第3話
閉館間際のクーラーが利いた図書館。千和はその端の席を陣取り、夏の夕焼けを眺める。やがて太陽は沈むが、外の熱気は未だ和らいではいないだろう。
普段であれば講義が終わり次第すぐに帰宅する。しかし昼間に呼び出しの連絡を受けたためにまだ校内に残っているのだ。
呼び出した張本人、雇い主の京月は准教授として勤務中。そのためこの時間まで待たなければ先方の用事を済ませられない。
「ねぇこれ見てよ」
すると隣の和泉がなにやら分厚い本を差し出してくる。
「『モガリ長者番付』……?」
「国内で登録のあるモガリの長者番付。で、ここ」
と指を差したところには『京月』の文字。
「六位……六位⁉」
はぁ? と和泉の手から本を引ったくり穴が開くほど眺める。
「国内で有数にもほどがあるでしょ、なんでこんな大学で教授やってんのよ……」
千和の剣幕に和泉は苦笑を浮かべる。
「本当にちょっとした暇つぶしなのかもね。別にここの教授職の収入無くても困らないだろうし」
「そうだろうけど、片手間で教授なんてできるんだ……それにしてもこの番付、凄いね」
改めて見ると、各組の組織的な詳細、総資産、専門分野などあらゆる情報が記載されていた。それによると京月組の総資産はとんでもない値である。普通に生きていてまず目にしない桁の数字に千和は顔をしかめる。
「この前のレポート作る時にも参考したんだ。結構使える資料だよ」
「ふぅん。でもこの本ちゃんと信頼できる発行なわけ? モガリ資料ってそういうとこ難しいじゃん」
情報や信頼が最重重要視されるモガリ社会では、こういった書物に関しても内部の息がかかっている可能性が高い。つまり各組の都合の良いように修正されていることもあるのだ。
「んー、これは大丈夫だと思う。先生のおススメ参考資料でもリストアップされてたから。ちなみにこの出版会社を総括してるのは加美山組。……ほら、この四位の」
「えぇ、結局モガリの息かかってんじゃん……」
再び番付のページを開いて和泉は指を添える。京月組の二つ上に『加美山』と記されていた。総資産は京月組のおよそ二倍。千和は目をぐるりと回す。
「なるほど、主な専門は出版、マスコミ系とリゾート系ね……手堅いわぁ」
「モガリの世界で出版は大きい存在だしね。まさに壁。変に手を出して変な情報流されたらたまったもんじゃないよ」
「それで言うと、京月組は金融とマスコミ方面か。加美山の方と被ってるけどマスコミも結構強くない?」
テレビ局や新聞といった分野だろうか。マスコミ分野で競合しているとは。大きな波紋が想像できる。これが京月の言う〝争い〟の火種なのだろうか。しかし目下のところ、加美山組とは切っても切れない縁を感じる。
「そうだね。しかも情報を握る二つの組がお互い穏健派なのはなかなか面白いよね。過激派だったら、ライバルの情報操作に余念が無さそうだし。穏健派だからこそ、ここを握れたのかもしれないけど」
「はぁ、モガリの世界って怖すぎ。そこまで上り詰めて、どうしたいのかねぇ」
肩をすくめた千和は再び外へ目をやる。太陽の頭が少し見える程度になった。数分もすればとっぷりと暮れるだろう。
「なんだろうね。俺にもよく分からない。権力を持てば怖いものは無くなるけど、競争に追われることになるし。常に肉体と精神を酷使してまで得たいものって……なんだろう」
考えるようにすっと目を細めたのを見て、千和は鼻を鳴らした。
「和泉にもわかんないなら私にもわかんないや」
投げやるように言う。
すると館内に穏やかな曲が流れ始めた。閉館が近い。
「さて、そろそろ行きますか。約束の時間ももうすぐだし」
椅子から立ち上がるとぐっと背中を伸ばした。
荷物をまとめて資料の返却にも付き添う。荷物を放置しようものなら何かが消える。和泉を放置しようものなら図書館なので消えはしないが、盗撮くらいはされるだろう。
