第2話


 七月に入った。日差しがより鋭く輝きを増し、大学の授業も前期末試験を目指して深みを増していく。

 千和と和泉は相変わらず真面目に授業を受けている。専門である社会学分野はもちろんだが、懇意にしている京月の授業への熱量は変わらず高い。

京月は前回の接触以降、明確に接近してくるようなことはなかった。千和も京月への熱が冷めたわけではない。しかしもしものことを考え、近づくようなことはすまいと決めた。それに幸か不幸か、二人は質問するまでもなく授業を理解できていた。そんな二人の優秀さもそれを助けている。

その結果、単に熱心な他学部生という距離感を確立することができていた。

「今日こそは買い物行かないと」

 その日の授業終わり、千和が背伸びしながら言う。今朝確認した冷蔵庫の中身はかなり寂しいものだったのだ。

「ご飯食べられないのは困るからね」

「それに、期末レポートたちも締め切り近いし、長くもつように多めに買っておこう」

「確かに。こもる日も多いからね」

 半袖の季節となり、和泉の爽やかさにより拍車がかかる。その証拠に、服装が変わったここ最近は視線の痛さを感じることが多かった。

「さっさと行こ」

 教室内のざわめきを振り払うように、千和は和泉を急かして学校を出た。

 二人が頻繁に利用しているのは近所の大型スーパー。大量に買い込むならばここと決まっている。週末になれば近郊からファミリー層も買い出しに来るし、平日でも夕方となれば仕事終わりの社会人たちが増えて賑わう。常に人目の多い、地域密着型のスーパーである。

 この日も定時帰りのサラリーマンや、子どもを連れた親たちが多く訪れているようだった。

 その中で二人は食材を見繕ってカートに放り込んでいく。サラダに欠かせないキャベツや旬の真っ赤なトマト。メインにする予定の特売の鶏肉、多めに四人分。残りはいつも通り冷凍用。そして値引きが始まり出すちょっとした惣菜は和泉に選ばせる。その他飲み物や菓子類も和泉に選ばせて、一通りの調達は完了する。

 大きめのショッピングバッグにそれらを詰め、ようやく帰路につく。

今日の食事当番は千和である。日替わりで交替しているのだ。その他、掃除も当番制で、今日のそれは和泉が担当する。

「鶏肉、味付け何がいい?」

「シンプルに塩コショウとか?」

 同じ食事のローテーションにならないよう、二人で献立案を出し合うのは日常茶飯事のことだ。お互いの好きなものを食べられる夕食は、二人にとって一日でも好きな時間である。だがどうしても思いつかない時はインターネットに頼ることもある。

 そんな話をしつつ、スーパー裏手の少しほの暗い第二駐車場へと足を踏み入れる。ここを通ると自宅までの近道になるし、闇夜に紛れられる。

閑散とする第二駐車場。混雑する平日夕方とはいえ、さすがにここを使うほど客足は増えない。いつも端の方に従業員の自家用車や、サボタージュの車が止まっているくらいだ。

しかし今日は普段見かけない大きめの黒いバンが進行方向の端に停まっていた。やけに目につき、千和は密かに警戒のアンテナを張る。

やがて近づいていくと、それを見計らったように数人の男がぞろぞろと車内から降りてきた。

「何あれ」

 さすがに声に出し、ピタリと足を止めた。自分たちと無関係ではないと勘が叫んだ。

「……なんだろ」

 和泉も眉をひそめ、足を止める。

「なんかヤバい気がしない?」

 少し声を震わせた和泉がもと来た方を振り返り、微かに息を飲んだのが千和の耳に入る。つられて後方を確認した千和の背中が不意に粟立った。前方にいるのと同じ、大きめの黒いバンがもう一台退路を塞ぐように停車していたのだ。

