ネオンとコスモス

烏乃

第1話

              



 煩わしく光るネオン。この街に夜の静寂なんてものは存在しない。欲深い生き物たちの仕業である。それに群がるのは虫にも似た男と女。まるで真夏の電柱のよう。近づけばきっと羽音で寒気がするだろう。

 そんな情緒のない景色が車窓を流れていく。

「若。例の件ですが」

 無音の車内で運転手がぼそりと発する。耳に慣れたその呼称は、気を張っていなくとも後部座席の男の気を引く。彼が黙ってバックミラーに目線をやると、それを介して運転手と目が合う。運転手はその無言の反応を受けると、しわの刻まれた目元をすぐに前方へと戻した。

「向こうの下請けが何やら動いているようです。こちら側の妨害を画策しているようで」

 報告を聞き、後部座席にもたれるとため息で応える。運転手はその反応にも慣れた様子で、そのまま言葉を続ける。

「それと、あなた宛ての脅迫状も何通か」

「……放っておけ。爆弾じゃないならな」

 他は捨てろ、と指示するにとどまる。そしてそのついでに重い口を開いた。

「護衛の件はどうなった? 溝田は何をしている」

「探させていますが、彼以上となるとやはり難しいようです。そう簡単にはいかないでしょう」

 望まぬ回答に、またも深い息が突いて出る。自陣を取り巻く情勢は日々悪化している。相手方に負ける気はしないが、暴力に頼って手を出されては、万が一ということもある。自分の身は自分で守るのがこの世界における生き方だ。

 気の慰みに再び外を見やる。飽きもせず歓楽街は続いていた。

 車が赤信号で停車する。前に停まる車のテールランプで、車内が赤く染まった。

 その瞬間、ふっと瞳孔が開く。若の目を引くものがあったのだ。

 目線の先には異様に容姿が整った若い男女。芸能の世界で戦えるほどの造形美を持った二人組。

 相貌の良さは望んで手に入る代物ではない。引く手数多の貴重な人材であるから、見かければ声をかけるようにしている。あらゆる手札は持っているに越したことはない。

 そういった経緯で目をひかれたのだが、そんな二人はどうやら穏やかではない集団に囲まれているようだった。

――ナンパか。

 瞬間的に結論にたどり着く。男を誘っているのか、女を誘っているのか、はたまた両方なのか。

 色情にさらされ磨かれた美しさなどハリボテだ。我らが望むものではない。残念ながら、この社会ではその在り方しか許されない。そうでもしない限り、人は輝けないのだから。

 そんなことを考えれば鬱屈たる気分になり、顔を引き戻す。

 とその時。野太い声の悲鳴が上がる。車内まで届くそれは、若の興味を再び搔き立てた。

 しかしタイミング悪く、車が動き出す。

「鷲田、停めろ」

 短く言うと、運転手はすぐさま路肩へと車を停めた。安全な場所から彼らを凝視し、観察する。

 悲鳴は上がり続ける。もはや怒号も混じり始め、現場はまさに乱闘の様相だ。そして男たちは次々と地に伏していく。ある一人が流れる武術で彼らを圧倒しているようだった。

 それは美形男女の片割れだった。それも、女の方。遠目からでもわかるしなやかな動きで無作法者に鉄槌を下しているようだった。

 若は食い入るように見、その姿を目に焼き付ける。天啓を受けたような衝撃さえあった。

「鷲田」

 血が全身を廻る感覚で、自分が興奮しているのだと実感する。瞬きさえも惜しいと感じる。

「あの子らを探せ」

 そう指示すれば、運転手の男は「はい」という短い返事と共に、どこかへ連絡を取り始める。彼の作業が終わるまで、移動はお預けとなる。だがもはやそんなことは些末なことであった。

 最後、無傷で立っていたのはあの二人だけであった。女が男らをさっさと沈めたようで、逃げるようにすぐその場から立ち去って行った。




「『AT THE COURT of an Emperor (he lived it matters not when) there was among the many gentlewomen of the Wardrobe and Chamber one,』――これがレジュメに載せた冒頭の文章。和訳は載せてないけど、皆が一度は目にしたことがある日本の文学作品です」

 とある大学の大教室。男女占めて五十人ほどの学生が静かに座している。

 そこに響くのは流暢な英語と、爽やかな日本語。それを発する教授は教壇の上から学生たちに細やかに目を配る。

 その目線の先には、熱い視線で興味を示す者、メモを取るのに必死な者、スライドさせる指先に夢中な者、別のものに目を奪われる者、船を漕ぐのに夢中な者……様々いるが、その中でも殊更な集中力を向けている女学生がいた。