大学を出て指定された人気のない場所まで行けば、黒塗りの車が停まっていた。運転席には鷲田ではない男。少し警戒しながら近づくと、窓ガラスを開けて男が顔を覗かせる。
「染原だな」
「……はい」
いぶかし気な目線を送ると、男は続けた。
「若に言われて迎えに来た。八重だ」
銀縁眼鏡の奥で目線が鋭いが、その名乗りに千和の警戒は和らいだ。
二人が乗り込むとアクセルを踏み込んで発進させる。雑な運転に二人は顔をしかめて見合わせる。
そんな運転で約四十分。先日も訪れた京月邸へと到着した。広大な土地を占領しているこの屋敷。門と玄関までの距離は車移動が適切である。
そんなロータリーを通って、二人は降ろされる。ドアの先には鷲田の姿があった。
「来い」
その言葉に従って長い廊下や階段を進んでいく。
何度か通らないと絶対に迷う豪邸だ。経路を叩き込もうと千和は懸命に記憶する。
そして通されるのは先日と同じ部屋。ここは彼の執務室だという。
「急に呼び立ててすまない」
京月は既に椅子に座っていて、書類を片付けているようだった。二人を見るなり顔を上げる。
「今日は例の契約書の確認で呼んだ。正式なものが出来上がったからな」
大学から帰ったばかりのようで、京月の格好は校内で見かけたスーツのままだった。テーブルを挟んで近づくと、千和の心臓が少し早まる。
二人は渡された書類を丁寧に確認していく。先日取り決めた内容が法的にすり合わされ、正式なものとして出来上がっていた。
「どうかな?」
ただ授業内の問題を問うかのような調子で問われる。
「大丈夫、です」
「大丈夫です」
「じゃあ改めて署名を」
黒い万年筆が置かれる。今回は署名欄が三つに増えていた。
「これ、和泉も書くんですか?」
「一応記入欄は用意した。だが和泉くんに関しては任せよう。直接的には関わらないからね」
これは京月組と千和の、二者間での契約である。千和はパッと和泉の手を掴んで止めた。
「あんたはいい」
和泉の口が抗議するように動くが、それよりも早く千和が言葉を継ぐ。
「ここに名前があれば、何かあった時あんたにも影響が出る。でもここに何もなければ、やましい事があっても無関係でいられる」
「……京月先生、千和には法に触れるようなこと、させませんよね」
「もちろん。そのつもりだ。そもそもうちは犯罪集団じゃない。少しばかり……顔が利くというだけだ」
キュッと口を結んだ和泉は再び千和に向き直る。
「俺の名前がここにあろうと無かろうと、千和と繋がっている限り無関係ではいられないよ。それに、何より僕らは離れられないでしょ。だからせめて……一緒に」
意志を示され、千和は苦々しい表情のまま和泉の手を自由にした。
「ありがとう」
そしてさらりと記名する。
「……私が和泉を護るのは変わらない。これからも」
千和は呟くように言うと、和泉の横に自分の名を記した。似た筆跡で二人の名前が並んだ。
最後に京月が署名する。契約書は完成した。
「これでこの契約は有効なものとなる。お互い最善を尽くそう」
にこやかな笑みと共に手が差し出される。二人は硬い表情のまま交互にその手を握った。
「ところで、呼び方なんだが」
仁が思い出したように声を上げた。
「外で〝先生〟と呼ばれると困る時もある。学校ではそう呼んでくれていいが、ここでの呼び方は変えてほしい」
二足のわらじを履くこのモガリは、双子にとっては無論〝先生〟である。しかし本来の世界に戻れば〝若頭〟と呼ばれる人間。呼び名一つをとっても気にすべきことなのだろう。
「えっ……と、でもなんて呼べばいいんですか」
理屈は理解した二人だが、戸惑って顔を見合わせる。
「名前でいい」
事も無げに言う仁に、千和は口を薄く開いた。
「……京月さん?」
「それだと父と同じだ。他にも京月家の人間はいる。仁でいい」
「えっ」
無意識に困惑が漏れ出る。
「……仁さん、ですか?」