「……ッこれは、史上最強にヤバいかも」

「スーパー戻ろう」

 人目のある場所へと、二人は踵を返して足を速める。男の数はざっと八人。これだけの数に囲まれては、千和にも勝ち目はない。

「染原さん」

その背中に呼びかけられ、二人は思わず立ち止まる。

「…………っ」

「なんで、名前……」

 震える声で絞り出す。ただ事ではないこの状況。何とか落ち着こうと試みる。周囲は男たちに囲まれつつあった。

「うちのボスがあんたを所望でね。一緒に来てもらいたい」

 その集団の中から、一人が話しながら近づいてくる。その目は真っ直ぐ千和を見つめていた。整った身なりながらも、表情はへらへらと軽々しい。

「私……? 一体なんなの、教えてくれても行かないけど」

 怪訝そうに男を睨む。いつもは和泉が何かと執着されてきた。千和に対してそういったことが無かったわけではないが、他者が興味を持つのは圧倒的に和泉に対してだった。

「聞いてた通り強情なお嬢さんだ。でもね、逃げ場はないよ。ここは駐車場の端で、人気も無い。もし抵抗するなら、そこの和泉くんを人質にとってもいい」

 そう言われ、千和は和泉を自身の後ろに隠す。距離を保って囲まれているため効果は薄いが、離れているよりマシである。

「ふざけないで」

「……わかるよ、大事なんだね。君にとって彼は、命と代えても構わないくらいに大事な存在」

 男は軽い笑みを少し引っ込めて言う。しかし不信感は到底拭えない。

「だったら何」

「こちらにおいで。君の知らない世界を見せてあげよう」

 男の瞳は揺らぐことなく千和を見つめる。内面を見透かされるような、初対面であるこの人間と交わしたくない視線であった。千和は気持ち悪さから凄んだ視線を投げ返す。

「余計なお世話」

「うーん、やっぱり話しても聞かなそうだね。上からは長居も禁物って言われてるし……しょうがないな、ごめんね、染原さん。強硬手段を取らせてもらうよ」

 千和の様子を観察していた男は一人で喋り続け、申し訳なさそうな笑みを向けた。

 すると千和の真後ろに居たはずの和泉の気配が一瞬にして遠ざかる。続いて聞こえた「う……ッ」という苦し気なうめき声。

 風を切るように振り返れば、黒服に羽交い絞めにされている和泉がいた。

「……っ、このッ……!」

 荷物を捨てて一気に間合いを詰める。和泉に当たらないよう、黒服の側頭部をめがけて蹴り上げる。

「ガッ……」

 黒服は衝撃によろめき、そのままうずくまった。緩んだ腕から和泉を引き戻し、解放する。

「和泉、向こう行ってな」

 息を荒くする和泉に鋭く指示を飛ばす。彼を護りながら全てを倒すにはかなり骨が折れる。到底千和一人でできる範疇ではない。

「えっ、一人でやる気なの? この人数を?」

 それを聞いた男は心底驚いたという顔と共に、素っ頓狂な声を上げる。

 千和を囲む黒服は男を含めて七人。細身から屈強な体型まで様々だ。

「楽勝ッ」

 千和は気合を入れるように吐き捨てた。

手近だった黒服には、足を回してその顎に鋭くかかとをお見舞いする。見事クリーンヒットし、地面に沈める。それを皮切りに、黒服たちは千和を確保しようと手を伸ばしてくる。

 腕を掴まれたので護身術の要領でそのまま捻り返す。バランスを崩した男の肘には逆関節で膝蹴りを入れた。もう片方の腕を掴んできた黒服にも同じ技をお見舞いする。

 多数でかかるのは止めたのか、一番屈強な黒服が一歩前に出た。どうやら柔道の経験者らしい。掴みにかかってくるので、かわしつつ距離を取る。ある程度離れたところで、千和は全速力で走り出す。予想外の接近に怯んだ黒服の真正面から懐に入り込むと、片足に全体重をかけその膝に逆関節をきめた。女子の力ながら、勢いづいた力量に耐えられず「ゴキッ」という嫌な音を鳴らしながら、黒服は片膝をついた。

