第2話 王都を去る者





 衝撃の婚約破棄騒動から、はや二カ月が過ぎ。

 エルナヴァル王国ではいよいよマルセル皇子の立太子の儀が執り行われることになった。

 王都民は新しい皇太子の誕生を心から寿ぎ、あちらこちらで華やかな祭りが開かれている。

 

 そんな中、人知れず王都を離れる一台の馬車があった。

 下級貴族が使うような質素でボロボロの荷馬車。

 その中にはかつて栄華を極めたある人物が乗っていた。


「これから向かうオルディム領ってところはどんな土地なんでしょうかねぇ……」

「………」


 馬車の椅子に腰掛けるのは、一人は大柄で屈強な男。

 一人は容姿端麗だが、どこか陰りのある貴人。

 王都を追放され、オルディム領にて生涯幽閉されることが決まった元皇太子――ユリウス=ヴァン=エルナヴァルとその従者である。


「さてな。噂では雪と岩山だらけの辺境と聞く。愚かな元皇太子の終の棲家として、うってつけの場所だろう」

「自虐的ですねぇ。でも俺は美味い酒があれば、どこだろうと満足ですよ」

「美味い酒がある可能性は、かなり低いと思うがな。ジェイク、なぜこの状況で、そこまで楽観できるんだ。ざっくばらんにもほどがある」

「ガハハハハッ、ユリウス様、どうせだから夢は大きく持ちましょうよ。どんな田舎も住めば都というじゃないですか!」


 ジェイクと呼ばれた元騎士は、大口を開けて豪快に笑った。

 ユリウスは一つため息をつき、馬車の外へと目を向ける。

 ……と、自分を護送する何人かの騎士たちが、つまらなさそうに欠伸をしている姿が目に入った。


 王都では今頃、マルセルの立太子の儀が華々しく行われているだろう。おそらくその場には、公爵令嬢であるグリシーヌの姿もあるはずだ。

 まだ正式には発表されていないが、マルセルの婚約者にはグリシーヌが選ばれる……とユリウスは踏んでいる。

 なぜなら彼女は美しいだけでなく、皇太子妃として充分な資質を持っているから。

 心強く、凛としていて、聡明で、しかも他人を思いやる慈母の心も兼ね備えている。

 彼女ならばきっと歴史に残るような皇后となれる。

 ユリウスの勘は、ほぼ確信に近かった。


「あーあ、そこまで入れ込んでて、なんで簡単に諦めちまうんですかねぇ……」

「……ジェイク」


 ユリウスは、隣に座るジェイクを強く睨めつけた。

 自分が今誰を思い出しているのか、目敏く見抜いたのだろう。だが今は見て見ぬふりをしてほしかった。


「諦めたわけではない。彼女が彼女らしく生きられるよう、道を違えただけだ。そういうお前こそ、なぜついてきた」


 ――都でも〝 うつけ〟と評判の、元皇太子に。


 不貞腐れながら尋ねると、ジェイクは白い歯をむき出しにして、また笑った。


「だって俺はユリウス様がいなけりゃ、とっくに死んでいた身ですからねぇ。他の金魚の糞と一緒にしないで下さいよ。近衛騎士なんて身分に、これっぽっちも未練はありません。ユリウス様が辺境に行きなさるというなら辺境に。地獄に行くというなら地獄にだってついていきますよ」

「……はぁ、全く物好きな」


 ユリウスは本日二度目のため息をついた。

 だがジェイクの存在が、ユリウスの心の慰めになったことは事実だ。


 皇太子の身分を剥奪された後、ユリウスは王家にゆかりのある貴族の別館に蟄居謹慎を申しつけられた。

 もちろん歴史に残る醜聞を起こした元王太子を訪ねてくる貴族などなく、ユリウスの身柄を預かることになった館の者達の態度も、非常に余所余所しいものだった。


 そんな中、厳しい監視の目をかいくぐって面会を申し出てくれたのがこのジェイクと、元乳母のマイアだったのだ。

 特に生まれた頃よりユリウスを可愛がってくれたマイアは、


『私のお育ての仕方が悪かったのでしょうか。ならばこの乳母も殿下と同じ罪を背負うべきでしょう』


 と、さめざめと泣き崩れた。

 その姿に心が痛まなかったかと問われれば、もちろん痛んだと答えるしかないが、過ぎてしまったことは、もうどうしようもない。

 だから辺境のオルディムへの追放・幽閉が決まった時、絶対についていくと強硬に言い放ったマイアを「もう年なのだから無理はするな」と必死に説き伏せたのだ。

 もちろんマイアだけでなく元近衛騎士だったジェイクも連れていく気はなかったが、今朝王都を旅立つ時に、彼は当たり前のようにユリウスの前に現れ、護送の馬車にサッと乗り込んだ。