 染原千和。大きく切れ長の目は熱を帯びて前方を見つめる。それを示すように愛用の三色ペンは世話しなく、姿勢は若干前のめりで、教授の言葉を一言一句落とさないよう耳を向けている。

「日本の古典を英語に訳すことは途方もない作業です。翻訳者にしてみれば、異文化のさらに異文化なのですから、問題は山積みでした」

 聞きながら、千和は自分の意見をメモしようと一瞬、前方への集中を切らす。すると同時に、チリッとした煩わしい気配が背後からまとわりついた。嫌でも気が付いてしまい、不快感に襲われる。

「多くの言語があるということは、一つの作品を多様な視点から見られると言うこと。それと同時に言語の表現の限界を知ることもできます。この作品が持つ古文由来の奥ゆかしさは、英語ではどう表現されているでしょう」

 無意識的に隣の席を盗み見る。隣には自分と同じくメモをとる男子学生。千和が感じる不快な視線を特に気にしていない様子だが、実は彼がそれの元凶である。

 千和の双子の弟、染原和泉。

千和が鋭敏に感じ取っているのは、本来彼に向けられている好奇と羨望の眼差しである。彼女に向けられたものではない。これが嫌で後方の席に座っているのに、未だに止んだ試しがない。

 一人苛立ちを覚えるが、それを解消する術はない。溜飲を飲み込んで、唯一の癒しである教授に再び意識を傾けた。





 授業が終了し、教室からはぞろぞろと学生たちが退出していく。その間際にも数人が視線を投げかけてくる。幼少から培われた感覚で電波のように無差別にキャッチしてしまうから、自衛することもできない。

「和泉、行くよ」

 さっさと道具を抱え、千和は素っ気なく声をかける。

「ちょっと待って……」

 和泉はバタバタと教材をカバンへと突っ込んでいる。プリントアウトされた見覚えのない資料や、図書館のバーコードが付いた本がやっと片付く。何をそんな広げて使うことがあるのかと千和は毎回疑問に思うが、彼曰く「自分で探した役に立つ参考資料」なのだそう。

 教室を出た二人は、大学構内のカフェテリアへと向かう。次の時間は授業が入っていない九十分のフリータイム、通称空きコマである。それまで時間を潰す必要があるのだ。

 幸い昼食時間とはズレているため、人はまばらであった。それでも念には念を入れ、より閑散としている端の席に陣取る。

「ほら」

 千和は自動販売機のワンコインコーヒーを二つ、テーブルに置く。和泉は砂糖たっぷりのカフェラテ、千和はブラックコーヒー。

「ありがと」

「あんた、そんな甘いのよく飲めるよね」

 千和は毎度それを飲む和泉を見て思うのだ。既にミルクで中和されているのに、そこにスティックシュガーが三本入る。それは飲み物ではなく甘味だと思う。そしてコーヒーとも言えない。

「美味しいよ? むしろ千和こそ、そんな苦いのよく飲めるよね」

 和泉が顔をしかめて言う。本来の味を知っているからこそ、ミルクや砂糖に頼らざるを得ないのだ。

「あんたと違って大人なのよ、こっちは」

「同い年じゃん」

 ツンとした様子でコーヒーを流し込む千和に、和泉は流れるようにツッコミを入れる。

「まったく、何回すんのよ、このやり取り」

 千和は苦々しく顔を歪める。でもそれはコーヒーの苦さからではないし、本心でもない。

 お互いがコーヒーを飲むときには、数回に一度、この茶番が発生するのだ。そしてそれを発端に雑談が始まる。学校の課題の話や、今日の夕飯の話、次の休みの話まで、四六時中一緒にいても、二人の話題は泉のように湧き出てくる。

「ちょっとトイレ行ってくるわ」

 閑話休題の隙に、千和が駆け足でパウダールームへと消えていく。「うん」と送り出した和泉は、暇つぶしに図書館から借りて来た本をパラパラとめくり出す。新しく課されたレポートのために探した参考資料である。

「あのぉ」

 するとそこへ、躊躇いがちな声が降ってくる。

「…………?」

 和泉が顔を上げると、そこには女子二人組が好奇心に満ちた表情で立っていた。双方とも季節の早い露出の多い格好で、髪の色も薄く、繁華街のネオンかと思うほど鮮やかなメイクであった。