 残る細身の二人は簡単に片が付いた。特殊警棒で殴りかかって来たところを武装解除し、逆に相手のみぞおちを突いて嗚咽させれば、終了である。

「わぁ、凄いね。俺の部下が役立たずだってことが可視化されちゃったよ。どうしよう」

 その様子を見ていたリーダーらしき例の男は、飽きもせずへらへらと薄ら笑いを浮かべていた。部下を気遣う様子もなくゆっくり千和へと近づいていく。

「あぁ、さすがに息は切れるよね」

 肩で息をする千和に同情的な色を送る。

「ほら、疲れたでしょ? あの車行けば休めるよ?」

 はるか後方となった黒いバンを指さす。乱闘しながらかなりの距離を移動していたようだ。

「誰が……!」

 千和は一人残った男に殴り掛る。しかしヒョイと軽々避けられる。

「んー、良い拳。でもさすがにスタミナ切れは否めないね。やっぱり女の子だ」

「…………ッ」

 間近で感じる男の不気味さを振り払うように顔面を狙い、回し蹴りを放った。しかし、パシッと足首を掴まれ不安定なまま固定される。

「狙い澄ます精度は完璧。でも速さが今ひとつ。やっぱりスタミナは大事だね」

 男は耳障りな講評を垂れ流す。逃れようともがいているところに手が離され、バランスを崩す。千和はなす術なく地面に倒れ込んだ。

「さて、そろそろ観念――」

 その時、ゴンッという鈍く重い音が響いた。男は皆まで言い切ることはできず、ゆっくり崩れ落ちた。

「和泉……」

 男の背後に太い木の棒を抱えた和泉が立っていた。スーパーの資材置き場から拾ってきたのだろうか。

「千和、大丈夫? 逃げようっ」

 和泉は木材を捨て、座り込む千和に肩を貸して立たせる。連戦の疲労からか、身体の重さは異常なほどだった。

「大丈夫、歩ける……」

 幸い相手からの攻撃は受けていない。酷く痛むところも無いので足早に荷物を回収に向かう。

 だがそれを追うように男の咳払いが聞こえてくる。

 ハッとして振り返れば、男は既に立ち上がっており、頭をポリポリと掻いていた。

「へぇ、イイ顔してやってくれんじゃん、弟」

 男の目に、今までにないギラリとした光が宿る。

千和は危険だと察知して走り出す。和泉との距離が大きく開いてしまっていた。

「お礼欲しいだろ?」

 その間にも男は大股で和泉まで近づいていく。

「和泉ッ!」

 千和が叫び間に入ろうとするが、間に合わない。男は怯んで動かない和泉のみぞおちを遠慮なく突く。防御など知らない和泉はそのまま膝から崩れ落ち、動かなくなった。

「…………ッ!」

 コンマ数秒遅れて千和の拳が男に届く。しかし男は予測していたかのように頭を逸らしてそれを避ける。

「激情型は後々後悔するから、直しといたほうが身のためだ」

 千和の空いた腹部に、和泉と同じような鋭い一撃が入った。強い衝撃で一瞬にして視界が歪んだ。受け身も取れずに地面に擦れる。そして浅い息のまま意識を手放した。



                *



 視界が開けた。目が開くと同時に脳内の霧が晴れ、少し明るくなる。

 ぐぐっと周囲を伺うように頭を動かす。四方は窓のない壁に囲まれていて、電気もないため真っ暗だ。寝かされているのは二人掛けのソファらしきもの。これがあることで部屋の狭さが強調される。まるで物置のような部屋だ。

「……痛っ」

 上半身を起こすと腹部に痛みを感じた。すぐにあの忌々しい男のせいだと思い出す。あの男、いやあの男たちは一体なんだったのか。これは誘拐だ。れっきとした犯罪ではないのか。ここまで手荒なことは初めてだ。

 少し体を動かすと、他の節々にも重さがまとわりついていた。あれほどの大立ち回りをこなして、身体が悲鳴を上げている。体術に秀でているとはいえ、突然の連戦は体に堪えたようだ。

 だがそんなことも一瞬で頭の中からはじき出す。

和泉は?