 有言実行を地で行くこの男の気性をよく知っていたユリウスは、結局彼の随行を仕方なく許すことにしたのだった。


 



 そして馬車は行く。

 ごとごと、ごとごと――と。

 車輪が一回りする毎に、華やかで美しい王都は遠ざかっていく。

 あっという間に流れていく風景を尻目に、ジェイクはぽつりと呟いた。


「にしても、他の奴らは本当に薄情だ。一体今までユリウス様の何を見てきたって言うんですかねぇ。ちょっと考えれば、ユリウス様があの女に騙される訳がないって、簡単にわかりそうなものを」

「そこは私を褒める場面だろう、ジェイク。何せ3カ月以上かけて、少しずつ準備したからな」


 ユリウスはいたずらが成功した子供のように、ニッと笑う。

 事の始まりは、半年以上前のこと。ユリウスの耳に不穏な噂が届くようになったのだ。

 ユリウスにとっては従兄弟にあたり、宰相の息子であるパトリックが、最近一人の少女に入れあげている。しかも同じ少女に第4騎士団団長のオリヴィエも急接近していて、パトリックとオリヴィエの仲が険悪化している……と。


 噂は本当だった。

 いや、むしろ噂に聞くよりも状況は悪くなっていた。

 何せデイジー=ステファノス男爵令嬢を騙っていたあの女は、男を騙すことにかけては天才的だったから。

 パトリックやオリヴィエだけでなく、出世頭と噂される若い文官や、教皇庁の神官長まで、その毒牙にかかっていた。ざっと調べただけで十人以上の男と関係していたのだから、やはりデイジーはとんでもない悪女だったのだろう。


「しかもあの女、マルセル殿下にまで近づこうとしていましたからねぇ。本当、図太いアマだ……」

「……」


 ジェイクはペッと窓の外に唾を吐き、デイジーに対する嫌悪感を露わにした。

 そうなのだ。デイジーは最初、ユリウスではなく婚約者のいないマルセルを狙っていたのだ。

 もちろん皇太子としての権限を使い、デイジーを排除することはいつでも可能だった。

 しかしユリウスはふと、思いついてしまったのだ。

 かねてより立てていた計画に、この女は利用できる。

 いや、この女が計画を成功させるための重要なカギだ――と。


 だから。

 

『やあ、君がパトリックが夢中になっているという男爵令嬢かい? 確かに可愛らしいね』

『ま、まぁ、ユリウス殿下……』


 ユリウスは慎重に、他人の目から見ても不審がられないよう、時間をかけてデイジーとの距離を詰めていった。

 デイジーのほうもまさか皇太子のほうから声をかけてくるとは思っていなかったらしく、ちょっと鼻先に餌を垂らせば、尻尾を振って食いついてきた。


 そうしてユリウスは少しずつ……少しずつグリシーヌから離れ、デイジーに夢中になる愚かな男を演じた。

 極めつけは、あの舞踏会での婚約破棄騒動だ。

 元々デイジーが犯した罪について、ユリウスは全て把握していた。だがグリシーヌならば自分が助け舟を出さなくても、おそらくデイジーの真実に辿り着くだろうと思っていた。

 そしてグリシーヌは見事その期待に応え、最高のタイミングでデイジーの罪を暴いてくれたのだ。

 あの後、デイジーは極刑に処せられたらしいが、今となっては興味もない。

 ただデイジーのおかげでユリウスはグリシーヌの名誉を一切傷つけず、かつ自分の評価だけを下げる形で、愚かな皇太子を最後まで演じきることができた。その点だけは、心から感謝している。


