第4話 悪役令嬢は裏切りの元皇太子に希う





 ユリウスが後ずさる気配を感じて、グリシーヌはハッと息を呑んだ。

 意識的に閉じ込めていたはずの想いは、二人きりで星を見上げた瞬間に突如現れて心の出口に殺到した。

 グリシーヌは振り返り、怯えた様子のユリウスと見つめ合う。

 視線を合わせるだけで心の臓が大きく鳴り、甘く苦しい締め付けが生まれた。

 

「グリシーヌ、私は……」

「………」

「すまない、私は……」

「……」


 グリシーヌから目を逸らし、悲しみに耐えるように俯く唇。

 皆まで言わせまいと、グリシーヌは咄嗟に先手を打つ。


「わたくし……怒っているんです」

「……え?」

「ええ、とても傷ついているのですよ。ユリウス様に婚約破棄されて!」

「………」


 にっこりと、無理やり笑顔を浮かべて、強気な自分を演出した。

 グリシーヌは自分自身のことをよく知っている。

 次期皇太子妃として教育された自分は、とても強い女だ。

 が、それと同時に、ユリウスが関係すると、途端に脆くて弱い女になる。

 だから虚勢を張った。

 一方的に婚約破棄されて、一方的に自分の前から去られるあの恐怖と喪失感。

 ……あんなもの、二度と味わいたくない。


「ユリウス様は仰いました。ユリウス様の心の中にわたくしへの愛はない。あるとしたら幼い頃より培ってきた義務感だけだ……って」

「あ、あれは……っ」

「ええ、大層傷つきましたのよ。だからわたくし、決めたのです。絶対ユリウス様に復讐してやろうって」

「……、……え」


 グリシーヌは肩に羽織ったショールを風に靡かせ、フフフと悪戯っぽく笑ってみせた。

 あの時のユリウスの言葉が嘘だったということは、いちいち説明されなくてもわかっている。けれど偽りの言葉でも充分傷ついてしまうほどに、グリシーヌはユリウスを慕っていた。


 だからこうして最高の復讐の場を用意した。

 国王陛下に領地替えを願い、ユリウスの身柄をこのオルディムに追放してもらい、自分が用意した籠の中に閉じ込めたのだ。

 

「お気の毒ですわね、ユリウス様。これからあなたは愛してもいない女に庇護され、その顔を毎日見ながら過ごさねばならないのです」

「……」

「そうそう、明日になったら好物のクランベリーパイを焼きましょう。愛してもいない女の手作り菓子を食べるのも、さぞ屈辱的でしょうね」

「グリシーヌ……」

「でもどんなに嫌がっても、あなたはこのオルディムという監獄から逃げることはできないのです。五年経っても、十年経っても……ええ、多分一生。あなたは愛してもいない女と暮らし続けねばならないのですわ」

「……グリシーヌ、私は」

「お黙りになって! 今はわたくしが喋っているのです!!」

「――」


 グリシーヌはややヒステリックな声で、ユリウスの言葉を遮った。

 冷静に話しているはずなのに、胸の中に燻る葛藤と焦りが、思考と言動を鈍らせる。

 今日、この日を迎えるまで、グリシーヌは足場の悪い道を進んでいるような不安定さを抱えてきた。それでも大丈夫、きっと大丈夫だと恐怖から目を逸らし、自らを鼓舞し続けてきた。

 だがどれだけ進んでも進んでも、暗闇は晴れない。いや、むしろ進めば進むほど底のない沼にはまり、グリシーヌの心と体は不安という鎖で雁字搦めにされてしまう。



「グリシーヌ、私はもう永くない」

「!」



 そしてこのタイミングでユリウスは言うのだ。

 絶対に言ってほしくない、最悪の言葉を。

 だけど一番に、自分に打ち明けてほしかった言葉を。


 いつの間にかグリシーヌの視界は滲んでぼやけていた。


 わからない。

 もう何も。

 わからない。


 すぐ近くでユリウスが辛そうに息を呑みこむような気配だけがして、グリシーヌはその場に立ち尽くした。


「君ももう知ってると思うが、私は肺をやられている。余命は一年もない。君が望むなら……」

「………」

「君が望んでくれるなら、共に生きたかった。だけど私に残された時間はあまりにも少ない」

「………」


 だから……とひび割れたユリウスの声が、星空の下で静かに響いた。


「もういい。いいんだ。私のことは忘れて、王都に戻りなさい。王都に戻れば新しい幸せだって――」

「死にませんわっ!!」

「っ!」


 次の瞬間、魂の叫びが涙と共に迸った。グリシーヌは振り向きざま、ドンッと両手でユリウスの胸元を叩いた。

 ユリウスがよろけるのにも構わず、さらにドンドンッと拳で叩き続ける。


「死にません……ユリウス様は死にません! 同じ病気にかかったジェイクだって、今はあんなに元気じゃないですか!」

「私とジェイクでは基礎体力が違う。グリシーヌ、頼む、聞き分けてくれ」

「そんなの聞きません! 聞きませんっ! ユリウス様は死にません! きれいな空気と、きれいな水と、豊かな自然の中で暮らせばきっと……きっと……!」

「………」


 グリシーヌの泣きっぷりは、まるで迷子になった子供そのものだった。

 どれほどの建前を用意しても、ユリウスに死んでほしくない――グリシーヌの願いは、ただそれだけなのだ。


 未来のない恋だと、さっさと諦めてしまえればどれだけ楽だっただろう。

 仕方のない運命だと、別れを選べればどれだけ楽だったろう。


 けれどグリシーヌはそのどちらも選べなかった。

 たとえ未来がなくても、仕方のない運命だと悟っても、最後まで足搔くことをやめたくなかった。

 

