9

車は海岸に降りていく道に入り、緩やかな下り坂を滑っていった。途中、トバリがシフトレバーを動かすと、エンジン音が低くなり、確かにグッと減速した。

そのまま車は砂浜に突っ込んで、砂にタイヤを沈めて停車した。

エンジンを切ると、途端に辺りは静寂に包まれた。

聞こえるのは、規則的に打ち寄せる波の音だけ。

僕たちは砂浜と雪原の上を歩いた。いつの間にか雪は止んでいて、白い地面につけた足跡は、もう消えてなくなることはない。あの足跡が砂浜に刻まれる最後のものになるのかもしれないと思うと、この空間のすべてが僕たちのものになったような気がした。

「海はどこまで広がっているのかな」

彼女はずっと遠くの方を見つめている。

その視線の先では、真っ黒な空と海とが溶け合っていた。海はどこまで広がっているのだろう。

「夜の海って怖いのね。真っ黒で、得体が知れなくて」

「実際、夜の海は危険だよ。本当は近づかない方がいい」

「地面が途切れてるあの辺りが海の入り口かな」

トバリは僕の言葉を気にすることなく、波打ち際に向かって歩く。

「ちょっと進んだところで急に足元が深くなって、そのまま戻ってこれなくなっちゃいそう」

「きっと冷たいよ」

「んっ……ふふ、本当だ、すごく冷たい」

言葉とは裏腹に、トバリは足元で水面を楽しそうに叩いている。冷たさを感じていないようだった。

「君もおいで」

彼女の手招きに吸い寄せられるように、僕の脚は喜んで動き出した。

裸足になると、足の裏が雪に直に触れてとても冷たかった。そのまま海の中に入っていくと足首まで浸かり、痛いくらいだった。

次第に足の感覚が無くなると、真っ黒な水面に隠されていることもあって、足首から先が無くなったかのような感覚に陥った。

トバリは既に膝のあたりまで海に沈んでいる。僕は感覚のない状態で怪我をしないよう、極めて慎重に歩みを進めた。

時間をかけて彼女の隣に立つと、彼女は嬉しそうに微笑んで僕の手を取った。

「このまま月まで行ってみる?」

波音に消え入りそうな小さな声で、神聖な悪魔が囁く。

その一線を越えてしまえば、もう後戻りはできない。危険な誘惑だった。

僕は大きく深呼吸した。喉が痛かったけれど、熱くなっていた心を冷やすことができたように思う。

「それもいいけど、そろそろ寒くなってきたから、戻ろう」

僕は努めてフラットな声音で言った。

繋いだ手を引っ張ると、彼女はこれまで見せたどれとも違う表情になって、一瞬の間を置いてから僕に抱き着いた。

月が寒空にお似合いの酷薄さで僕たちを照らしている。

何もかもが止まろうとしているこの世界で、トバリの存在だけが生を感じさせた。

鼓動、体温、息遣い。

そうした彼女のすべてがつぶさに感じられる。俄かに想像上の独占欲が僕の心を埋め尽くし、そうかと思えば一瞬でそれらはどこかに消え去ってしまった。後には抜け殻のような満足感だけがあった。

トバリは静かに目を閉じたまま動かない。精巧な人形のような、完璧な造形だった。

時間が止まると言うのなら、この瞬間を永遠にしてほしいと思う。こんなにも満ち足りた気持ちは、これが最初で最後になるだろう。

けれど、彼女の身体の震えが大きくなってくると、そうも言っていられなかった。

僕はトバリを抱きしめたまま、ゆっくりと砂浜の方へと歩き出した。

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