体術のたの字も知らない和泉があの男の攻撃を受けて、果たして無事なのだろうか。

守れなかった。どうなった?

そのことだけが頭を占める。狭すぎるこの部屋にはいるはずがない。となれば、少し手を伸ばせば届くドアノブの先、そこに何か手がかりがあるはずだ。

 息を殺して立ち上がり、ドアの向こうに耳を澄ます。音はしない。限りなく静寂だ。

 意を決してドアノブを捻る。感触から鍵はかかっていないようだ。そのまま回すと、カチャリと控えめな音と共に抵抗なく開いた。

 暗闇に鋭く光が差す。まぶしさに顔をしかめ、ゆっくり慣らしてからその奥を見やる。

暖色のライトが部屋を照らしていた。近くにイスと机があり、廊下ではない。どうやらまた部屋のようだ。

 人の気配もない。電気が点いているだけのようで、少し警戒を解き、ドアを大きく開く。

そこは応接室と書斎が合わさったような部屋だった。

少し立派な装飾のある机に、座り心地のよさげなイス、壁際の本棚には本や資料が詰まっている。ソファが二対とその間のローテーブルは来客に使われそうである。

 情報を求めて本棚に寄る。だがジャンルが多岐に渡り、掴みどころがない。共通点と言えば、やけに洋書が多いことくらいである。文学に始まり、経済書、学術書、さらには英字新聞のスクラップ集まで収められていた。

 とその時、ガチャリとドアノブが回される。

 物色していた千和は驚くよりも早く、反射的に身構えた。閉じ込められていた部屋のものではない、別の方向にあった重厚なドアがゆっくり開いた。

「――起きたか」

 顔を覗かせ口を開いたのは見知らぬ男。少し見える肩口から、男の体格が並ではないことが分かる。

「和泉は」

 千和は開口一番に問いかける。

「弟か。無事だ。今はな」

 強面の男は端的にそれだけ答える。表情はぴくりとも動かない。

「ここにいるの?」

「……ああ、いる」

 千和はさらに睨みを聞かせて問う。

「一体なんなの。和泉に会わせて」

「ここで待て。今、若が来る」

 終始表情を崩さなかった男は、それだけ言うとぴしゃりとドアを閉めた。続いて鍵の閉まる音。

 男が去って、再び閉じ込められた千和は息を吐き出す。これまで幾人もの手練れと手を合わせてきた。それ故、相手を前にして、その力量を図る精度は高いと自負している。だからこそ、今の強面の男の一切揺らぎない様子を前に、珍しく緊張した。

 現状に進展はないが、和泉が無事という情報を得ることができた。千和はこの部屋を突破しようと再び物色を始めた。

 しばらくして、待ちわびた開錠の音が響く。開いたドアから再びあの男が入ってきた。だが今度はドアを大きく開くと、まるでドアマンのようにぴしりと居直る。少し頭を下げたかと思えば、別の影が視界を横切った。

「…………⁉」

 それを見るなり、千和は息を飲んだ。全身の血が一気に騒ぎ立ち、心臓がどくどくと鳴り出した。目の前がパチパチと閃光するように暴れ出す。

「手荒な真似をしてすまなかった、染原さん」

 目の前にやって来た男の、端正で形のいい口がゆっくりと日本語を奏で、千和の名を呼ぶ。

「な、んで、京月先生……」

 やっと絞り出した声に呼応するよう、京月はいつもの調子でにこっと微笑んだ。

 千和が傾倒する英語学の准教授、京月仁がそこにいた。普段の講義と変わらぬ佇まいで、爽やかな笑みを湛えている。さらに大学で見かけるのと同じ質のいいスーツ姿なのが一層頭を混乱させる。