和泉が探るように問いかける。教師を先生と呼称しないことに背徳心にも似た感情を覚える。
「仁、さん……わかりました」
一方の千和は軽く俯き、感情を悟られないよう努めている。
「ああ」
仁は二人の素直さに満足げな表情を浮かべた。
「俺も君たちのことは名前で呼ぶ」
「えっ、名前で?」
さらに告げられた言葉に千和は少し熱い顔を上げて驚愕する。
「二人とも染原なんだ。名字で呼んだらわからないだろう」
「それは、確かに……」
これまでは名字に付く尊称を分けて呼ばれることが多かった。しかしそれでは長いし煩雑である。それぞれの名前を呼ぶのが一番手っ取り早い方法だ。
煩悶しているとそこにノックの音が降る。顔を出したのは鷲田で、仁を呼びに来たようだ。
「すぐに戻る」
報告を受けた仁が部屋を去るなり、千和は「はーっ……」と長いため息を吐き出した。
「どうしよ和泉……」
「呼び方のこと?」
和泉は意を汲み取って話を促した。
契約よりも、今しがた起こった注目すべきことがある。千和はひんやりするテーブルに両手を添えて、何とか涼をとろうと奮闘していた。
「そう……何、仁さんって何? いきなり名前で呼べなんて……!」
「そう言ってたし、仕方ないじゃん」
「で、私は私で名前で呼ばれるの? 緊張する……」
長く憧憬を注いできた相手と近しくなり、さらには呼称まで変化する。未熟な千和の心でも十分に狼狽える条件がそろっていた。
「でも、この前から千和って呼ばれてたけど?」
和泉が半ば呆れたように言った。突然降って湧いた新たな事実に、千和の目が見開かれる。
「えっ、それは気づいてなかった……あの時は急展開すぎて気にしてられなかったし」
「ここ最近は京――仁さんの前なのに毅然とできてるなぁ、と思ってたら、名前一つでこれだよ……千和、これから仁さんの護衛につくんだよ、どうする気?」
呼称を間違いかけた和泉はそれを無視して苦言を呈す。
すると現実に引き戻され、一気に落ち着きを取り戻した千和は目線を落とした。
「護衛……契約、しちゃったもんね」
「うん……俺の傍にいるのとはわけが違う」
「でもいくら京――仁さんに憧れがあるからといっても、和泉のボディーガードの方が最優先。相手が一般人か、モガリかってだけ」
「京月組ほどのモガリに目を付けられてたなんて……俺らじゃ太刀打ちできない相手だよ」「この前帰って調べたし、さっきも見たし……。業界ではほんとに名が通っているみたい。強大すぎる」
一般人、もといなんの力も持たない二人は、京月組にしてみれば簡単に消せる程度の存在である。彼らの前ではまるで赤子同然なのだ。譲歩され、対等でいられていること自体が奇跡といえる。
「そんな相手に契約持ち掛けるのはさすがだね。さすが不利を解消するプロ」
和泉はもの知り顔で言う。今までどんな不利な状況でも救われてきた和泉だからこそ、千和のそういった力量を信頼していた。この契約に名前を書いたのもそれが根底にある。
「不利なんて解消してなんぼのものでしょ。むしろ、そんなもの被らないが吉。今までは力技でなんとかできたからよかったけど。今回は少し焦った……こういう時のために勉強しとかなきゃって思ったわ。でも仁さんが吞んでくれて良かった」
クールダウンしている最中、仁が戻る。だが幾分か表情に硬さがあり、呼び出された話は良くないものだったのだろうと思わせた。
「待たせてすまなかった。今日の用事は以上だ。――あぁ、千和」
ほっと体の力を抜くが、呼ばれた千和は瞬時にびくりと背筋を伸ばした。
「明日は少し時間をもらう。初任務だ」
険しい表情のまま言われ、任務という言葉に空気が張り詰める。。
「……わかりました」
「詳細は追って連絡する。明日は迎えに鷲田をやるから、それで来てくれ。一人でいい」
本格的な起用を告げられ、双子はそれぞれ緊張の面持ちを浮かべた。
*
