第5話

翌朝は、深夜に雨でも降ったらしく、じめりと湿気た朝だった。雨音などしなかったけど、と千和はぼんやり考えるが、外の様子にまで気を配っていられなかった昨夜のことである。

「千和、社会教育論のカンペ作った?」

 頭の中まで湿度に侵されたようにぼんやりとしていると、和泉の声が入り込んできた。

「社会教育論……あれ、もしかして今日テストっ⁉」

 まさかと思いスマホのカレンダーを確認する。そこには無慈悲にも「期末テスト」の文字。かつての自分が用意周到にメモしていたにもかかわらず、ここ最近の〝用事〟にかまけてすっかり忘れていた。必修の科目だけに、今年落とすと後が怖い。

「やっぱり……その様子ならきれいさっぱりお忘れのことだと思ってたよ」

「ど、どうしよ、持ち込み可とはいえ、教科書読み返すのも時間の無駄だし……っ和泉の、写させて」

 千和は恥を忍んで唇を噛む。勉学に関しては自分の事は自分でやるという暗黙のルールがある。もっぱら、千和が和泉の世話になっていることが多いのだが、ここまで明確な申し出は珍しかった。

「最近千和忙しそうだしね。反面、俺は時間あるからまとめ学習にも精が出ているわけで」

「和泉さま……」

「教室行く前に購買のコピー機寄ってこう。これに関しては千和に見せるつもりでまとめてたから」

 そんな弟の言葉に千和は涙の出る思いだった。

「いずみぃ……」

 決して少なくはないテストレポート問題が片付いた訳ではないが、期末期間の鬱屈とした気分と、昨晩の複雑な心境までもがまとめて昇華されたような瞬間だった。普段は特別何も感じない和泉の笑顔にも、今日この時だけは仏の慈悲を感じ、千和は遂に和泉を拝んだ。





 無事社会教育論のテストを乗り越えた千和はだらりとした気持ちで学校を出た。テストを乗り越えて張りつめていた心が一気に緩んだらしい。後ろに続く授業も十五回を完走したとあって、その達成感も気のゆるみを爆走させる。

「今もうなんでもできそう」

 朝とは打って変わって、カラリと晴れた太陽に向かって伸びを繰り出す。

「じゃあここから家まで走って帰っちゃう?」

「それは疲れるからやだ。てかあんたはついて来れないでしょ」

 それもそう、と笑う和泉。あと数日もすれば夏休みに入る。煩わしい好奇心の視線から抜け出して、思いっきり自由な時間を過ごすことができる最高の期間。外出すれば多少の視線には晒されるが、流れるような視線にはもう慣れっこだ。とにかく気の向くまま、何をしようかと考える頭が既に喜びに満ちている。

「ねぇ夏休みなんかしたいことあるの?」

「…………」

「和泉?」

「んっ? あぁ、そうね……図書館には何回か行きたいかなぁ」

「図書館って、夏休み入っても勉強する気? ま、涼しいし人減るし全然良いけどね」

 何の気なく返答しながら、千和は和泉が視線を送っていた先を盗み見た。

ここは一軒家や背の低いアパートが並ぶ何の変哲もない静かな住宅地。その中に停まる、黒の車が存在感を放っていた。とはいえ、普段から周囲を気にするタイプでなければ気が付かない程度の違和感だ。ファミリー層や単身者が乗らないタイプのセダン。この周辺ではあまり見ない車種だけに、和泉の気を引いたのだろう。