「いやいや、あれは少し演技がオーバー過ぎましたかねぇ。俺、脇で見ていて笑い出しそうになりましたよ」

「あのな、あれでも私は真剣だったんだぞ」


 ユリウスは少し強めにジェイクを肘で小突く。

 実際、あの婚約破棄騒動の時、ユリウスはとにかく聡いグリシーヌに自分の真意がバレぬよう苦心していた。

 



 ……そう、グリシーヌが何の未練もなく自分という男を見限ってくれるよう、縋るような気持ちで神に祈っていたのだ。




 どうか。

 どうか、こんな愚かな男のことはすぐに忘れてくれますように。

 

 どうか。

 どうか、美しくて優しい君だけでも幸せになってくれますように。


 


 そのためだけに、ユリウスは皇太子の地位を捨てた。

 後悔など一切なかった。

 幼い頃よりずっとずっと、自分の後をついてきてくれた美しい少女。

 ユリウスはいつだって、彼女に恋をしていた。


『ユリウス様、ユリウス様!』

『私頑張ってユリウス様に相応しい皇太子妃になります!』

『ユリウス様、甘いものがお好きって本当ですか? 私、クランベリーパイを焼いて来ました!』


 始めは政略で結んだ婚約だった。

 それでも自分に向けられるまっすぐな好意に、胸が高鳴らない日はなかった。


 あのままずっと、彼女と共にいられたらどんなに良かっただろう。

 彼女と結婚し、たくさんの子供に恵まれて、王とその妃としての天寿を全うできれば、どれほど幸せだっただろう。


 だけど現実にはそうならなかった。

 神は無慈悲だった。

 ある日突然、お前はグリシーヌにはふさわしくない男だと、残酷な烙印を押されたのだ。


「ごほ………っ、………ッ、う、ぐ……っ!」

「殿下!」


 もう殿下ではない!……という言葉さえも、激しい咳のせいで発することができなかった。

 胸の奥からこみ上げる不快な感覚は、激しい咳となって体外に押し出される。

 前屈みに体を折った瞬間、胸郭全体に激痛が走った。


 呼吸がしづらい。

 酸素が足りない。

 苦しい。

 苦しい。

 苦しい……!