空っぽの家に明かりが灯る。鷲田に送り届けられ、やっと帰宅したのだった。
時刻は二十時を回ったところ。遅めの夕食だが、手早く終わらせようと二人は慣れた様子で手分けして進める。
調理担当の和泉は残り物の食材を使って適当に何品か作り上げた。時短料理にかけては和泉の方が達者である。
その間に千和は残っている家事を終わらせる。洗濯やら掃除やら、煩雑なことが多いが和泉の準備が終わる前に済ませるのが密かなルールだった。
そうして数十分が経ち、二人はようやく夕食にありつく。
「今日も一日お疲れ様」
深い呼吸と共にそんな言葉が口を突く。いただきます、と小さく言葉を合わせてからはしばし無言が続いた。
「明日は家で静かにしてるよ」
不意に和泉が言った。目線は手元に落ちていて、表情は伺えない。
「うん、そうして。ごめん」
千和が傍に居ない以上、和泉一人で出歩くことはできない。家でじっと時間を潰すしかないのだ。
「千和のせいじゃないって。気を付けてね」
和泉が顔を上げる。その大きな瞳は不安げに揺れていた。他人が見てもわからないほど微かなものだが、千和には読み取ることができる。
安心させるようにふっと軽く微笑んでおく。
「もちろん。体力づくりに動いてくるよ」
そしてあっと声を上げる。普段ありえない事ゆえに、失念しかけていたのを思い出したのだ。
「私いない時はちゃんと戸締りしてよ。あと異変は常に気にかけることね」
自宅マンションにはオートロックが付いているとはいえ、油断はできない。これまでも幾度か予測不能の事件に巻き込まれたこともある。
「わかってるよ」
「いつも通り電話はすぐ出れるようにしておくから、何かあったら即連絡」
「それ、明日も同じこと言うでしょ」
耳にタコができそう、と和泉は目線を流す。
「言うだろうけど、大事なことだし」
「……夜ご飯作っとくから」
「ん、よろしく」
お互いどこか緊張し、ぎこちないままその夜は明けていった。
*
翌日。
講義を終えた千和は和泉と帰宅してから、迎えに来た鷲田の車で京月邸へと向かった。
「今日はただ付いて来ればいい」
和泉への言いつけを反芻していたところに、仁の声が降ってくる。廊下の奥から現れた彼は普段とは少し違った質のよさそうなスーツを着ていた。普段見る大学用のものではない。
「えっでもボディーガードってそうじゃないんですか」
元よりそのつもりであった千和はきょとんとした表情で聞き返す。しかし仁は少し呆気に取られたように口ごもった。
「そうだが……まぁいい。行こうか」
そのまま千和の横をすり抜け外へと向かってしまう。
「モガリの雰囲気を感じろということだ」
真意を探っていたところに、今度は鷲田が短く言葉を投げやった。唐突なことに眉をしかめて「えっ」と聞き返す。
「気は抜くな」
疑問の核心を上手くかわした形で、鷲田は仁を追いかけて足早に去っていった。困惑を抱えたまま、千和も仕方なしに彼らを追った。
乗り込んだ黒塗りの高級車は街の中心部、華やぐ繁華街へと向かう。時刻は十七時を過ぎたあたり。営業時間前のようで、どこも準備で忙しない。
目的地らしき複合ビルの前で車が停まる。空がとっぷり暮れれば、太陽の代わりとばかりに派手なネオンが騒ぐのだろう。
そこに鷲田を先に立たせ仁が入っていく。千和も緊張を覚えつつそれに続く。
ここの廊下は奥に長い。その両端に大学の教室のような部屋がいくつもあり、それぞれが店舗として独立しているようだった。準備のざわめきは聞こえるが、廊下に人気はない。
だがそんな中、廊下に座り込む男がいた。片手には途中まで空いた酒瓶。
仁と鷲田は目もくれず通り過ぎる。しかし千和が通った瞬間、男が突然千和の手首を掴んだ。
「おう? いい女連れてんな?」
酔って朧げな男の目が、息を飲む千和を捉えた。好奇に染まった視線が千和をすみずみまでなぞる。
「姉チャン、俺とどうだ?」
