3
アナトラを出ると、空は来た時と同じく鮮やかな茜色だった。一時間以上はいたはずだったから、ようやく僕にも異常事態が認識できた。
振り返ると、降りてきた階段は不気味なくらいに薄暗く、なにやら湿った雰囲気を感じさせる。知らなければ、この先に喫茶店があるなどとは思えない。どうして看板を表に出さず階段の中途半端なところに置いているのかは分からないけれど、ともかく入りにくいことこの上ないのだ。僕はひそかに、アナトラは虎の穴だと思っている。
来た道を戻り、再び大通りに出た。帰宅途中の社会人が大挙して駅の方向へ向かっているようだった。明日が来ないかもしれないというのに、彼らはいつも通りの生活を送っている。そのことが、何となく僕を安心させた。
安心。
僕は明日が来ないことを恐れていたのだろうか。
角を折れて少し歩くとパチスロ店があり、その隣に似た雰囲気の、つまりガラの悪いゲームセンターがある。そこが二つ目の目的地だった。
入口の近くにはわずかばかりのUFOキャッチャーがあって、周回遅れのキャラグッズが筐体の中に取り残されている。そうした明るいエリアを抜けると、いよいよあたりは暗くなり、僕は来るたびにもぐらの気持ちになる。喫煙室などというものはなく、室内には薄煙が漂っていた。制服に煙の匂いがつかないかが少しだけ心配ではあるけれど、これまで注意されたことはない。
奥にあるのは主に格闘ゲームとメダルゲームだ。メダルゲームのエリアにはいつ来てもおじさんたちが陣取っていて、僕はプレイしたことがない。あの異様な目つきに囲まれて楽しめる自信がないからだ。
ということで、僕はいつも格闘ゲームを目当てにしている。ここは筐体の入れ替えがほとんどなく、今ではここでしか遊べないような骨董品級の台が置かれていた。
適当に座り、百円を投入する。過剰に明るいブラウン管がルーチン表示をやめ、焼け付いてしまった画面が僕の操作に従い始める。まだポリゴンの存在感が残る、味のある描画だ。
レバーといくつかのボタンをガチャガチャと鳴らしながら、数ラウンドを闘った。
闘いながら、心のどこかに明日のことが引っかかっているのを感じていた。
僕が操作しているキャラクターの体力は、もうあまり残っていない。おそらく、今日より先に終わりが来るだろう。なのに、どうしても僕は目の前に集中することができなかった。これが車の運転なら、さぞかし危なかっただろう。前に一度だけレースゲームをやったことがあったけれど、最後まで走りきるだけで精一杯だった。その上でタイムを競うなんて、僕にはとてもできそうにない。
百円分のプレイが終わると、何事も無かったかのように画面はルーチン表示に戻った。駅前を行き交う社会人たちと同じだ。僕はしばらく、その画面を眺めていた。
チカチカと、焼け付いた画面が一定のリズムでぎこちなく動いている。その画面を凝視していると、映り込んだ顔の存在に気が付いた。
振り向くと、見知らぬ少女が立っていた。
うちの高校の制服を着ている。
「スクリーンセーバが面白い?」
その少女が言った。
「いや、別に……」
僕の言葉を遮るように、彼女は身を乗り出して画面をのぞき込んだ。長い黒髪がレバーを握る手に当たって、少しくすぐったかった。
彼女の瞳にブラウン管の不健康な光が反射している。混じり気のない、真っ黒な瞳だった。
「このゲーム」
不意に視線が合い、僕たちは至近距離で見つめ合う形になった。僕は反射的に身体を後ろに反らした。
「よくやるの?」
「まあ……」
崩れかかったバランスを保ちながら、それだけ答えた。週五でやっている、と言って不都合があるわけではないはずなのに、何故だか事実を言うのが憚られた。
「私ね、こういうゲームをやったことがないの。教えてくれる?」
二つの大きな黒い瞳が僕を捉えると、僕はそこで蛇に睨まれた蛙のようになって、断るという選択肢が存在しないように感じられた。
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