第3話 辺境で待つ者





 オルディム城の玄関ホールには、教会のような大きなステンドグラスが飾られていた。その七色の反射光を浴びるのは、女神のように神々しいグリシーヌ=ウィステリア。

 そんな場合じゃないというのに、ユリウスはグリシーヌに視線を奪われる。

 鼓動さえも、止まる。

 狭まる喉を押し広げるように、ごくりと唾を飲みこんだ。


「グリシーヌ、なぜ君が……」

「……」


 グリシーヌの青の双眸は、なんの感情の色も映していなかった。

 ただまっすぐに、ひたすらユリウスだけを見つめている。

 その視線に耐えられず、思わず逸らしたのはユリウスのほう。

 何か……もっと何か言わなきゃと思うのに気ばかりが焦り、口の中がからからに乾いた。


「まぁまぁ、殿下! ようやくお着きになったのですね! お待ちしておりましたよ!」

「!」


 そんな緊張の糸を破ったのは、ホール全体に響く明るい声だった。

 奥の扉から姿を現したのは、ユリウスのよく見知った顔。王都に置いてきたはずの、その人物の名は――


「マイア!?」

「ええ、ええ、私でございますよ。まぁまぁ、こんなに手が冷たくなって。サロンに温かいお茶を用意してございます。さ、ユリウス殿下、こちらへどうぞ! ついでにジェイクも」

「俺はついでですかい。いや、それにしてもこいつは驚いた」


 ユリウスの隣に立つジェイクも、グリシーヌとマイアの登場には度肝を抜かれたようだ。

 なぜなら二人とも、ユリウスが苦渋の想いで切り捨ててきた二人なのだ。 

 それがなぜか今、当たり前のようにユリウスの前に存在している。

 混乱するなというほうが、無理な話だった。


「マイア」

「はい、グリシーヌ様」


 そんな中、グリシーヌは踵を返し、再び階段を上り始める。


「私はまだ執務が残っているから、ユリウス様のお相手はできないの。後のことは任せていいかしら?」

「ええ、もちろんでございますよ。何かあったら、お呼び下さいませ」

「ありがとう」


 グリシーヌは優雅に微笑むと、自分の執務室に戻るために階段を上がっていった。

 ユリウスはとっさに、


「グリシーヌ!」


 と再び名を叫んだが、グリシーヌはユリウスを一瞥しただけで、すぐに二階へと消えてしまった。








(一体どういうことだ。王都にいるはずのグリシーヌがなぜオルディムに……)

 

 サロンへと案内された後も、ユリウスは混乱の極みにいた。冷静に考えれば導き出される答えは一つしかないが、その事実をユリウスの脳は頑なに拒否している。


「さぁさ、外は寒かったでしょう。お茶と一緒に昼食もご用意しましたよ」


 そんな中、マイアだけがニコニコと嬉しそうに、ユリウスの世話を甲斐甲斐しく焼いていた。

 否、マイアだけでなく。

 よく見ればマイアの補助をしているメイド数人は、かつてユリウスに仕えてくれていた者達だった。


「お久しぶりです、殿下」

「お元気そうで何よりです」

「こちら殿下のお好きなアプリコットティーです。熱いから気を付けてくださいね」

「お前達……」


 さらにドアを開けて飛び込んできたのは、この城に勤める衛兵集団。

 衛兵たちは部屋の中に駆け込むなり、ユリウスとジェイクの前で一直線に並び敬礼した。


「殿下、お着きになられたのですね!」

「おいコラ、もう殿下じゃなく、ユリウス様ってお呼びしなきゃ」

「ジェイク隊長もお久しぶりです! 長旅ご苦労様でした!」

「おいおいおいおい、こりゃ参ったなぁ……」


 ジェイクはボリボリと頭を掻いて、苦笑しながら降参のジェスチャーをした。

 二人の前に現れたのはかつて、王城で働いていた騎士や兵士達だ。中には将来を嘱望されていた貴重な人材までいる。

 おそらくユリウスが皇太子を廃された後、任を解かれた者達の中から希望者を募り、グリシーヌが直々にスカウトしたのだろう。


「参りましたね。こりゃグリシーヌ様のほうが何枚も上手だ……」

「言うな。言われなくてもわかってる……」


 ユリウスはソファに腰掛けたまま、頭を抱えた。

 この見事すぎる手際、さすがはグリシーヌ……と認めざるを得ない。

 おそらくこの分では、ユリウスが最後まで隠し通したかった秘密も、とっくにバレているだろう。

 結局、ユリウス一世一代の大芝居も、全て無駄になってしまったのだ。

 ユリウスは決して、こんな結果を望んでいたわけではないのに。


「ユリウス様、この城、とても暖かいでしょう? グリシーヌ様からお聞きしたんですが、何でもオルディムには活火山がいくつかあって、地熱を利用した新しい暖房技術が開発されたらしいんです」