 千和の喉は驚きのあまり仕事を放棄した。

「さ、まずは座りなさい」

 固まったままの千和を応接用のソファへと誘う。急かすような視線を感じ、痺れる足を何とか動かして沈むソファに腰かけた。

「先日の授業も熱心に聞いてくれていたね。中間のレポートとして少し込み入った題材を出してしまったけど、問題はなさそうかな?」

 君たちなら大丈夫そうだけどね、と教室で話しているかのようにごく自然と問われる。あまりの混乱に千和の頭は錯覚を起こし始める。

「先生……」

「ん?」

 千和はどうにか声を絞り出す。掠れてしまって、なんとも覇気の無い声色だ。

「先生は、一体、何なんですか」

 酷くアバウトで的を得ていない質問だと千和も理解していた。しかし何から聞けばいいのかすら判断できない状況で、頭を巡らせる余裕などなかった。

 すると彼はふっと笑みを零した。泣く子をあやすかのように、人を安心させる眼差しだった。

「君の知る京月仁は間違っていない。英語学や英文学、人生を豊かにする教養を教える帰国子女の大学准教授だ。でも、実はもうひとつ、隠していた少し特殊な家業があってね」

 京月は授業と同じ口調で朗々と語り始める。

「社会学部の君ならよく知っていると思うよ。モガリ、という存在をね」

 モガリ……と口の中で繰り返す。理解が追いつかない中でも、蓄えた知識は沸き上がる。彼の言う通り、社会学部の講義では何度も扱う題材だ。しかもそれ専門の講義科目が設定されているくらいには学問的にも注目されている存在。千和は促されるでもなく、言葉を並べ始める。

「この社会に根付く、あらゆる分野を取り仕切る国内で最大の権力者集団。莫大な財を築き、欲のままに生きる超上流階級。全てが合法な彼らは、この社会にとって経済を回す重要な役割であるとともに、懸念材料でもある……」

 数週間前に和泉と共にレポートでまとめた内容である。

「ああ、そうだ」

 そして京月は正解を出したときのように褒めるような笑みを浮かべた。

「そのモガリが、なんなんですか。一体なんの関係が?」

「染原さん、俺の名前はご存じかな?」

 質問を返され、「京月仁、先生」と戸惑いながら答える。他の教授のフルネームなど知らないが、彼の名前だけは記憶していた。

「そうだ。では京月、という名字に聞き覚えは?」

 言われて、一瞬の思考の後、和泉がまとめていた資料の一部が思い出された。そして小さく息を飲む。

「京月……京月組? まさか……」

 その資料は国内の有力モガリをリストアップしたもの。それぞれの名前、会社名称、掌握分野、下部組織に至るまでよく調べられていた。

そこには確かこの名前も――

「そう。俺は京月組、そこの若頭だ。いわゆる二代目。現役の当代で、初代は俺の父。ゆくゆくは京月組を継ぐ。大学での教授職はそれまでの羽休めといったところだ」

「そ、うですか……」

 驚愕の事実を告げられ、ろくに言葉を継ぐことができない。千和はそんな自分を情けなく思う。

「意外と驚かないんだね」

 京月は千和の様子にわざとらしく目を丸くする。

「驚いていますよ、十分……でも一気に、情報量が多くて、何がなんだか……なんで私を連れてきて正体を明かしたんですか……それに、和泉は」

 ただ頭に浮かぶ言葉をそのまま口に出す。およそ身分に見合わない稚拙なものだが構ってはいられない。すると京月は憐れむような目を千和に向けた。

「君はいつもそれだね」

「え……」

「大丈夫、彼に手荒なことはしていない。今は別室にいるよ。君がある条件を飲んでくれさえすればそのまま二人で、いつも通り無事に帰ることができる」

「……どういう意味ですか」

どこか含みのある様子に千和は訝しさを感じて目を細める。

「少し京月組の現状を話したい」

 柔和だった京月の顔に少しの影が差す。背後に控える強面の男が少し身じろいだ気がした。

「今うちは他の組ととある分野の主権争いをしている。まぁそんなものはモガリの日常ではあるんだが……でもそれが長期化して、あまりよくない方に転がっていてね。いわゆるドロ沼化というやつだ。おかげで俺は毎日命を狙われている。脅迫状に始まり、暴行未遂、放火未遂、テロ未遂、挙げればキリがないが、まさに社会に顔向けできない状態を引き起こしてしまっている」

