第4話

 モガリについての授業。社会学部の専門講義であるので、千和と和泉は必修の科目。

それをぼんやり聞きながら、一体この中でモガリの実態を知っているのはどのくらいいるのだろうと考える。きっと、別世界の権力者が遠くで好き放題やっているのか、という認識が精々だろう。とどのつまり、ここにいる学生にとってはモガリの話など他人事である。

かつての千和もそうであった。煙のように捉えどころのない実態を説明され、その社会的影響について懸念を話される。身近な問題でもないため、鼻を鳴らす程度にしか理解が深まらなかった。

しかし今は違う。千和にとってモガリ社会は全くの他人事ではない。何せ目と鼻の先に国内六位のモガリが潜んでいたのだ。そして気づけば今はそんな相手を護衛する立場。

なぜ、どこで目を付けられたのか。最近はそればかりが頭を巡る。大学内で暴れたことは無い。とするとここの外か。しかし思い当たる節もそれなりに数があり、特定することはできない。

その時ポケットに入れていたスマホが振動した。講義中だがこっそり開いて確認する。友人などはいない。この時間に連絡を寄越すのは一人だけだ。

『今日放課後、例の場所へ』

 それだけが記された文面。送り主は想定の通り仁である。

 この日の授業はこれで終了だ。急なことだと呆れながら、残りの三十分を適当に過ごすことにした。

 そして終了後。例に漏れず真面目に集中していた横の優等生に呼び出しを伝える。

「ってことで、今日も家でお願い」

「ん、わかった。どうやって帰ればいい?」

「鷲田さん。私も一緒に一回帰って、そこから」

 簡単に伝えると、物分かりよく頷く。今日の荷物のまとまりは早い。

 鷲田は何かと手を焼いてくれる。仁の意向もあるのだろうが、こういった送迎に融通を利かせてくれているのは彼であった。

 何度か送迎車と待ち合わせる場所へと向かうと、既に見慣れた車が停車していた。運転席には強面の鷲田。

「…………」

 二人が乗ったのを確認すると、鷲田は特に何も言わずに走らせる。ラジオも音楽も無い車内は微妙な空気に満たされる。

 少し経てば二人の自宅に到着する。大学から手近な通学に便利な場所を選んだからである。

 自宅まで送り届け、和泉とはここで別れる。いつものように注意事項を確認して、千和は鷲田の車へと戻った。

 そこから数十分、また沈黙のドライブが始まる。京月邸はこの街の郊外にあり、時間がかかるのだ。

 その間千和はぼんやりと外を見ていることが多かった。和泉から離れ、本当に一人になるのはこの時間くらいしかない。しかし頭は和泉のことについて考えたがる。他に仁のことや護衛のこと、取り留めのない雑多なこともたまに頭を流れていく。

 取り留めのない時間を過ごしていれば、車は京月邸の門をくぐっていた。

 鷲田と共に執務室へ向かう。

 既に机に向かっていた仁。そう言えば今日は大学で姿を見ていなかったことを思い出す。

「まずはこれを着てほしい」

 手渡されたのはハンガーにかかる漆黒のドレス。艶が控えめで肌触りがいいそれを手に、唖然として仁を見やる。

「今日はとある会合に出席しなければいけない。そこでの護衛を頼む」

 その服装についての説明はない。ただ着ろとだけ言うので、部屋の奥、かつて閉じ込められた小部屋で渋々着替えた。

 フレアの強くないスカートは意外にも伸縮性があって動きの妨げにはならない。全体的に身体に馴染む素材でできているようだ。それなりにボディラインが浮き出る。袖にも装飾はなく、細くしなやかな千和の腕が強調されるのみ。首から鎖骨にかけてはレースが編まれ上品な抜け感がある。

そんな慣れないワンピーススカートに四苦八苦しながら、なんとか着終わる。戻った執務室には鷲田のみだった。

「仁さんは?」

「別室だ。染原はこっちへ」

 促されついていくと、知らぬ部屋。そして見知らぬ初老の女性がそこにいた。どうやら京月邸の家政婦らしい。傍のテーブルにはヘアアイロンや化粧道具。

 彼女は座らせた千和を手際よくいじっていく。セミロングの髪は巻いて結って上品なアップスタイルに。メイクは清廉に見えるよう派手な色を使わず淡く輪郭をなぞるだけ。最後に服装を手直しされる。