「…………」
冷めた視線で睨みつけると、不快な気持ちをそのまま腕にこめる。力のままに掴まれていた手首を本来とは逆方向に捻った。すると「ギャッ」という轢かれた猿のような声を上げ、男はうずくまる。
それを放置して足を速めて仁のところへと戻った。
「……すみません」
「問題ない」
追いつくと涼しい顔で許される。そしてまだ続く奥へと進む。
しばらく行くと、ビルの最奥らしき場所に辿り着く。そこでは鷲田がドアを解放して待っていた。
「ここが今日の目的地だ。千和は毅然としていればいい」
室内に入る前にそう指示される。鷲田の助言と併せ、今日の役割は理解し始めていた。
照明が十分でない、窓無しの埃っぽい室内。カウンターと酒の詰まった棚があり、一見バーのような設えである。そして端に寄せられた赤い革張りのソファには目をぎらつかせた男が座っていた。
「京月さんか」
その男の声はかなりがさついていて耳に障る。言葉の端から粗野な雰囲気が十二分に伝わってくる。
「お前の上司は?」
「奥でお待ちだ」
アゴで店の奥を指す。下手に触れれば噛みつかれそうな猛々しさをまとっている。そして仁ではなく、一緒に進む千和の姿を見えなくなるまで凝視していた。
店の奥。先程の店内とは打って変って、完全個室で格式高そうな調度品がそろえられている。そんなVIPルームには男が一人、派手に飾られたイスに座って待ち構えていた。
「これはこれは。京月組の若頭が直々にいらっしゃるとは。こんな薄汚い場末までようこそ」
くたびれたスーツでヒゲ面の男は自嘲気味に笑う。仁にイスを勧めるがそれは無視された。
「要件はわかってるな?」
何も取り合わず、仁は問いかけた。
すると男は怯んだように嘲笑を引っ込める。それも当然である。後方にいる千和でも仁の圧力を感じたのだ。一気に有無を言わせない重苦しい空気へと変貌する。
「……ええそりゃもう」
それを受けて男は憎々し気に言い返す。
「これ以上は延ばせない。わかったか?」
千和にとっては到底把握しきれない内容であるが、何やら取引のようだとぼんやりとした想像を膨らませていた。
「……ところで京月さんよ」
男は僅かな反抗心を盾に食い下がるようだ。
仁は答えない。彼の沈黙は大方続きを促す合図である。男もそれをわかったように言葉を継ぐ。
「こんな場所に固執していていいのか? こんなことしてる間に狙ってるモン、ライバルに奪われっちまうんじゃねぇか?」
黙ったままの仁に対し少し気が大きくなったのか、唾が飛ぶ勢いで話し出す。
「俺らはどうせ下働きの下郎だからよ、結局お上が誰だろうが関係ねぇのよ。条件さえ悪くなきゃな。もしお宅のライバルがうちに好条件を提示して来たら何の未練もなく移らせてもらうからな。そういうルールだ、何も言わせねぇさ」
もはや立ち上がっている男に、仁はふっと口元を緩めた。「なんだ、そんなことか」と冷たい憐憫の情を向ける。
「勝手にするといい。ここでの稼ぎなんてウチにとっては雀の涙にも満たない。さっさと切らずに、懇切丁寧に世話をしてやっているのは誰のお陰だったか思い出せ。そして、引き止められたいのなら、さらに成果を出せ」
情も無しに言い放つと、話は終わったとばかりに踵を返した。
「――ッ、おいっ」
男は青筋を浮かべて身を乗り出す。
「おい若頭、その女はなんだッ。初めて見る顔だな」
しかし仁は取り合わずにさっさとVIPルームを出ていった。だが当の千和はキッと睨みつけるようにして男を振り返る。
「ボディーガード」
「――はっ、ボディーガード? お前が?」
一言の返事に、男は千和をあざ笑うかのようにヒゲを持ち上げた。そして千和を舐め回すかのように見定める。
「見たとこ世間知らずのキレイなお嬢ちゃんだな。しかもとんだ美形。そんな女、看板になるために生まれてきたようなもんだろ? 京月なんかよりうちの方がお前の言い値で使ってやれるが?」