「じゃあ千和は? どっか行きたいところないの?」

「わたしかー」

 考えながらも、角に消えていく黒い車の影を捉えようと横を向く。しかし車はもうそこにはいなかった。

「家でゆっくりしたいのはもちろん。後はそうね……たまには美味しいものとか食べたいかも」

「美味しいものいいね! じゃあこれはお互いにリサーチしてプレゼンテーションごっこだね」

「え、ちょっとめんどくさい」

 千和が渋い顔をすれば、和泉はハハっと軽く笑う。

「あのぉ」

 するとそこへ背後からしゃがれた声がかけられた。

 二人はハッとして素早く振り返る。その速度は対応するためというより、対処するため。

しかしそこにいたのはなんの害も為さなそうな小さい老婆だった。夏だというのに長袖の上着を羽織っている。

「なにか……?」

「最近この近所にできたパン屋は知らないかい? さっき友達から聞いて行ってみようと思って」

 二人は顔を見合わせる。自分たちに道を聞いて来るのは大抵が若い男か女。それぞれ道などどうでもよくて、狙いは和泉か千和だ。しかしこの老婆にはそんな素振りはない。二人にとっては珍しいタイプの人間と言える。

「パン屋か……確かこの前、開店のチラシが入っていたような」

「あったあった。ちょっと待ってくださいね」

 千和はスマホをいじると、マップで老婆に示す。

「この道を大通りまで真っすぐ、そして右折して……」

 説明しながら、中々に近所のようだと千和は思う。この老婆に自分たちも近場に住んでいることを暗に教えることになるが、この人なら害はなさそうだと感じていた。

「ああどうもありがとう。それじゃあ」

 ゆっさゆっさと体を揺らしながら、老婆はゆっくり二人から離れていく。彼女が大分離れていくまで、二人はその場にとどまっていた。

「……さて、うちらも帰ろうか」

「そうだね」

 そして二人は踵を返して、わざと遠回りに家を目指す。

大学生なだけあって、この地域に多く住む社会人やファミリーとの活動時間はあまりかみ合わない。そのお陰で太陽の下を悠々と通学できているのだが、時折こうしたイレギュラーがあると不安に駆られるのである。昔は、道を訪ねてきた中年女に付きまとわれ家を暴かれそうになったこともある。引っ越したて、新生活とかいう枕詞は信用しないに越したことはない。だから居もしない追手をまくように、二人は遠回りで家を目指すのだった。





この日で前期の授業が終わる。長くも短くも感じた半期の授業の感傷に浸りつつ、千和は窓の外を眺める。

最後のテストは近代経済史。近代の経済界を学ぶ授業だが、その内容の多くはモガリについて。この国の近代経済を支えたのは開国と共に生まれたモガリたちだった。

千和にとっては一気に身近になった話題である。自ずと興味が湧き、空き時間に和泉と調べていたことも手伝ってテスト用紙は早々に埋めることができた。

 隣の和泉も既にペンを置いている。優秀な頭脳を持つ彼なら、今回のように勉強しなくともなんの苦もなく解くことができるのだろう。

 羨ましい限り。

 そんなことを考えていると、普段よりも強い恨めしい気持ちが湧き出てきた。そう思うのも、実はレポートが一つだけ残っているから。しかもそれは京月准教授に提出する授業レポート。ここでは真面目に准教授をしている仁に提出するのだ、千和としても他の授業以上に力を入れたい。そして何より、千和は大学にいる彼に憧れた。現在の関係性はともかく、勉学の面では落胆されたくない。

 微かな緊張感をまとって悶々と頭を巡らせていると、タイマーの音が思考に割り込んでくる。教室内はすぐさま体を伸ばす学生で溢れた。

「テスト終わったぁぁぁ」

 そして千和も例に漏れず腕を精一杯伸ばした。袖の軽いフレアが顔にパサリとかかる。

「お疲れ様。提出して帰ろう」

「まだレポートは残ってるけど、なんか帰りに美味しいものでも買って帰ろっか」

「うーん、大賛成」

 教室を出ると受講者以上の学生が溜まっていて、広いはずの廊下は混雑していた。大方、夏休みに入る前に和泉を一目見ようとあっちやそっちから見物者が集合してきたのだろう。

