11
星が綺麗だった。
海岸沿いの道にはかなり広い間隔でしか街灯がなく、近くに建物もほとんどない。世界は元々、これくらい暗かったのかもしれない。
明るすぎない世界では、本当は見える必要のないものを、適度に隠してくれる。それくらいの距離感であることを示してくれるのだ。
運転席と助手席の距離なんてたかが知れていて、ルームライトをつければ、僕たちは同じ空間を共有していることが明らかになる。けれど、そうしないことで、僕たちの間には目に見えない壁が存在していた。それは障壁か、あるいは……。
考えるのを止めた。そうして吐いた息は白く染まり、透き通るように冷たい空気の中に溶け込んでいった。
目に見えないもの。
例えば時間がそうだ。もうかなりゆっくりになっているのだろうそれは、たった一夜にして世界を変えてしまった。それはトバリという存在も同じだった。
過ぎ去る街灯に一瞬だけ浮かび上がる彼女の横顔は、その度に異なる様子で僕を魅了した。その美しさをもっと眺めていたいと思っても、彼女はまたすぐに闇に埋もれてしまう。
暗がりの似合う少女。間近で見ても美しいことは間違いないけれど、少し離れたところから見るのが一番良いと感じていた。思えば、格闘ゲームのブラウン管に映り込んでいるのを見つけたのが最初だった。
ふと、違和感の正体はそれかもしれないと思った。
逃げ水のように、手の届かない存在。
陽炎のように、掴みどころのない存在。
僕はまた、あの直感に真実味を感じ取るようになっていた。さっきよりも強く、ほとんど確信に近いくらいに。
車はロードサイドの店に停まった。時代を感じさせるネオンサインがねっとりと光る、古めかしいハンバーガーショップだった。世界の終わりに開いている店があるのは幸運なことだと思った。
二人で店内に入ると、軽快なブルースが迎え入れてくれた。僕たちは窓際のテーブルに座って、適当に注文を済ませると、その後は海を眺めるばかりだった。
窓ガラスに反射した彼女の顔を盗み見ると、そこには初めて迷いの表情が浮かんでいた。僕はその驚きが伝わらないよう、外の景色に意識を集中させようとした。
海は相変わらずあるのかないのか分からない様子でそこにあって、反射した月だけがその存在の証人だった。単純化された意匠のようで、複雑な世界に対する反抗のようにも見えた。
油の匂いがして、ハンバーガーとフライドポテトが運ばれてきた。
僕たちは無言でそれらにかぶりついた。塩と油の乱暴な味が広がる。こういうのも悪くないなと思った。
「君たち高校生だろう?こんな時間に遊んでいていいのか?」
料理を運んできてくれた男が訊いた。それは今日に限ってはナンセンスな質問だった。
「とてもおいしいですね、このハンバーガー」
僕は適当に受け流そうとした。二人の時間を少しでも減らしたくないと思ったからだ。
「あぁ、それはありがとうな……まあいいか。ゆっくりしていきな」
それだけ言うと男は一旦カウンターに戻り、二つのグラスを持って戻ってきた。
「これはサービスだ。こいつを知らずに終わっちゃあいけねえよ」
テーブルに置かれたのはコーラのような飲み物だった。けれど泡が全然消えないし、匂いもまったく違っていた。
「あの、これ……」
僕がそれを断ろうとしたその時、グラスの片方が持ち上げられた。
「おおっ、良い飲みっぷりだなあ嬢ちゃん」
トバリはそれをぐびぐびと飲み干して、あっという間にグラスが空になってしまった。口の周りについた泡が髭のようになっていた。
「もう一杯どうだ、嬢ちゃん?」
トバリがそれに小さく頷くと、男は嬉しそうに次のグラスを用意した。
二杯目も半分くらいまで一気に飲むと、トバリはようやくグラスをテーブルに置いた。
「君、運転できる?」
「たぶん無理」
「なら飲んで」
「でも、これ」
「飲んで」
トバリは睨むような目で僕を捉えた。拒否権は無いようだった。
恐る恐る、その黒い液体を口に含む。
それは全く未知の味だった。
焦げたトーストのような、力強い香ばしさと暖かな甘さが同時に感じられる。そして苦い。