 何とか咳を抑え込もうと口元に手を添えれば、真っ赤な血だまりがすぐにできる。

 口の中だけでなく、体全体に鉄錆の味が広がるような気がした。


 ジェイクが背中をさすってくれる間に大きく息を吸い込み、何とか発作をやり過ごす。着ていた服の襟元は鮮血に染まり、馬車の中も細かな血しぶきで汚れてしまった。


「殿下……」

「すまない、もう……大丈夫、だ。最…近…発作の間隔が長くなってて……つい、油、断してた……っ」

「………」


 ユリウスは口元の血を拭いながら、ゼイゼイと必死に息を均す。

 肺をやられてから、もう一年近く経つ。病状は良くなるどころか、悪くなる一方だ。

 王宮の侍医の診立てによれば、余命は一年もないだろうとのことだった。

 もちろんこれはユリウスと、ごくごく近しい者だけの秘密だ。

 グリシーヌはおろか、実の父である国王、実の母でもある皇后にも伝えていない。伝えたら最後、王も、皇后も、グリシーヌも、躍起になってユリウスを救おうとするだろう。

 だがそれでは皆が不幸になるだけだ。

 特に母である皇后は――





 王家の血の濃さにこだわり、権力をふるうことに取り憑かれている母は、あらゆる手段を使って自分を生かそうとするだろう。


 例え自分が生きる幽鬼のような状態になっても。


 例え骨と皮だけになって、自らの意思を発せないような悲惨な状態になっても。


 自らの地位と権威を守るために、ありとあらゆる手段を使ってユリウスを生かして王の位に押し上げていたに違いない。


 だから必要だったのだ。


 母の野心を打ち砕くために……


 どれほど正統な後継者であっても必ず廃嫡されるような、


 完全無欠な婚約破棄の理由が、ユリウスには必要だったのだ――





「ユリウス様。深く呼吸して、心を落ち着かせてください。なぁに、肺の病なんて気の持ちようです。実際、昔俺も肺を患いましたが今はホレこの通り、ピンピンしてますよ」

「お、お前のような頑丈すぎる男と、比べても……な」


 ユリウスは笑った。

 わずかに涙を滲ませながら笑った。


 どれだけ悪態をついても、やはりこうして自分についてきてくれたジェイクの存在に、心救われている。

 ジェイクは肺病に耐性があり、感染させる危険性が少ないというのもありがたかった。

 不甲斐ない主人で申し訳ないと思うが、どうせあと少しで死んでしまう身。少しくらいは、その善意に甘えてしまってもいいだろう。


(グリシーヌ、君まで巻き込むわけにはいかなかった。だからどうか幸せに……。私のことは綺麗さっぱり忘れてほしい……)


 ユリウスは暗くなり始めた夜空を見上げながら、祈る。

 目の前には美しい群青色と橙色のグラデーションが広がっているのに、地上にはただひたすら醜悪な血の匂いが充満している。

 その血の臭いはやがて一本の道となり、ユリウスを死の世界へといざなおうとしているように思えた。










 ユリウスとジェイクがオルディム領に到着したのは、王都を出て六日目のことだった。

 噂に聞いていた通り、オルディムは雪と岩山に閉ざされた狭い渓谷であり、その地形自体がまるで一つの檻のようでもあった。

 王都はまだ初秋の陽気だというのに、オルディムではすでに初雪が観測されているらしい。あらかじめ用意されていたローブに身を包んでも、足の底からどんどん冷気が立ち上ってくる。

 肺を患っているユリウスにとって、オルディムの環境はあまりに厳しすぎるように思えた。ジェイクは自分の羽織っていたローブを脱いで、ユリウスに重ね着させる。


「ジェイク、だめだ、それではお前が凍えてしまう」

「バカにしないで下さい。これくらいの寒さなんて気合で吹き飛ばしてやりますよ。ところでオルディム辺境伯の城って言うのは、あれでしょうかねぇ」


 ジェイクは馬車の中から身を乗り出し、その先に見える霧の城を確認した。

 まるでたくさんの尖塔を一か所に集めたような、細長い建物。それがこの地を治め、ユリウスを幽閉する役目を命じられたオルディム辺境伯の根城だ。


 ユリウスは無意識に手足を丸め、小さく身を竦ませた。

 自分のしたことに後悔はないが、やはりこれからどんな極悪な環境下に置かれるのかと思うと気が重い。

 ならばいっそすぐにでも死んでしまいたい……と、多少やさぐれた気分になってしまうのだった。







 それから約30分後。

 ユリウスの身柄は王国騎士団から辺境伯の衛兵へと厳重に引き渡された。

 無表情の衛兵は閉ざされていた門を開くと、


「ではこちらへ」


 と、ユリウスとジェイクを城の中まで案内した。

 一体どんな監獄だろうか……と身構えていたものの、その期待は意外な方向に裏切られる。

 扉を開けた途端、あれほど辛かった寒気が一気に和らぐ。まるで春のような陽気が二人を包みこみ、冷え切っていた体温を上昇させた。

 玄関ホールにはいくつものライトが点けられていて、思っていた以上に明るい。よく見れば至る所に花も飾られている。

 もっと殺伐とした風景を思い描いていたユリウスは、ある意味拍子抜けした。



「ようこそ、我がオルディム領へ」

「!」



 ユリウスの到着と同時に、玄関ホールの大階段の上から辺境伯が姿を現した。

 コツコツと高く響くハイヒールの音。

 しゃなり、しゃなりとゆるやかに揺れるのは、ドレープドレスの裾。


 ユリウスは逆光を浴びるそのシルエットを目にした刹那、驚愕した。

 

 嘘だ。

 そんなはずはない。

 ここにいないはずの君が、どうしてここに――


 ユリウスが瞬きもできずに呆然とする中、辺境伯はユリウスを見下ろしつつ、嫣然と微笑んだ。




「ごきげんよう、ユリウス様。お待ちしていましたわ」




 それはグリシーヌ。


 かつての婚約者・グリシーヌ=ウィステリアは、この極寒の地で囚人たるユリウスを、静かに待ち構えていた。





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