「染原先輩ですよね!」

「うん……そうだけど」

「あ! やっぱりぃ! 私たち、先輩に会いたくてこの大学受けたんですっ、良ければお食事とか一緒にどうですか?」

 甲高くボリューム調整の悪い声が和泉の顔を引きつらせた。高ぶる感情を共有するかのように、二人は腕を組んで和泉に薄い笑顔を向けている。

「あーっと、最近忙しくてさ。ごめん」

 精一杯申し訳なさそうな気持ちを込めて言う。しかし女子二人はけらけらと体を揺らす。

「ええー、じゃあ落ち着いたらでいいんで、とりあえず連絡先交換しましょ!」

 許諾してもいないが、既に最新型のスマートフォンでメッセージアプリを開いている。さらに「どうぞ!」とコードを差し出してくる。

「今スマホ持ってないんだ」

 そう言うと、不自然に大きい黒目がさらに大きく見開かれた。

「そんなウソぉ! 今の時代、スマホ持ってないとか有り得ないですよぉ?」

 あははと軽薄な笑い声を垂れ流す。

「有り得るんだけど、何か用?」

「…………ッ?」

 それを切り裂くように千和のよく通る声が響いた。二人は固まり、自然と場も静まる。ツカツカと席に戻る千和。

「こいつのスマホは私が管理してんの」

 わかる? と言う代わりに切れ長の整った目が、一気に覇気を無くした二人を真正面から見据える。二人は凄みを湛えた目元に怯むしかない。

「で、何か用?」

「い、いやっ、失礼しますっ!」

 鼻を煩わすような嵐が逃げ去り、元の静寂が復活する。カンカンカンというヒールの高い足音だけが最後まで残っていた。

「最近、ああいうの少なくて楽だなぁとか思ってたけど、まぁそうもいかないよねぇ」

 はぁ、と息を吐きながら腰を落ち着ける。コーヒーは冷めて苦みが増していたが、千和の舌はそれを難なく受け入れた。入学当初よりは大分マシになった。当時はといえば、先輩からお優しい誘いをたくさん受けたものだ。

「ありがと、千和」

「あんた、相変わらず断るの下手よね。これまで何千回、何万回と誘われてきたんだから、もう少し拒絶レパートリー増やしなさいよ」

 どんな相手に対しても柔らかいままの和泉に、苛立ちから適当な無理難題を吹っかけた。

「いやぁ……うん、やっぱり、そうだよね……」

 形のいい眉を寄せ、しおらしくなった和泉に気分をよくした千和は、「はい、スマホ」と黒い皮のケースに包まれたスマホを返却する。

「ほんと今さらだけど、私が持ってていいの? これ」

 和泉は通知を確認するでもなくカバンへと戻す。

「うん。ああいうときとか、断る口実になるしね」

「そりゃそうだけど、無いと困るじゃん、このご時世なら」

 情報化の一途をたどる現代。いくつかの講義では、各自の媒体を使い授業を行うこともある。さらに何か調べ物の際にもスマホは重宝する。それにもかかわらず、最近の和泉は自身のそれを常に千和に預けっぱなしにしていた。

「でも千和はずっと横にいてくれるし」

 すぐ聞けるから大丈夫、と言われれば、千和はそれ以上の追及はしない。

「ま、あんたがいいなら良いんだけど。さてと、今のうちに課題やっつけとこーよ」

 隣の椅子に座らせていたカバンからレジュメと教科書を取り出す。このために広い机のあるカフェテリアまで来たのだ。

「これが私らの本業。でもこれ、今回の難しくない? 抽象的で捉えどころなさすぎ……」

 大学の門をくぐって早三年。最近は自分野の専門性も高まり、小難しい話題も増えてきた。千和は時折出るレポート課題に頭を悩ませる日々である。

「うん……今回は『モガリ』について……社会学部なら避けて通れない存在だよね」

「そうだけど、雲の上の存在っていうか、私らとは関わりない存在すぎてよく分かんなくない?」

 ネタを探そうと授業で配られたレジュメをパラパラとめくる。後の自分が困らないようにと必死でメモをした気でいたが、改めて見ると支離滅裂な暗号である。当初から理解できていなかったようだ。

「でも、俺らがよく行くあのスーパーも、大本を辿ればモガリグループの子会社らしいよ」

 そんなことを聞いて、千和は目を丸くする。地域に根差す、いささか寂れた小さなスーパー。冷房と暖房を節約している健気なその店を思い出す。

「へぇ、よく調べてんね」

「それが俺らの本業でしょ」

 適当に言葉を返され、千和はやれやれと半ば諦めたように手を動かし始める。

「はいはい、ちゃんとやりますよ。……レジュメ見た限りじゃ、モガリは悪者扱いだけど、実際経済回してんのってその人たちだよね」

「そうだと思う。今回のテーマは『モガリは社会に必要な存在だと思うか否か。理由を述べよ』。今の感じだと千和は必要派だね」

 和泉は配布されたレポート用紙を読み上げた。時代に逆行するかのように、手書きのレポートを望まれている。

「どっちかと言うとそうなるね。あんたは?」

「うーん、モガリの存在って身近な話じゃないし、普通に生活してて目に入りにくいところだから、よくわかんないってのが正直なところ。さっき言った通り、雲の上の権力者みたいな……あ、でもそう思うのはみんな一緒か」