数口飲んで、グラスを置いた。吊るされた照明が映り込んで、怪しく黒光りしている。
「どうだった?」
「不思議な味だね。うん、おいしいよ」
僕の感想に彼女は満足したようだった。
「ねえ」
摘んだポテトをもてあそびながら、その手に顎を載せて、彼女は言葉を探しているように見えた。
ポテトがハンバーガーからこぼれたケチャップに墜落すると、彼女はようやく次の言葉を見つけたようだ。
「私と一緒に来てくれる?」
やはり、それがトバリの願いなのだ。恐らくは、水面に映る月を目指して。
「これまでだって、ずっと一緒だったよ」
言ってから、僕は少し恥ずかしくなった。まるで長年連れ添ってきたような口ぶりじゃないか。僕は顔が赤くなるのを誤魔化すために、グラスを一気に傾けた。
「そうね。君は優しいから、私のわがままを聞いてくれる」
「僕にできることならね」
「何だって、やってみればできるものよ」
「例えば、車の運転とか?」
「そうかも」
「それは、トバリが特別だからだよ」
嘘ではないつもりだった。少なくとも、僕にとっては紛れもない真実だ。
「やっぱり、私と君は違うと思う?」
「それは」
口にしてはいけないと思った。言ってしまえば、それが全てだ。
彼女は僕の沈黙に注意深く耳を傾けている。彼女の視線を苦しいと感じたのはこれが初めてだった。
悲しみに満ちた歌声がギターと共に僕を責め立てるのが、今の僕には救いだった。その悲しみを向けられている間は、赦しの可能性を信じられた。けれど、そんな時間は長くは続かない。終わらないこの夜で、永遠以外は等しく一瞬だ。
その永遠を選び取ることができるとしても。
「僕は君のことが好きだよ」
だから、僕は君とは違う。精一杯の言葉だった。
トバリの大きな黒い目から可能性が消えていくのが分かった。未来とは未確定な状態のことであって、こうして言葉にした瞬間に、それは過去になる。僕は世界の禁忌を犯したような気がした。残り僅かな今日が、少しずつ凍り付いていく。
それ以上、僕たちは何も言えなかった。言えば取り返しのつかないことになると、お互いに直感していた。そう僕が思い込んでいるだけ。彼女の考えていることなんて、僕には分かりやしないのだから。
そうして無言で最後の晩餐を終えると、すっかり冷え切ったオープンカーの座席に乗り込んだ。
トバリはキーを差すだけで、それを回そうとはしない。店から漏れ聞こえてくる音楽が、僕には慰めのように感じられた。
陰が動いた。振り向くと、トバリがコートを脱ごうとしていた。それが終わると、今度は制服に手をかけた。
「どうしたの」
「暑くなってきちゃった」
言われてみれば、確かに彼女の顔は赤らんでいた。リボンが解かれ、ジッパーが下げられる。僕は女子の制服の構造を初めて理解した。
中には対照的な白っぽい私服が着こまれていた。確かに、少し厚着になっていたかもしれない。肩が出ているのは寒そうだった。
「これくらいがちょうどいいみたい」
トバリは薄く笑った。棺桶に眠る死者のような、穏やかな笑みだった。
すらりと伸びる白い腕が、僕の首の両側をすり抜ける。流れ落ちる黒い髪との対比がとても鮮やかだった。柔らかな彫刻、触れられる彫刻だ。
最初よりも近く、トバリの顔がよく見える。
「ねぇ、私たちどこに行こうか?」
露出した肩だけを照らされた彼女が、曖昧にしかわからない表情でそう言った。ハンバーガーショップのいやらしい明かりが彼女の肩に手を回しているのが、僕は少し気に喰わなかった。
「さあ、どこへ行ったって同じだよ。だって」
だって、今日が世界最後の夜なのだから。
僕たちは、どこへだって行ける。あの山を越えることだって、あの無限に広がる漆黒の海だって越えることができるのだ。
けれど、どこにでも行ける自由とは、本当に行きたい場所がどこにもないということ。
だから、行きたい場所ではなく、居たい場所を求める。
それは例えば、彼女の腕の中。
「おやすみ」
世界最後の夜、その最後の記憶はトバリの声と、濃厚なチーズの香りだった。
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