 千和は臆面もなく顔をしかめるが、和泉は時折振られる手に応じてさりげなく笑顔を振りまいている。

「――和泉」

「……ごめんって」

「いいいから無視しなって何回も言っているでしょ」

「だってあんまりガン無視しちゃうのもかわいそうかなって……」

「そのあんたの優しさが後に自分を追い込むの」

 人波がやっと落ち着いたところで千和は釘を刺す。幾度も繰り返したやり取りだが、和泉の底抜けの優しさは変わらない。

「――あ」

 すると突然はたと立ち止まる千和。和泉は一歩先で振り返る。

「ごめんちょっと電話」

 ポケットの中で振動したスマホの画面には「鷲田さん」。普段はメールの文面で来るのだが、今回は珍しく電話である。緊急の呼び出しだろうかと千和は急いで耳にあてた。和泉は隠れるようにして千和の後ろにそっと入り込んだ。

「はい……はい……分かりました」

 二言三言交わして、電話はすぐに切れた。

「なんて?」

「なんかやっぱり緊急みたい。今から鷲田さんが来てくれるから、そのまま行かなきゃいけない」

「そっか……じゃあ美味しいものはレポート終わりに持ち越しかな」

「うん……そうしよう。ごめん」

 千和のせいじゃないよと相変わらずの言葉をかけられる。

 すぐに到着した車にお人好しを押し込め、自宅に送り、千和は単独で京月邸へと向かった。

 まだ日の高い時間にここに来るのはあまりない。普段は闇夜に紛れるかのように、夜間の活動がメインだった。

 おかげで家の隅々までよく見えた。母屋は少なくとも地上三階建て。たしかエレベーターがあったから、地下もあるのかもしれない。そして外。バラ園や噴水らしきものがある庭の奥や、その横にある独り暮らしに丁度良さそうな離れ、その反対側には渡り廊下付きの小さい別棟も付いている。ロータリーからそれらを眺めて、一体どれだけの土地なのかと考えると頭が痛くなる。どのくらいの人数が住み込んでいるのかも分からないが、この広さでは例え千和と和泉が加わっても何の苦にもならないのだろう。

 そしていつも通り鷲田について、仁の部屋に通される。この日は大学業務がなかったのか、仁は部屋にいた。

「急に呼び立ててすまない」

「テストは終わったので大丈夫です。護衛ですか?」

「いや、少し話があった。鷲田」

 仁からの話かと思ったが、彼が話を振ったのは後ろに控える鷲田だった。

「先日の加美山を覚えているか」

「は、はい」

「その加美山が、お前をつけ狙っているそうだ」

「――えっ⁉」

 普段無口の鷲田からそう告げられる。重厚な物言いに嘘の気配は感じられない。元より、嘘をついて千和をだます理由もない。真実なのだろうが、千和の頭は一気に混乱する。

「最近、学校や自宅付近で不審なことは無かったか?」

「…………」

 心拍数が上がってくる。最近を思い出そうとするが、脳みそが驚嘆に負けている。

「まだ実害があったわけではないようだな」

「気づいてない可能性もある。適当な手を使うような奴じゃない。加美山は本気を出せば何とでもできる。人の視線に敏感な千和が気づいていないなら、相手は相当本気ということだろう」

「そんな……でもどうして私を」

 晩餐会という名の会合で目をつけられたのは嫌でも記憶に新しい。しかしそこまで本気になられる理由が千和には分からなかった。焦燥とも言える気持ちが表に現れる。

「どうすればいいんですか? 仁さん……というより京月組は責任をとってくれるんですよね? あの場に呼んだのは仁さんなんですから」

「もちろん、できる限りの対処はするさ。うちの、というより俺のボディーガードを攫われては困る。面子にも関わる」

 モガリは攫うのが得意なんですかとでも言ってやりたかったが、そこは抑えた。この次元の話は、千和本人がどうにかできるような問題ではない。黙って仁の言う通りにした方が良いのだろう。

 部屋の中に沈黙が落ちる。カチ、カチという秒針の音と自分の心臓の音。それと遠くに聞こえる都会の喧騒。

「……加美山には歪みがある」

 隣室の会話さえ聞こえそうな静寂を破ったのは仁だった。言葉を探してゆっくりと口を開く。

「歪み?」

「やつは綺麗なもののみを愛する。異常にな」

「…………?」

 千和は解せぬまま仁を見つめる。そして彼もまた千和をじっと見据えていた。

「言うなれば単純に見た目が美しいもの。人物、動物、鉱物、美術品などが該当する。それに加えて内面の美しさ。該当するのは特に人間だ。怖いほどに純粋な心、水晶のように透き通った精神、逆に強く決して折れない心根を持つ者などなど。以前彼のコレクションとやらを見せてもらったが……どうにも個性的だった」