 話しながら考えていたのだろうが、和泉も結局は千和の所感と同じ着地点に降りたようだ。

「私と一緒じゃん」

「あははっ、それじゃ面白くないね。まぁ千字くらいだし、今回は不要派で書いてみようかな。千和の対抗馬として」

「突貫工事で書けんの?」

「まぁ、このくらいなら、なんとか」

 存外自信がありそうな表情に、千和はフーンと鼻を鳴らす。

「言ってみたいわー、そんなセリフ。でも確かに、文章だけは得意よね」

「だけはって……でも苦ではないね」

 和泉はオブラートのない物言いに苦笑を浮かべる。

「少し分けなさいよ、文章力」

 和泉は頻繁に出されるレポート課題を難なくこなす。作文で悩む様子も見たことが無かった。一方の千和は毎回一文一文に頭を悩ませ、極小ピースのパズルを作るような繊細な作業を余儀なくされていた。双子でありながらのこの差を恨めしく思わないわけがなかった。

「そこの能力は千和の分まで取っちゃったのかもね」

 最終的には和泉が手を貸し、毎回完成まで至っている。おかげで、幸いにも単位を落としたことは無い。

 二人は顔を突き合わせてレポートを進めていく。千和は主に和泉作の資料を読み漁り、あれこれ言いつつ、使えそうなところをピックアップする。とりあえず主張や論点の構成は立てておき、あとで和泉に添削を頼もうとこの時間を過ごした。