 ユリウスの気持ちも知らず、すっかり浮かれているマイアは聞いてもいないことをペラペラとよく喋る。


「グリシーヌ様はいち早くこのオルディムに赴任され、城中にその新技術を導入なさったんです。ですからどんなに寒い冬でも大丈夫。ユリウス様に生活のご不便はおかけしませんよ」

「……」


 そう言って差し出されたのは、王宮で食べていたものと何ら遜色ない温かな食事だった。

 そのあと城の中を見て回って判明したが、ユリウスのために用意された部屋も幽閉するためのものではなく、温かなベッド、木のぬくもりを感じされる調度品の数々など、咎人が住むにはあまりにも贅沢すぎる物だった。

 しかも城の中には医者と看護師が常駐しているという徹底ぶり。

 ただただ呆然とするしかないユリウスの肩を、ジェイクがポンポンと二度叩いた。


「ユリウス様、これはあれだ、潔く観念しないといけない奴です。残念ですが、ユリウス様じゃグリシーヌ様には勝てねぇ……」

「………」


 言われなくてもわかっている……と、ユリウスは本日二度目の敗北感に打ちのめされる結果となった。

 さらに敗北感と同時にこみ上げるのは、グリシーヌに対する理不尽な怒りともいうべき感情だった。

 




               ◇◆◇





 冴えた白い月が中天に昇る――夜半過ぎ。

 一人執務室で残業していたグリシーヌを、訪ねる者があった。グリシーヌは膨大な量の書類に目を通しながら、机の前に立つ人物を見上げる。

 アッシュグレーの瞳を眇め、何やら物言いたげなユリウス。眉間に刻まれた皺は、思いのほか深い。

 そろそろ痺れを切らしてやってくると思ってはいたけど……。

 グリシーヌはトントンと人差し指でこめかみを叩きながら、心の中で嘆息した。


「グリシーヌ、話がある」

「申し訳ございません、まだ執務が残っておりますので」

「五分でいい。話を聞いてくれないか」

「……」


 唇を強く引き結んだユリウスは、一歩も引かぬ構えだ。

 グリシーヌはちらりと空席になっている秘書机を見る。

 仕方ない。ずるずる先延ばしにしても、いつかはちゃんと伝えなければいけないことだ。

 グリシーヌは自分の机に山のように積まれていた書類の一部をユリウスに渡し、空の秘書机を指さした。


「では話を聞いて差し上げますので、その前に仕事を手伝ってください」

「……え?」

「働かざる者、食うべからず……と申しますでしょう? この城で暮らす以上、ユリウス様も働いて下さい。とりあえずは書類の仕分けを手伝って下さるとありがたいですわ」

「………」


 ユリウスはいったん大きく口を開きかけて、だがすぐにグリシーヌの言葉を咀嚼し、秘書机に座った。そして言われた通り書類の仕分けを始める。


「すごい量だ……」

「………」

「いつもこんなにたくさんの仕事を一人で?」

「それが辺境伯としての責務ですので」


 グリシーヌは書類にサインしながら、ユリウスの質問に淡々と答える。そんな二人の横顔を、オレンジ色のランプが煌々と照らしていた。


「やはり君がオルディム辺境伯なのか……」

「……ええ」

「でも今までそんな話、聞いたことない」

「そりゃあそうでしょうとも。わたくし、陛下に領地替えを希望しましたの」

「領地替え?」


 グリシーヌは書類から目を離さないまま、この地にやってくることになった経緯を説明した。


 元々グリシーヌは亡き祖父からある地方の領地を分け与えられていて、個人で伯爵位も保持していた。そしてあの婚約破棄騒動の直後、国王陛下に自分の領地とオルディム領の交換を願い出たのだ。

 この話には元オルディム領主も飛びついた。何せオルディムは見たとおりの辺境。それが王都に近い領地に変更になるなら、これほど美味しい話はない。

 父であるウィステリア公も、グリシーヌが選んだ道を尊重してくれた。前々からユリウスのことについて相談していたから、グリシーヌの最初で最後のわがままもすんなり許してくれたのだ。