極めて短時間で解放された。

 じっと黙して鏡に映った自分を見る。普段押さえている華やかさが惜しげもなく誇示されていた。それはきっと和泉にも劣らない。

ただ静かに自分を見つめていると、予想だにしない複雑な思いが去来した。もしかしたら今の自分は何者よりも魅力を放っているのではないか。そんな自意識過剰とも思える普段では考えられない思考だった。たかが着飾る、されど着飾る。見た目が変わるだけでこうも気持ちが大きくなるものか。

「――染原」

 鷲田に声をかけられて思考は途切れる。任務の邪魔になる余計なことは頭の片隅に追いやった。

 ここで待てと指示され、再び戻る執務室。動きにくいヒールに顔をしかめていると、やってきたのは部屋の主だった。

「…………」

 千和は仁の姿に惚けた。

 ダークカラーのスーツに軽いジャケット。髪は顔にかからない程度に流しているせいか、普段よりも眼光が鋭く見える。

「ヒールで動けそうか」

「――えっ、ああ……多分……」

 雑念に支配されていた脳みそが驚いて飛び跳ねる。適当な返事から本音を見透かされないかとドギマギしながら、ヒールを気にする素振りで顔を逸らした。

「仕事柄こういった場面に参加することもd多い。有事の際に動けないと困る。今後は正装での訓練も必要だな」

 あくまで仕事から外れない仁に千和の心も徐々に落ち着いてきた。そこに鷲田が姿を現した。迎えの車に乗り込み、数十分かけて移動する。

輝かしいネオンがはびこる街の中心部、目的地はセレブ御用達の高級ホテルだった。千和は薄黒く塗られた車窓から、背の高い建物をぽかんと見上げた。もちろん利用したことなどない。テレビでよく見聞きするというだけだ。貴賓来賓のもてなしによく使われるだとか、星がいくつかのレストランがあるだとか、千和の日常には全く関係のない話であった。

エントランスにいる全員がスーツやドレスの礼装ではないが、シャツやジーンズを着ているような人物はいなかった。普段の自分がこんなところに来ようものなら浮いてしまってしょうがないだろうと、一人で戦々恐々と肩を震わせた。加えて、空間からあふれ出る瀟洒な雰囲気に圧倒され、もはや押し黙るしかなかった。

「本日予約していた霜月と申しますが」

 その横で鷲田はスタッフに申し出る。二言三言交わせば、スタッフが歩き始めた。鷲田の後ろを仁が進む。千和はハッとしてすぐさまその後ろに着いた。不慣れなことの連続で失念していたが、自分は今仕事中。最重要人物の警護中なのである。多くは教えてくれないこの現場では、自分で考え、信じるしかない。

 商品サンプルなど飾っていないフレンチらしきレストランの中、客室フロアのように長い廊下の先に小教室ほどの個室があった。まるで隔離されているような場所である。

千和は様々眺めたい好奇心を押さえつつドアを通る。するとそこには先客がいた。

長い銀色のひげをたくわえた初老の男。年齢の割に肌艶がよく、目尻に皺はないし、切れ長の目は鋭い。堅気の雰囲気ではなかった。仁の同業者であるのは確かで、その背後には答えを示すかのように屈強な黒服がずらりと並んでいた。千和のようなボディーガードはいなかった。

「やぁ京月の若頭。ご機嫌いかがかな」

 仁が近づくと男性は立ち上がって軽い会釈を出した。

「ええ、お陰様で上々ですよ。加美山さんこそ、新規事業がかなり大成功なされているようですね」

二人の柔和な笑みが邂逅する。その後ろで千和は密かに冷や汗を流していた。加美山という名には覚えがある。前に和泉と眺めた長者番付、そこにその名があった。京月は六位、加美山は四位。仁よりも強大な力を持つ人物が目の前にいることに、微かな息苦しさを感じた。

「それで、堅苦しい話だけではつまらないからね。ディナーを用意しているよ。せっかくの星五つフレンチだ」

「それはそれは! ではお言葉に甘えて、ご相伴に預かりましょう」

加美山が傍にあったハンドベルを鳴らすと、すぐさま料理が運ばれてきた。彩りのよい前菜は遠目からでもその麗しさが見て取れた。そして何よりも千和の目を奪ったのは、仁の上品な手つき。千和には縁もゆかりもないナイフとフォークの優雅な動きに、ただ見惚れるしかなかった。





「お父上の体調はいかほどかね」

「現状維持が続いている、といった具合ですね。父も歳ですので、寄る年波には勝てないようで」

「一世を風靡した〝鬼人京月〟も君の時代になって大層丸くなった。おかげで今ではこうして穏やかなディナーを楽しめているというものだ」

 会合はデザートまで到達していた。その間に二人は近況、様々な業界の話、世間の動向の話、事業の話など情報交換に余念がなかった。

 彼らの後ろに立ち続けている千和はヒールの辛さに耐えかねて分からない程度に姿勢を崩したり自重を変えたりしてなんとか時間を過ごしていた。立ちっぱなしの現場ならばヒールは変えてもらえばよかった。