 やがてカフェテリアがざわざわと騒がしくなってきた頃。

 和泉が時計に目を落とす。

「あっ、千和、次行かないと」

 短く声を上げると、広げていた資料を片付け始める。

「んー、長かった。難しいものは時間が長く感じるわ」

 背骨を鳴らすと、千和も片付けに参加する。次の授業には遅れるわけにいかないのだ。

「さぁ、次も京月先生だ」

 広い廊下を進みながら、千和の声が明るく言う。その両脇からは、相も変わらず和泉への好奇の視線が飛んでいる。

「二コマ連続で同じ先生の授業をとるなんて。俺ら向こうの学部じゃないのに」

 これから向かう授業は文学部の管轄。社会学部の二人にはアウェイの地になる。わざわざ他学部の専門授業を取ったのも千和が珍しく希望したからであった。

「別に良いじゃん。取ってもいい規則なんだし。それに学費分取らないと損でしょ。学費はサブスクと一緒なんだから」

「そこら辺しっかりしてるなぁ」

「まぁね。使えるものは使うの」

 広大な大学ゆえに、移動距離も中々のものである。連絡通路で棟を跨ぎ、エレベーターで上を目指す。

「京月先生の何がそんなにお気に入りなわけ?」

 和泉は幾度目かの質問をぶつける。普段何かに入れ込むタイプではない千和が珍しく執着している。その矛先がこの京月という壮年の教授だった。

「んー。存在?」

「存在⁉」

 今までは「面白いから」や「楽しいから」など、小学生のような単純な返答しか返って来なかった。しかし、今回は曖昧ながらもこれまでにない返答で和泉は少なからず驚く。

「そこにいて授業してくれるだけで安心するっていうか、安らげるというか……」

 千和が頭を俯かせながら言葉を探る様子に目を丸くする。

「千和がそこまで言うのは珍しいね」

「うん、私もそう思う」

「京月先生は英語がネイティブレベルで流暢だし、教え方というか、授業の題材が面白いよね。九十分聞いてても飽きないというか」

 和泉も己の感想を述べてみる。今年度、千和にせがまれ初めて授業を取り、数回経た後の感想だった。

「そう、よく分かってんじゃん。そこなの」

 我が意を得たとばかりに、千和は激しく首肯する。

「向こうの学部だったらゼミとか、もっと近いところに行けたかもね」

「まぁね。そうなってたら多分、先生の研究室選んでた。けど英語で論文とか書けないし、ゼミ取るのは敷居が高いかも……。レポートで精々かな、私は。むしろそれで十分」

それに、とどこか寂し気な表情でぽつりと呟く。これまで経験してきたとある苦しさが胸をかすめた。

「近づきすぎても怖いよ……特に私らはね」

聞いた和泉も反論することなく、きゅっと口を結んだ。





 千和にとって夢のような九十分。それが二コマも。

 これまでの人生で体験したこともない、週に一度の充実した時間は今週も終わってしまった。

 人が随分はけた教室で、二人は談笑しながら荷物をまとめる。今日の授業はこれで終了。このあとスーパーにでも寄っていこうかと話していると、教室の前方から声がかかった。

「あっ、そこの……えっと、染原さんたち!」

 その声に千和は驚き、そのまま固まる。

 見れば、京月が早足で向かってくるところだった。

「呼び止めて申し訳ない」

 手の届く距離まで来ると、京月はいつも通りの爽やかな笑みを振りまいた。距離を空けて見るよりも魅力的に見え、千和はつい後ずさりそうになる。健康的に焼けた肌色、穏やかさを伝える目元、無駄な肉の無い頬、それら全てが彼を年齢より若く演出する。

「な、んですか」

 緊張と驚愕のあまり声が喉に張り付く。あれだけ憧れていても、直接話すのも面と向かうのも初めてなのである。

「君たち、社会学部だよね。この授業取ってる社会学部の生徒は君らしかいないから、ちょっと話聞きたくて」

「話、ですか……?」

 言葉を忘れたような千和に代わり、和泉が対応を引き受ける。

「そんな大層なものじゃないんだ。授業中の英語は聞き取れているか気になっていてね。普段から英語慣れしてる学生向けの授業だから、君らは大丈夫かなってずっと思っていたんだ」

 気遣いからの問いかけに、和泉は整った顔を綻ばす。

「案外大丈夫です。なんとかやってますよ」

 和泉の返答を聞くなり、京月は安心したようにこりと微笑んだ。そしてその笑顔は千和にも向けられる。

「君の方は? 大丈夫そうかな?」

「――は、はい。私も、大丈夫です」

 憧れの存在を目の前にして、思わず声が上ずる。

「そっか、それはよかった。二人とも英語得意なんだね。うちの学部に欲しいくらいだ。もしわからないところあれば聞きにおいで。いつでも大歓迎だから」

 終始穏やかなまま、京月は教室を去っていった。

ドアがぴしゃりと閉まったところで、千和はようやく緊張の糸を切る。

「初めて話した……」

 そっと胸に手を当てる。長距離をランニングするより激しく心臓が動いていた。有酸素運動よりこちらの方がトレーニングとして効果があるかもしれないと意味もなく考える。

「千和、緊張しすぎ」

 珍しいものをみるような目で和泉が言う。ただ、和泉にとっても実際かなりのレアケースだったのだ。

「だって、あの、先生だよ? 緊張しない方がおかしい」

 気持ちの高ぶりからか、やけになっているようだ。ペットボトルに残る半分ほどの水を全て飲み干した。

「別に、俺は普通に話せるし」

 空のペットボトルを潰して息を荒くする千和に、和泉は白けた声で言う。

「はぁー、情緒のない人間だこと」

 やれやれというため息と共に言い放つと、今度は深呼吸を始める。

「でも千和。それより、いつでも大歓迎って……普通、あそこまで言う?」

 和泉からは茶化すような声色が消えていた。

「え、そう? 普通に嬉しいと思ったけど」

 眉をひそめて素直に言う。

「いやだって教授が、だよ? 教える側としての率直な気持ちなのかもしれないけど。いきなり距離詰めてきたから……その、怖いかもって」

 言い返そうと目を上げた千和は、和泉の顔を見るなり、冷や水を浴びたようになる。和泉の怯えとも恐怖ともつかない、暗い顔。それが高揚している千和の心を一気に引き戻した。

 いつもは無遠慮に近寄る者から和泉を護るシェルターであった千和が呑まれ、本来の役割を果たすことができなかった。荒波にさらされたように、和泉の抱えていた不安が露呈する。

「ああ……まぁ、そうね。初めましてにしては、距離は近かったかも」

正気に戻った千和は、ふぅと落ち着いた息を吐く。狭まってた視界が明瞭になり、これまでの夢が覚めた気分だった。

「でも、考え過ぎだよ。あの人は先生なんだから、私らから接触しない限りはそんな接点無いって……ほら、帰ろ」

 和泉に対し、自分に対しても納得させるように言うと、そそくさと荷物を抱えて教室を後にした。

 二人は口数少なに、どこへも寄らず家まで帰る。しかしその結果予定していた食材調達を忘れたため、貧相な食材で適当な食事を作るしかなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る