 肩をすくめてみせ、呆れたような表情を浮かべて続ける。

「事態が改善するように双方の担当各所は奔走しているが、その兆しは見えない。それが進まない限り、俺の命は狙われ続ける。俺がいなくなって向こうに得はないはずだが……そんなことも気にしていられないようだ。主な実行班が上層部と関係ない下っ端だからだろうな。奴らにまで事態が波及して、収拾がつかなくなっている。だがその分、簡単にあしらえる」

 身近にないあまりに物騒な話に、まるで冗談のようだと千和は目を見張る。普段教卓で爽やかに英語を話すこの准教授が、日夜犯罪に巻き込まれながら生きていたとは到底信じられなかった。

「そこでだ。長々と説明したが、率直に言えば、俺専属のボディーガードを雇いと考えていてね」

「ボディー、ガード……」

 千和は初めて聞いた言葉のようにボソリと繰り返す。語られる間に、千和は予想もしたくない結論に辿り着きつつあった。

「長いこと探していてね、ようやく見つけたんだ」

 一拍置いた京月が、千和を見つめ意味深に口角を上げた。その動きだけで、彼が何を言わんとしているのかを読み取れてしまう。

「君だよ、染原さん」

 やはり、という思いが全身を駆け巡る。無駄なことは言うまいと口を固く閉ざした。

「実はね。君たち姉弟のことを調べさせてもらった」

 だんまりを続ける千和に、閑話休題といった様子で言葉を投げかける。

「なんとも稀有で壮絶な人生を歩んでいるね。双子の姉弟……弟は希代の美少年で引く手数多の存在。しかしメディア露出の経験は無し。父上と母上で意見の相違、そして離婚、母の死……約二十年の人生にしては、かなり苦味だ。もちろん望まぬ方面からも手が伸びてきた。そこに立ちふさがるのが実の姉。母に愛された弟のボディーガードとして片時も離れず、身を挺して護り抜いてきた。自分を犠牲にしてまで」

「…………私が護るのは和泉だけです」

 心に深く根差した確固たる信念が無意識に千和の口を動かした。

「とても固い決意のようだ」

「私の生きる意味ですから」

 京月の情のこもった視線と千和の力強い視線が交差する。

「どうしてそこまでするんだ」

「どうして? 護るのに理由は要りますか?」

「ああ、要るさ。とても大事な要素だ」

 京月は千和の答えを待つように口をつぐんだ。

 だが千和は答えない。双子の平穏を乱そうとするこの男に自分が存在する意義を突き付けたかった。しかし、和泉を護る理由が浮かばない。これまでずっと「和泉のため」とだけ刷り込まれて生きてきた。それ以外の理由が見つからなかった。

「……すまない。話がズレたな。もう一度単刀直入に言おう――染原千和、俺のボディーガードになりなさい」

 穏やかながら圧のこもった口調。普段なら安心を得られるはずの京月はそこにいなかった。薄らと細められた目元が権力者としての底知れなさを感じさせる。

「……嫌です」

 それでも千和は決意を崩さない。

 その返答に、二人は黙ってしばし見つめ合う。それを破ったのは深く息を吸った千和だった。

「――モガリだか二代目だか知りませんが、私は生まれながらにして和泉のボディーガードです。アイツ以外の人間には付きません」

 すると京月は体勢を崩すと背もたれに身体を預ける。ふぅ、と悩まし気なため息が千和の耳を撫でた。

「美しいまでに純粋で、恐ろしいほど空っぽだな」

「…………」

 千和はその言葉に眉をひそめる。真意の表面さえも読み取れなかった。

「欲にまみれたこの社会では目立つ存在だ。良くも悪くも、ね」

「何のことですか」

「君が魅力的、ということだ」

 一向に話が見えない現状に、千和は怪訝そうな表情を崩さない。

「初めに手をかけたのがうちでよかったな。他の組じゃここまで丁寧に扱われないぞ。選択肢さえ与えられない。和泉くんも無事ではなかっただろう」

「脅しですか」

「いや、事実だ。君らの住む世界と違って、ここは何でも合法の世界。財の力はそのまま権力の大きさ。モガリの権力の下では国家権力など塵芥。人一人を取り込んで、もう一人を社会から消すことくらい何ということはない。朝飯前だ」