「…………」
千和は黙ってツカツカと歩み寄る。
「……ほぅ、スタイルもいいな。肌も白いし質もいい。うちの客は見た目にうるせぇのが多いからな。はっ、どうだ? その気になったか?」
男の目と鼻の先まで詰め寄ると、切れ長の目をキュッと細めた。
「――なぁ? 数年に一度の上玉ちゃん?」
場違いなほど目じりを下げた笑みを向けられ、千和は全身の肌が粟立つのを感じた。
「……薄汚いのと一緒にしないで」
テーブルに乗っていた男のずんぐりとした手首を外側に捻る。
「――ッ⁉」
男は痛みに息を飲み、廊下のくだらない酔っ払いと同じようにイスに崩れかかった。
千和は最後に汚物を見るような目で見下すと、その場を後にした。
「…………」
足早に店内を通り抜けた時、初めにも見た獣のような男が「おい」と声をかける。
「……何か」
顔をしかめてぶっきらぼうに答える。
「お前……面白い奴だな」
「……は?」
予想だにしていない言葉に、店を出ようとした足が止まった。すると男が立ちあがるなり千和に近づく。品定めではない、千和の中身を見透かすような真っすぐな視線が向けられる。
「……あぁ、やっぱりそうだ。オレにゃ京月さんがお前を選んだ理由が分かるよ。ははッ、こりゃ面白くなりそうだな」
男は満足げに笑みを漏らす。そしてそのまま奥の部屋へと消えていった。
釈然としない中、千和はそれを振り切るように駆け足で仁の元へと急ぐ。
「千和」
少し進んだ先で仁と鷲田が待っていた。少し小さくなりながら駆け付ける。
「すみません、ボディーガードなのに……」
「何か言われても無視しろ。有事にいなくてどうする」
千和にとっては違和感を覚えるほど、仁の暖かみが排除されていた。普段との差に心苦しく感じ、「気を付けます」と顔を俯けて言うことしかできなかった。
ようやく外へ出る。ネオンが光り始めた夜の繁華街とは言え、ビル内よりも新鮮な空気を吸うことができる。千和の心は少し落ち着きを取り戻した。
再び乗った車は屋敷に向かわない。不思議に思っていると、数十分をかけて見知らぬ建物へと到着した。
怪訝な表情のまま、降車した仁の後をついていく。小さな公民館のような建物で、先程のような煌びやかさとは無縁である。少なくとも黒塗りの高級車が似合う場所ではなかった。
「ここは?」
「少し体を動かすといい」
「はい……?」
促されるまま中へと入る。そこは広い運動場だった。床は衝撃を吸収しそうな緑色。奥にはボクシングのようなリングもあるし、揃う器材はまるでトレーニングジムだ。
そこで数人が組み手の最中だった。名を付けられるような競技ではない、強いて言えば異種格闘技である。蹴り上げたり殴ったり、節操のない攻撃が繰り返されている。それらはやがて仁の姿を捉えるやピタリと止まった。
「若」
その中にいた一人が進み出た。仁はその男と二言三言交わすと、千和へと目線を向ける。
「千和、これから数人と組んでもらう」
「えっ、はい」
唐突なことに戸惑いながらも渡された簡単な防具を身に着ける。千和としてはこういったものが無い方が動きやすいのだが、着けろと言われては着けるしかない。
準備を整えると、スペースに入る。先程やり合っていた男ら三人との連戦のようだ。あれよあれよと開始の笛が鳴らされる。
一戦目。痩身の男は素早い動きだった。しかし打撃力に欠ける。攻撃を止めれば千和の方が有利だった。空いた脇腹に足蹴りを叩き込んで終了した。
二戦目。筋肉質の体格のいい男。先程の男とは打って変わって重い打撃と硬い身体。合気の要領で攻撃を流していき、バランスが崩れたところをひょいと投げた。
三戦目。前の二人を足して二で割ったような手練れだった。まともに闘える体格だが、千和の方が威力は劣る。伸びてきた手を適当に掴み、関節を逆に突き上げて悶絶させた。