 


 だって愛してるから。


 あんなみっともない婚約破棄の茶番を演じた愚かな皇太子を――


 今も心から愛しているのだ。





「参った、な……」


 対するユリウスも、わぁわぁと自分の腕の中で泣き続ける少女に、万感の思いを抱いていた。

 一度は手放す覚悟を決めたのに、こうして傷ついた小鳥のように自分の腕の中に戻ってきてしまったグリシーヌ。

 その手を二度離せるほど、自分の心は決して強くない。

 

 ……どれだけ強く求められているのか。

 どれだけ必要とされているのか。

 胸が苦しくなるほどに痛感した。


 それに彼女の幸せを願いながら、他の男と幸せになってほしくないと思っている矛盾も、確かに自分の中に存在している。

 納得しようとした。

 けれど、グリシーヌが他の男と並んでいる姿を想像するたびに、まるで喉元に何かが痞えて、胸が圧迫されるようなもどかしさを感じていた。


 そんなユリウスの迷いをグリシーヌがたった一言で覆す。

 まるで神から与えられた宣託のように。


「新しい幸せなんて、いらない……」

「……え」


 グリシーヌの言葉が、ユリウスにはまるで新世界の音のように響いた。

 言葉は幾重にも重なる残響となって、ユリウスの心を根本から揺らす。

 

「たとえそれがどれだけ短い日々であったとしても、私はユリウス様と共にいられる不幸がいい……」

「……」

「どうかわたくしと共に不幸になる覚悟を決めて下さいませ、ユリウス様……」

「……っ!」


 グリシーヌは笑った。

 ユリウスの腕の中で、花のように笑った。


 もうダメだった。

 ユリウスは弾かれたように、泣き濡れた顔をあげる。


 ……星が降る。

 いつの間にか流れ始めた流星群は瞬く間に数を増やし、夜空を白い軌跡で埋め尽くしていった。

 いつかユリウス自身も、あの星の一部となって、流れて行ってしまうのだろうか。

 いや、たとえそうだとしても。


 ……グリシーヌから告げられた告白の、なんと愛しく尊いことか。

 それは形もなく色もなく、手で触れることすらかなわないのに。

 満ち溢れる。

 まるで天から降り注ぐ日差しのように眩くて、無垢で、ただひたすら温かな想い。


「仕方ない……な……」


 とうとうユリウスは白旗を上げた。

 一体どれだけの時間が自分に残されているかはわからないが、それでも最期まで。

 グリシーヌが望んでくれるなら、命尽きるその刹那の瞬間まで。

 彼女のいう復讐とやらに付き合ってみようか……という気になったのだ。


「どうかお手柔らかに頼むよ、グリシーヌ」

「……え?」

「君の望むとおり、私はこれからオルディムという監獄に囚われ続けよう。願わくば五年、十年……と、君のそばにいられるように」

「……っ」


 ユリウスの告白を受けて、グリシーヌの目の淵からまた大量の熱が溢れた。

 二人は一つのショールを分け合い、固く手と手を握り合う。

 吐く息は真白で、世界は冷たい風に満たされているのに、ショール一枚被っただけの身体は驚くほど温かかった。

 グリシーヌは軽く肩をすくめて、クスリと微笑む。



「当然でございますわよ。わたくしの心を傷つけた罪は、一生かけて償ってくださいませ」



 ――それが約束。

 破棄された婚約の代わりに結ばれた、新しい約束。


 少し意地っ張りで、でも実は泣き虫な公爵令嬢の想いは、愚かな皇太子にやっと届いたのだった――























 後に、『星と雪の都』と称されるほどに発展したオルディムには、初代辺境伯夫婦についての資料が残されている。


 街の基礎を築いたのは、聡明なことで有名な女辺境伯。

 そしてその右腕となり補佐したのは、かつて皇太子だった夫。


 二人の尽力の結果、オルディムは冬の景勝地として名を馳せることとなり、現在の繁栄が約束されたのだ。


 だがあいにくと女辺境伯の夫は、24歳の若さで逝去している。

 その後、女辺境伯には数多くの再婚話が持ち上がったが、彼女は生涯独身を貫いた。


 後に夫との間に儲けた一子が女辺境伯の跡を継ぎ、オルディムをさらに発展させていった。特に肺病に関する研究が進み、オルディムは医学の街としての側面も成長させていった。



 そしてオルディム郊外には、初代辺境伯夫婦の墓も残されていて、次のような墓標が刻まれている。



『愚かな皇太子と、その皇太子を愛した愚かな令嬢 ――この地にて安らかに眠る』



 それはひたむきな、ある夫婦の恋の物語。


 一人の令嬢が希った、奇跡の記録でもある。











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悪役令嬢は裏切りの元皇太子に希う 相模六花 @rikka-sagami

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