「なぜだ? なぜそんな馬鹿な真似をした!? そんなことをしなくても、君は皇太子妃になれたはずだ!」


 そこまで聞いて、ユリウスは椅子から立ち上がって激高した。

 だけどユリウスが熱くなればなるほど、グリシーヌの心の温度は逆に下がっていく。


 ――やはりこの方は、わたくしをマルセル殿下にお譲りするつもりだったんだわ……。


 落胆に近い感情が首をもたげ、グリシーヌは深く俯いた。胸の奥がズキンッと傷み、その傷口から粘性の膿が染み出してくるような気がした。


「皇太子妃の件なら、丁重にお断りしました」

「だから、なぜ!? 皇太子妃の座を蹴り、わざわざ何の見込みもない辺境に飛ばされるなんて、正気の沙汰じゃない!」

「………」


 ぐしゃりと書類を握りつぶすユリウスこそ正気を失っている……とグリシーヌは思う。それまで走らせていたペンを止め、改めてユリウスに向き直る。


「何の見込みもない……ですか」

「………」

「ユリウス様、あなたの目は節穴ですか? 今握りつぶしている書類の中身を見ても、同じことが言えまして?」

「――え?」


 グリシーヌの厳しい視線に射抜かれ、ユリウスは一瞬ひるんだ。

 言われた通り、慌てて目の前の書類にざっと目を通してみると、グリシーヌの言わんとしていることが、朧気にわかってくる。


「これは……。なるほど、そうか……」

「………」

「そういう意味か……」


 グリシーヌはこの時、ユリウスの瞳が輝くのをしっかりと確認した。

 そもそもユリウスは都で噂されているほど、愚かでも無能でもない。むしろ婚約破棄の件ではグリシーヌを出し抜くほど、用意周到な一面がある。グリシーヌはユリウスの計画に薄々気づき、何とか阻止できないかと苦心していたが、結局あの茶番を決行されてしまったのだから。

 それにいくらグリシーヌが声をかけたとしても、ユリウス自身に人徳がなければ、オルディムにこれほどの人は集まらなかっただろう。

 ユリウスは自己評価が低い嫌いがあるので、決して認めようとはしないだろうが。


「地熱を利用する暖房についてはマイアから聞いていた。けれどそれを農業に応用し、一年中安定した収穫を目指すのか」

「その他にも、このオルディムには様々な可能性がありましてよ」


 グリシーヌは自分の書類の中から、別の資料を手渡す。


「オルディムはウィンタースポーツが盛んな土地ですの。寒冷な気候も毎年必要な積雪量を期待できるという利点に変わります。王都の貴族や民にウィンタースポーツの楽しさを宣伝し、誘致すれば、この地は観光地として栄えることができますわ」

「………」


 すっかりグリシーヌにやり込められたユリウスは、無言になった。

 確かにこの計画書が実現すれば、オルディムは辺境というイメージから抜け出し、新しい北の都として注目を浴びるかもしれない。

 未来の皇太子妃として教育を受けていたグリシーヌが優秀なことは知っていたが、まさかここまでとは思わなかった。


「それに……」

「……?」


 グリシーヌはおもむろに席を立つと、バルコニーへと続く窓を全開にした。

 刹那、肌を刺すような冷たい風が吹き込んでくる。

 ユリウスは慌てて椅子に掛けてあったショールを手に取り、グリシーヌの後を追ってバルコニーに出た。


「何をしている、そんなところにいたら風邪をひいてしまう」

「ユリウス様、ほら、ご覧になって。空には満天の星」

「……え」

「空気が澄んでいるからでしょう。王都ではめったに見られない星が、ここではこんなに綺麗に見えましてよ」

「――」


 グリシーヌに言われるまま視線を上げれば、確かに夜空には幾千、幾万もの星の宝石が散りばめられていた。

 しかも季節柄なのか、時折ちらり、はらりと、流星が落ちるのが見える。

 ユリウスは寒さも忘れ、しばらくの間、星の美しさに見入った。

 確かにこのように眩い夜空は、王都にいたら見ることはできなかっただろう。


「オルディムは美しい空気と、美しい水に恵まれた土地です。だからきっと……きっとここで暮らしていれば……」

「……え?」

「きっと良くなります、ユリウス様のご病気も」

「っ!」


 ユリウスがグリシーヌの肩にショールをかけた瞬間、とうとう決定的な言葉が飛び出した。

 ユリウスは心臓を鷲掴みにされるような衝撃を覚えながら、そっとグリシーヌのそばから離れるのだった。






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