「…………」

 仁は思い出すように目を細めたが、その詳細を語ることはしなかった。口にするのをはばかられるような代物なのだろうか。千和は一人で嫌な想像をして顔を歪ませた。

「そして千和、君について率直に言えば、この世界には珍しいその若々しさと、穢れようのない純潔が加美山を惹きつけているんだろう」

 その言葉に不快な悪寒が背を這った。無意識に細められた形のいい目は、さながら仁を睨んでいるようだった。

「若さと、純潔……」

「君の暴力的なまでの美貌と若さはどうあがいたって失えるものではない。加美山は複合的な美しさを見て、千和を狙っている。だから興味を失せさせる必要がある。そうするとすれば、純潔しかない」

「……でも、それって……ある意味セクハラですよ」

 慎重な言葉選びで囁くように言えば、仁は乾いた笑いを発する。

「それが正しい反応だな。すまない。だが奴のストーカー並の執着を鎮めるには、加美山にとっての魅力を削ぐ必要がある」

「……どうやって?」

「俺と関係がある、という風に装う」

「っ……⁉」

 問いかけたことを後悔しそうなほどの混乱が再び襲ってきた。さらに、正体不明の汗までにじみ出る。

権力者によるストーキング、狙われる理由、そして工作の提案。この短時間に襲い来る様々なことに酸素を取り入れることだけで精一杯だった。

「あいつは純潔なお前に興味がある。加えて、俺の所有物でありこの社会で価値が高められた千和だからこそ欲しがっている」

「…………」

「なに、しょせんフリだ。実際何かするわけじゃない。……必要ならばせざるを得ないが」

「…………」

「いずれにしろ、諦めさせないことには長く続く。あれはまともに話ができる数少ない相手だが、欲深いだけでなく、どうにも短気で利己的なところがある。つまり、こうなると面倒な相手という訳だ。京月組としても早めに実行させてもらいたい」

「…………わかりました、私としても迷惑なのは遠慮したいので……任せます」

千和の言葉少なで素直な反応に、仁は薄く笑んで頷いた。

その後、鷲田に連れられて外に出た。

夏の夕暮れは嫌に綺麗で、千和の複雑な心さえすっと飲み込んで応えてはくれなかった。





「若」

 鷲田は仁の部屋を叩く。「入れ」という短い返答にぐっとドアノブを押し開ける。

「帰ったか」

「はい。無事に」

「周辺は?」

「特に異変はありません」

 そうか、という短い頷きのみが返ってくるのはいつものことだ。

「なんだ」

報告が終わった鷲田が動かないのを見て、しびれを切らした仁は短く投げかけた。

「……加美山を、狙っておいでですね」

 その言葉に仁は鷲田を見すえた。千和や学生に向けるような柔和なものではなく、彼の本来の心根を映した視線である。

長年の主従関係を投影したような間が繰り返される。

「そうだ」

「そのために、染原を引き入れましたね?」

「彼女の為にも言っておくが、それのためだけじゃない。体術の心得も買ってのことだ。そして、あれほど純粋に出来ている人間はそうはいない。加美山ほどではないが、俺としても興味をそそられる人材だ」

 仁は手元の資料をめくった。父から受け継いだ事業の案件だ。計画だけが立ててあってなんら進捗のない木偶の棒。古いことばかりで改善すべきところに赤を入れればキリがない。特に今後の展望については朱に染める必要がある。

「染原をダシにして、加美山にこの社会のタブーを犯させるおつもりですか」

「人聞きが悪いな」

 書類を眺めている仁は、手を止めることはせず、無感情に言い放った。

「だが、お前の想像していることは恐らく間違っていない。今、千和の存在は京月組にとって重要なものになっている。監視を怠るな」

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