「ところで若頭、奥の麗しい淑女はどなたかな」

 気を緩めていた最中、突然飛び出したワードに千和の心臓が跳ねる。この場に淑女、もとい女は自分一人しかいない。これは物珍しいことなのだろうか、まさか自分が話題に出されるなど思ってもみなかった。加美山の熱い視線を受けて、こっそり姿勢を正す。

「ああ、私のボディーガードですよ。専属のね」

 千和の方に一瞥さえもくれない仁の横顔は、静かに満ち足りているように見えた。

「ほぉ。前回傍にはいなかったね。新入りか。しかしながら、一見若頭の奥様にもお見受けできる。この部屋に入って来た時、イスを一つ置き忘れてしまったと冷や汗をかいたものだよ」

「それは気を揉ませてしまい申し訳なかった。レディーファーストを信条となさる加美山さんですから、例えボディーガードでも一言申し出るべきでしたかね」

「いやいや、むしろいいサプライズだった。若頭が認めたということは、彼女はさぞ有能なのでしょうな」

「ええ、期待通りですよ」

 その言葉に加美山の目が恍惚そうに細められた。それは千和を上から下までじっとりと眺めた。

「いくらかな?」

「――――⁉」

 千和はその言葉に耳を疑う。一方の仁は何気ない様子で口を開いた。

「生憎、貸し出しはしていませんで」

 すると加美山は大げさに腕を開いた。天を仰ぐような格好でハハハと高笑う。

「貸し出しなんてそんな雑な扱いは望まないさ。うちで可愛がりたいくらいの存在だということだ」

「お宅には有能なボディーガードがいくらでもいるじゃないですか」

「それは無論だ、力量の問題ではない。だがやはり、華があるのとないのでは、人生の潤いが違ってくるだろう?」

 加美山の視線が今度は仁に向いた。これまでのどの話題よりもその目に光が宿っていた。

「ええ、それには同意しますよ。でも、私も喉が渇いた時に潤せないのでは困りますから」

 そんな彼の言葉に、加美山は複雑そうに口を閉じた。

「さて、お話も終わった事ですし、この辺で失礼」

 仁は膝の上のナプキンをテーブルに雑に置く。そして軽い会釈で会場を後にした。千和は熱く見すえられている視線から逃れるように、早足で彼を追いかけた。





「今日の仕事はこれまでだ」

 京月邸の仁の部屋に戻ると、そう告げられる。時刻は二十一時にも近い。会場から離れて、京月邸のロータリーで降車するまでぼんやりしていた。そのせいで仕事が終了した実感がなかった。

「着替えは化粧をした部屋にあるから、終わったら鷲田に言え」

「はい……」

 もう大丈夫と言われているのは分かっている。ここに長居は無用なのも分かっている。この世界の話に首を突っ込むことは、自分を追い込むことだとも分かっている。だがどうしても、自分に異常な興味を向けた加美山のことが頭から離れなかった。

「仁さん……さっきの事なんですけど」

「加美山のことか?」

 千和が意を決して口を開くと、仁は驚く様子もなく応じる。そして言葉にしてしまえば、募る思いは自然と流れ出る。

「あの会話、どういう意味ですか」

「そのままの意味だ。千和の価値の話」

「私に、価値?」

 千和は怪訝な顔で繰り返す。確かに、あの和泉の姉であり、体術にも秀でた自分は中々のレアものだとは思うが、それに具体的な価値があるとは考えたことが無かった。

「そもそも俺が専属のボディーガードにしているというだけで、この世界ではかなりの価値がある。それに加えその美貌だ。こういうことはきっと今後もあるだろう。加美山が特別ではない。一つ一つに気を揉むな。それに何より、俺は千和を売ったりはしない」

「……そう、ですか」

 最後の一言は最高に余計な一言だと思う。

 千和の胸中は複雑な感情に塞がれる。気持ちの逃げ場はどこにも無かった。

そのまま仁の部屋を出て、元の自分に着替える。少し華やかになった顔面と元の服はあまり合わなかった。

 いつも通り鷲田に送迎してもらい無事に帰宅する。和泉が相変わらず心配しているのを軽くいなして、千和は早々に部屋にこもる。机の上には近日中に仁へ提出するレポートがある。それをただ眺めながら、刻々と夜が更けていった。


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