると、月の位置はほとんど変わっていなかった。ちらりと反対側を見ると、トバリの表情は陰に隠れて見えない。黒い髪が風に揺られて陰に溶けたり浮いたりしているのが幻想的だった。

怒っているのか、悲しんでいるのか。

トバリの考えていることが、僕には分からなかった。顔が見えないのはもちろん、豊かな表情を持っていた彼女の振る舞いも、今はすっかり姿を消していた。

意を決して、僕はまだ震えの収まらない彼女の手に自分の手を重ねた。彼女は何も言わず、それを受け入れたようだった。そのことに、僕は安堵と嫌悪を覚えた。

海の中での事を思い出す。

トバリは、本当はどうしたかったのだろう。月まで行くという言葉の意味は。

「お腹、空いていない?」

長い沈黙を破って、その小さな唇の動きが月明りに照らし出された。

「まあ、空いてる、かな……」

「だよね」

そう言うと、彼女はエンジンのキーを回した。

それまでの静寂が吹き飛ばされ、強すぎるヘッドライトが月の光を追い払った。

タイヤが砂を噛む音がすると、車は砂浜を横切って坂を上り、そこから来た道を反対側に走り出した。

僕はその間、何も言わなかった。トバリが僕をどこへ連れて行こうとしているのか、どこか行くあてがあるのかなどは、訊いても仕方のないことのように感じられたからだ。どのみち、僕は彼女に導かれるままに動くしかない。なぜだかそうした強い確信があった。

「君はどうして、最後の夜を私と過ごしてくれるの?」

視線を前に向けたまま、トバリは僕に尋ねた。ちょうどその問いに対する答えを自分の中に見つけたところだったけれど、それを言ってしまうと何か取り返しのつかないことになる予感がして、僕は無言のままでいた。

「ちょっとだけ飛ばすね」

僕の反応を待つことなく、トバリはアクセルペダルを思い切り踏みつけた。瞬間、エンジンがこれでもかと言うくらいに唸りを上げ、座席に背中を押し付けられた。急加速によって内部に回り込んだ乱流のせいで息ができなくなったけれど、それは一瞬のことだった。

この車にはレースゲームのような手動の変速機能はなく、スピードに合わせてギアが自動で変わる仕組みらしい。車はみるみるうちに速度を上げて、少し怖いくらいだった。助手席側から速度計の針が見えるというのは、ちょっと普通ではない。

真っ直ぐな道を猛スピードで駆け抜ける。実際がどうかは分からないけれど、体感ではゲームよりよっぽど速い。

一瞬、光り輝くものが後ろに飛んでいくのを見た。それが髪についていた水滴なのか、それとも涙だったのか、今となっては知る由もない。

あの時、トバリは僕と一緒に海に消えたかったのではないか。

そんな自惚れた想像をしながら、僕はドアの縁に肘を載せて、こっそりと彼女の横顔を眺めていた。

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