第3話 再会のサクラシフォンケーキ

 二週間前の曖昧になりつつある記憶を手繰り寄せると、あの日、俺に対応してくれた店員さんも彼女だったことを思い出した。急にフリーズした俺をきょとんとした顔で見つめていたのを覚えている。前世の記憶を思い出すよりは容易い回想だ。

 何故前世を思い出した瞬間にその結論に辿り着けなかったかと言われれば、俺からは「ならお前も一瞬で前世の二十余年分の記憶を全部思い出して下さい」としか言えない。人間のタスクを処理する能力は、突然膨大な数を前にすると簡単にスパークする程度の代物なのだから。


 みけによく似た店員さんは、年頃は俺と同い年かそれ以下に見え、アーモンド形の瞳が猫とよく似ていた。記憶のみけとの相違点をあえて挙げるなら、みけは黒髪を結わずに垂らしていたのに対し、女性店員さんはブリーチかなにかで脱色した髪を三つ編みに編み込んでまとめていた。背丈は俺より低い。そうであってほしいという俺の希望もあるだろうが、前世の頃の身長差とそこまで変わらないだろう。

 特別美人というわけではないが、欠点らしい欠点もない。忍者としてなら非常に役立つ特徴なき特徴だ。

 清潔な衣服や整った髪型、薄化粧から彼女にけして悪くない印象を抱く。


「あの……?」

 呼びかけておいて呆けたように黙った俺に、店員さんは僅かに首を傾げて様子を窺う。その動作までもが、紛れもなく、みけと同じだった。

声も、発声の仕方もなにもかも、俺の愛したみけだった。

 溢れる懐かしさに似た愛しさを堪える。大丈夫、俺は前世に忍者だったのだから、そういう感情や表情の操作もできるはずだ。記憶をフル稼働して、こんなときにどうしていたのか思い出しながら実践する。

 とりあえず全国の都道府県の県庁所在地を思い出すことで平静を保つ。

 香川県の県庁所在地ってどこだっけ。

 じゃなくて。


「シュークリームを七個、お願いします」

「普通のシュークリームでよろしいですか?」

「はい、それで」


 ここは普通のシュー生地のシュークリームのほかに、シュー生地にクッキー生地を被せて焼いたクッキーシューもある。これも美味しいのだが、今日は普通のシュークリームが目的だ。

「出来上がるまで五分ほどかかりますがよろしいでしょうか」

「はい」

「それまでにお会計よろしいですか」

「はい、お願いします」

〈ペチカ〉のシュークリームは注文を受けてからシュー生地にカスタードクリームを入れる。「カスタードクリームがいつも新鮮で美味しいよね」とは、姉の台詞だ。

 それまで待つことになるが、待ち時間に会計を済ませることもできるし、目的以外の美味しそうなケーキや焼き菓子を見られるので案外楽しい。

 ぼーっとしてたら店員さんの手や指先を見て「みけと一緒だ」と思うとてもキモチワルイ奴になりそうなので、店員さんに向きそうになる視線を無理矢理逸らす。

 ショーケースに入っているサクラシフォンケーキが目に入った。


 ――これもきっかけか。

 記憶に追われてろくに味わえなかったが、ある種思い出深いケーキになったものだ。味そのものより一層記憶に残る。

 ――味わえなかった……し、……。


「すみません」

「はい」

 レジを打つ手を止めた店員さんは、パッと俺の方を見た。ほんの少し上目遣いでどきりとする。

 彼女はみけに似ているだけで、みけではないのに……。

 けれども、前世に愛した妻によく似たひとに出会えば、前世の愛情も思い出せてしまう。前世の記憶がある人がこの世にどれだけいるかは知らないが、その零か億か、いるかもしれないしいないかもしれない『みんな』も、そういう心境になったっておかしくないはずだ。