続けて出てくる人はいない。場内から去ろうとしたが、男が一人進み出た。その顔を視界に入れて、千和はハッと息を飲んだ。
「あんた……」
憎々し気に目が細められる。
「やぁ、しばらくぶりだね」
ひらひらと片手を振った男は、スーパーの駐車場で千和と和泉の交渉に来たあの男だった。当時もらった借りが一気に思い出される。
「僕は溝田。どうぞお見知りおきを」
頼んでもいない自己紹介と共にわざとらしい会釈が送られる。
「……結構」
「あははっ、連れないなぁ」
前回の邂逅と同様に、溝田との組手は連戦の後である。千和は軽薄な笑顔に嫌味をぶつける。
「今日も体力温存ってわけ?」
「悪いね。でも前の部下より弱かったでしょ、彼ら。まだ訓練中なんだ」
「別に……どっちも弱かった」
「ははっ、超絶にクールだね。じゃ始めようか、染原さん」
ゴング代わりの笛が鳴る。前回手を合わせた時よりも体力は残っている。どうにかして溝田に一勝を挙げ、借りを返したいところである。
攻めの姿勢でかかるが、際どいところで押さえられ決定的な一撃は繰り出せない。部下と同じ人間とは思えないほど、実力に雲泥の差がある。
するとお返しとばかりに、今度は溝田が攻撃を仕掛けてきた。防戦一方に持ち込まれ、体力を温存するのに手一杯の状況に追いやられる。
しばらくして、再び笛が鳴らされた。終了の合図である。決着はつかず、引き分けとなった。千和はその場に崩れるように座り込む。はぁはぁと荒い息が溢れ、心臓の鼓動がドクドクと聴覚を遮る。
「耐え続けるなんてすごいなぁ」
そんな千和に溝田は労いをよこす。肩にタオルをひっかけて息も切らしていない様子だ。千和はその余裕さに苛立ちの目線を送る。
「ははっ、そんな怖い顔しないでよ」
軽くいなす様はさらに千和を煽ることとなった。
「溝田」
すると仁が溝田を呼び寄せた。怒りの矛先は仁の元へと去り、千和は憤怒の表情を押し込めるしかなかった。
「若。彼女中々やりますよ」
「承知の上だ」
「でも課題は体力でしょうね」
防具を外して汗を拭う千和に目をやる。戦闘時以外の千和はただのモデルのようで、大の男三人を一瞬で沈められるとは思えない。溝田はキュッと目を細める。
「任せてもらえればそれなりに鍛えられますが」
「それなりじゃ困る。部隊トップのお前だ。お前の実力に見合う成果を期待する」
「ええ、かしこまりました」
去り際にポンと肩が叩かれる。どんな攻撃よりも重いそれに、溝田は再びきつく口を結んだ。
「千和、君は今後、溝田に稽古をつけてもらうことになった」
「えっ」
聞くなり、千和はあからさまに嫌そうな顔を浮かべた。隠そうともしない。
「そんな顔をするな。私怨での攻撃は厳禁だが、稽古中なら間違えて殴ってしまっても問題はない」
そんな復讐心を汲み取って仁は規律に沿った助言を施す。すると千和は表情を緩めた。
「……確かにそうですね。わかりました」
「いい子だ」
千和は素直に憎しみのこもった瞳を浮かべる。その様子をうかがって仁はにやりと口角を上げた。
*
夕食時をとっくに過ぎた頃、千和はようやく帰宅した。家に入るなり、玄関先で倒れ込む。
「ちょっ、千和大丈夫?」
散らばる荷物を脇にどけて、千和の手を引きどうにか立たせる。
「久々にこんな疲れた……」
「どうしたの」
リビングのソファに運ばれたところで、千和は今日の経緯を話して聞かせる。
「あぁ……あの男の人とやったんだ。強いんだっけ?」
和泉はあの時を思い出すようにぼんやりとしている。
「ムカつくけど強い。軸が全然ぶれないの、パワーもあって……」
溝田の強さは体幹の強さと力の配分の上手さにあると考えていた。力の抜き方入れ方、それを上手く調整し、鍛えられた体幹で惜しみなく放出している。実戦の経験値や努力値の影響もあるが、素質も大きく影響するポイントである。
「千和も勝てないって相当だね。もしかして初めての強敵?」