 教えを説くようにあくまでも穏やかに、そして同意を得る。それが京月の狙いらしい。

 千和は唇を噛んだ。現状では和泉は実質的に人質と言える。下手な行動をすべきではない。

何しろ相手は穏健派とは言え、名のあるモガリ。先程の外堀を埋めるような発言も嘘ではない。千和も社会学部の学生だ、彼らの手の内についての知識はある。

二者の力の差は目に見えていた。

「お互い、危ない橋を渡ることになりますよ」

 千和は意を決し、ある種の賭けに出る。

「というと?」

「あなたは教授、私はその大学の学生。いくら自己責任が主流の高等教育でも、モガリの教授とそれに手を貸す学生なんて関係は不適切です。ましてやイメージが売りの私立大学で許容されたものではないでしょう。明るみに出ればお互い無事では済みません。私としても面倒事はごめんです。和泉も巻き込むことになる」

 至って落ちついた声で淡々と語っていく。京月は千和の弁をどこか楽し気に聞いている。

「ああ、確かに。俺にとって教授職は片手間のものだが、慕ってくれている学生もいる。君のようなね。だから君らのためにも、姿をくらますことは極力したくないものだ」

 教授としての目線を向けられ、千和の心臓がどきりと跳ねた。だがそんな気持ちは奥底に押しやり、考え得る最後の一手を繰り出す。

「なので、契約を結びましょう。それに同意してくれるなら……ボディーガードの依頼を吞みます」

 京月の眉が興味深げにぴくりと動いた。

「契約?」

「私がボディーガードになるのと交換で、京月組が守らなければいけないルールです」

 沈黙で先を促されるので、千和は拳を握りしめ条件を伝える。

「この契約は相互的なものです。京月組が私を雇う旨と、こちら側からのそれに関する条件。こちらは和泉についてや、私たちの生活に支障が無いようにすることを条件として提示します。これを呑んでくれるなら……私もあなたの依頼を呑みます」