 今世に好きな人が目の前にいれば、それだけドキドキするのと一緒だ。

 ただ俺の場合、その相手が愛する妻に似ている妻でない人なだけで。

 ……ちょっと虚しい。

「追加で、サクラシフォンケーキをひとつください」

「かしこまりました。箱はシュークリームとお分けしますか?」

「はい、お願いします」

 財布には二週間前に姉からのお遣いで小遣いになった金銭がある。財布は特に痛まない。と言い訳を繰り返しながら、俺はもう一度サクラシフォンケーキを買う。


 なんとなく、再会を記念して、という気持ちで。


 ◆


 家から持参してきたエコバッグの中に、大小の箱がひとつずつ。

 ひとつは来客用のお茶請けに買った七つのシュークリーム。そしてもうひとつは残り一個だったサクラシフォンケーキ。

 春の陽気に包まれて、俺は帰宅の途につく。

 桜並木では盛りを過ぎて散りゆく花々が、風に煽られて暖かな吹雪を巻き上げる。

 昨年読んだ本に「満開の桜は人を狂わせる」云々の文言があった。

 俺はそんな桜に狂わされて、前世に忍者だったなどという空想に取り憑かれた大学生なのかもしれない――と思おうとするも、やはり脳のどこかで「前世の記憶は本物だ」と囁く存在がある。


 狂気的である。

 俺を襲う記憶も、それを否定しようと今なお尽力する理性も、やはり記憶は本物なのだと理解してしまう落胆も。

 すべてが本物で、しかし他人に吹聴すれば中二病の誹りは免れず、俺は誰にも相談できない苦悩を抱えて今後生きるしかない。


 ただ――嵐のように吹きすさぶ脳内の情報の奥底を掬い上げようとすると、必ず触れる記憶がある。

 みけに言った言葉だ。


「なあみけ、俺は生まれ変わってもお前を探し出して愛するよ。この魂が朽ちるまで、お前だけを生涯の伴侶とする」


 会いたい――と思った。

 ここまで恋慕していた妻のみけに。

 やっと会えた――と思った。


 向こうからしてみればはた迷惑だろう。狂人の妄想に聞こえるだろう。実際ストーカーの中にはそんな風なありえない理論を用いて対象を追い回した事例だってある。そんな害悪なストーカーになるくらいなら独居老人になった方がマシだ。


 けれど、俺はみけを愛して、みけに宣言したのだ。

 お前を探し出すと。

 お前だけを生涯の伴侶とすると。


 本当に彼女がみけかはまだわからない。

 他人の空似どころか、俺の記憶違いの可能性だってある。

 みけは俺のように転生していないかもしれない。天国でのんびりまったり猫のように生活しているかもしれない。

 そんな冷静さを求める思考とは裏腹に、彼女がみけだと確信している自分は狂人だろうか。


 狂人上等。


 そんな単語が脳裏をよぎって、不敵な笑みが零れる。


 前世は忍者で、前世の妻にそっくりな女性に恋慕して。

 そんな妄想に取り憑かれたと指さされても痛くも痒くもない。

 ただ俺は果たすのだ――みけに宣言した通り。

 彼女を愛し、生涯の伴侶とする約束を。


 まあ、彼女に迷惑にならない方法は、考えた方がいいだろうが。


「まずはどうやって店員と客との関係から先に進むかだな――」

 連絡先を訊ねるなどというナンパのような真似はしたくないし、それはクソ客と呼ばれるアレな人種になってしまう。そうなるとどうにかして彼女と個人的な付き合いをしている人に紹介されて……という手もある。……が、忍者の諜報術として使える手はいくつか思いついたものの、それは前世のあの時代だったから通用したものばかりだった。

 具体的にはネットや連絡機器がないから使えた手段であり、道を尋ねるとか、周辺人物を誘惑して、その……関係を持つ、とか。


 情報化社会ではそれもままならない。

 そもそも今の俺は陽忍向きの顔じゃないし。いや前世も別に陽忍ではなかったな。平凡顔だった。便利だったけど。


 ……意外と忍者だった知識、役に立たないな?

 そこまで考えた辺りで、自宅周辺に辿り着く。悶々と考えるばかりで進展はないが、みけと再会できたことを収穫と捉えることにしよう。

 今まで、彼女への恋慕さえ忘れていた空虚と比べれば儲けものだ。


 特に憂う必要もないが「ふう」と溜息が出る。

 どこかで漂う、桜の香り。

 それは手元の小さな箱から届いているのか、どこか自分の知らないところで咲いている桜の木なのか、わからないまま俺は自宅に帰り着いた。

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