「そんなかっこよく言わないで。でもいつか絶対一発入れる、渾身のやつ」
和泉の仇と私の恨み、と呪うように呟く。
「一発じゃ済まなくなりそう」
既にあの出来事を水に流したかのような聖人っぷりで、和泉は苦笑を浮かべた。
「で、和泉は留守番大丈夫だった?」
温め直された食事が千和の前に運ばれる。丁寧にラップまではがす和泉に問いかけた。
「問題ないよ。静かだった」
「そ。それならよかった。たまに訪問販売装った変なのとか来るから気を付けてよ」
これまで来たのは『体にいい深海のお水』に『高画質カメラ』の訪問販売。さらに変わり種として『週刊○○』の読者モニターの依頼という胡散臭さ十分の訪問だった。
「でもあれね。私が呼び出されるとあんたが自由にできないよね」
「それはしょうがないよ。こっちはこっちでゆっくりできるから」
和泉は肩をすくめて答える。真面目な彼のことだ、きっとレポートの処理や自主的な勉強に励んでいるのだろう。
「そう? でも今後、連日呼び出されると困るな」
買い物とか最低限あるし、と困ったように眉をひそめる。
「うーん……断れないのかな」
「契約した通り多少の融通は利かせてくれると思うけど……断り過ぎたら後が怖くない?」
「……それもそうだね」
二人は結果渋い顔に落ち着いた。
そんな雰囲気を払拭するかのように千和があっと声を上げる。
「溝田との稽古で忘れてたけど、今日行ったモガリの現場、凄かったんだよ」
「えっ、どんな風だった? レポートに役立つかな」
和泉は俄然興味をひかれたようで、身を乗り出すようにして続きを促す。
「そんな生々しいレポート受け取ってもらえないでしょ」
「そうかな……」
底なしの学習意欲に苦笑しつつ、千和は今日の出来事を話す。絡んできた男二人に関しては思い出すだけでも不快であったが、メインイベントでもあるため省略はできなかった。そして案の定聞いていた和泉も顔をしかめた。
「――そっか、仁さんがわざわざ出向いて……。きっと重要なことなんだろうね」
「多分ね。でも私としては興味ない話だし」
「でももったいないよ、せっかく生きる資料がそこにあるってのに」
学生の鏡とも言える言動に千和はやれやれと箸を動かす。
「いい、和泉。私は護衛。変に首突っ込んで、変に情報収集したら、どこから何言われるかわかんないわ。それをレポートに使おうものなら尚更ね。バレるかもしれないし」
「ああ……まぁ確かに。参考文献としては載せれないもんね……信憑性疑われそう」
和泉は無念そうに声を落とす。この様子では図書館の資料を一通り読み込んでいそうだ。そうでないとここまで情報を欲しがりはしないだろう。
「でしょ」
「でもとりあえず千和が絡まれたって話が気になるんだけど」
唐突に話が転換する。あまりの不快さに適当に端折って説明したのが仇となった形である。
「……別に。面倒くさい奴に話しかけられただけ。大して強い人間じゃないし、捻ればすぐ終わる。でも、やっぱりああいう業界で女って珍しいんだろうね」
「まぁそりゃあね……でも……」
と和泉はもの知り顔で、千和をじっと見る。
「何、人の顔じっと見て」
「千和だって普通に男の人によく声かけられるよね」
公園や息抜きに行った商業施設、ただ歩いている道端など。度胸のある男がたまに千和に声をかける。無論冷たくあしらわれるのだが。
「え。うん、まぁ、あんたほどじゃないけど」
一日六ナンパを記録したこともある目の前の美男子を引き合いに出せば、千和への声かけの実績も霞む。
「でもスカウトも来るくらいだし、そっちの世界だとかなり重宝される存在だろうし……気を付けて」
いつになく真剣な和泉。それを受ける千和はどこかむず痒そうに座り直した。
「……わかってるよ」
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