 ほぼ即興で作り上げたものである。不備があるかもしれないという不安は付きまとっている。だから賭けなのだ。

 すると京月はふっと口角を上げた。

「なるほど、さすが社会学部だね。法的なことも押さえているなんて。こんなに立派な学生がいて、教授たちはさぞ喜ばしいだろう」

 言いながらドア付近に控えていた強面の男を呼び寄せると「契約書を準備しろ」と指示を飛ばした。

 とんとん拍子に進む話に千和は驚くが、京月は笑みを湛えたまま言う。

「君の条件を呑もう。ご存じだろうが、何も俺たちは非道な集団じゃない。信頼で成り立っている」

「上辺は、ですよ」

苦々しく顔を歪めて呟く。モガリは空虚な言葉が飛び交う世界である。常にお互いが腹を探り合う、孤独な世界。

「ふふ……お見通しだね」

 指示された男が戻ってくる。机に置かれた上質な紙と黒く光る万年筆。

「ひとまずは仮契約といこう。正式な書類は後日業者に作らせる」

 先程挙げた条件を事細かに記し、千和もそれを確認する。全て終わったところで万年筆を差し出される。

「間違いが無ければ署名を」

「…………」

 書類下部にある記名欄。達筆な整った筆跡で『京月 仁』と既に名が書き込まれていた。

 ここに名前を書けば後戻りはできない。だが、書かなくても後が恐ろしい。グッと唇をかみしめると、押し付けるようにしてペンを走らす。

二人の名前が並んだ。

「これで準備は完了だ。改めて、君を京月組に歓迎しよう、染原千和」

 満足したように立ち上がると、京月は真っすぐに手を差し出す。千和は一瞬ためらうが、結局立ち上がりその手を取った。

「私は、和泉のボディーガードです。契約した以上誠意は尽くしますが、それでも、あなたの護衛は二の次です」

 強気な発言に京月は見透かすような視線を向ける。繋がる手に力が込められた。

「ここまでしても崩れないんだね。鋼の意志だ。面白いよ」

 千和はそれに取り合わず、最優先事項を問いただす。

「和泉は?」

「あぁ、そうだった。鷲田」

 再び部下に指示を出したところで、二人の手はようやく離れた。京月はソファに腰かけるが、千和は立ったまま京月を見おろす。

「それにしても、手荒な真似をして悪かったね。君の実力を鑑みて腕の立つ部隊を送ったんだ。丁重に、穏やかにいけとは伝えたはずだったんだが……。君たちとの交渉に向かわせたあの男、反省していた。少し頭に血が上ったそうだ。こちらでお灸は据えた」

 千和の脳裏に神経を逆なでる軽薄な男が思い出される。不快な映像を締め出すように、目の前の京月をじっと見つめる。

「今後会うことはありますか?」

「あるだろう。仕事のときや、後はそうだね……必要であれば」

「そうですか。和泉の分、借りを返さないと」

 ふつふつと沸き上がる怒りを抑えた低調な声で言うと、京月は高みの見物をするかのように優雅な笑みを零した。

「ふふっ、本気の君は怖いね」

その時背後の扉が開いた。瞬発的に振り向いた先に、探していた姿があった。

「和泉ッ」

「千和ッ! 無事なの?」

 姿を捉えるなりお互いの声が上がる。駆け寄って来た和泉の外傷を探すように、千和の視線は世話しなく動く。

「私は平気。あんたは?」

「最後にやられた一撃で少しヒリヒリするくらい。――あぁでも大丈夫だよ!」

その言葉に一瞬にして千和の表情が険しくなる。しかし「大丈夫だから」と慌てたように言葉を足せば、千和のその表情も少しは和らぐ。

「和泉くんにも、少し説明しておこうか」

新たな声が降ってきたことで、和泉はそこで初めて京月の存在に気が付く。

「えッ、京月先生⁉」

「君も大概、千和に夢中だな。千和は君の護衛に加え、俺の護衛としても動くことになった。ちゃんとした同意の上でな」

 和泉の端正な顔に困惑と驚愕の色がありありと浮かぶ。

「京月先生、というか京月組はモガリらしいよ。先生はその若頭、ナンバーツー。なんか他の勢力とのいざこざで物騒らしいから、私に護衛の打診ってわけ。条件付きで呑んだ」

千和の端的な説明にも和泉は無言で目を見張る。

「ちなみに毎日、何時間も、という形にはしないつもりだ。必要があれば俺から呼びだす。こちらでも壁を本業とする奴らは多く雇っている。千和だけに負担は掛からない。それに、和泉くんの自由を奪わないようにこちらとしても気を使おう」

 かなりの優しさを伝えているが、容姿端麗な双子はあらゆる感情が混ざり合っているようだった。どちらも複雑な顔をして京月から目を逸らしている。

「さて、夜も遅い。せめてもの詫びに、自宅まで送らせよう」

 そんな様子に可愛らしさを感じ、京月はついそんな指示を鷲田に飛ばす。

「京月先生」

 難しい顔をしていた和泉が声を上げた。

「まだ、頭がごちゃ混ぜで理解しきれていませんが……千和に、一切の不利益を起こさないと約束してください」

不安が残る表情の中、その目だけは澄んでいて真っすぐだった。こちらも相当純粋に出来ているようだった。

「善処しよう、和泉くん」

 京月は心の底から笑顔を作る。彼らはとても綺麗で美しく、強く脆い。雑に触れてしまっては壊してしまいそうだ。輝く真っ直ぐな光。

それこそ京月の求めていたものだった。

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