山陰で出会った親子が俺の人生を変えた

春風秋雄

それは鶏のから揚げから始まった

冬の山陰は大好きだ。魚がおいしい。特にこの時季は松葉ガニがある。俺は仕事柄、出張は多いが、山陰へ出張するのは出来るだけ冬にしようと決めている。昨日までは鳥取にいたが、今日は島根県の松江に来ていた。今日で出張は終わりで、夜には名古屋へ帰る予定だ。

俺は木島正幸。輸入雑貨の卸しの会社を経営している。会社といっても社長の俺と、営業社員が2名の小さな会社なので、社長自ら全国を駆けずり回って営業している。立ち上げ当初は妻の芳江が経理をやってくれていたが、7年前に芳江が他界してからは、経理も俺の仕事になり、なんでもやらなければならない社長だ。もともとは全国に支店がある輸入雑貨の会社の名古屋支店で働いていたが、リーマン・ショックの影響で会社が倒産し、取引先を継ぐ形をとり、名古屋で起業した。こんな時期に起業してもうまく行くわけがないと、皆に言われたが、部下2人が俺についてきてくれた。おかげで会社を立ち上げて10年以上になるが、経営はうまく行っていて、社員にもそれなりの給与を出せている。本当は社員を増やして、せめて経理事務だけでも誰かに任せたいが、何度求人を募ってもこんな弱小企業に応募してくれる人材はいなかった。俺も今年で52歳だ。そろそろ社員を増やすことを真剣に考えないと、体力的にきつくなってきている。

山陰最後の夕食は、豪華にいきたいところだが、これから6時間運転して帰らなければならない。アルコールはもちろん飲めないし、食べ過ぎると眠くなる。取引先から車を止めてあるコインパーキングへ戻る途中で中華屋を見つけたので、久しぶりに中華飯を食べたくなり、そこに入ることにした。店は結構混んでいた。隅のテーブルがひとつ空いていたので、俺はそこに座った。メニューを見て、中華飯と餃子を注文した。料理が運ばれてきてすぐに、店員が「相席お願いします」と言って、向かいに小学生と思われる男の子と、その母親らしき女性が座った。女性は「チャーハンひとつと、取り皿を下さい」と注文した。俺は「おや?」と思った。一杯のかけそばならぬ、一皿のチャーハンか?と思ったが、さほど気にしなかった。

ほどなく親子のチャーハンが運ばれてきた。母親はチャーハンの3分の1ほどを取り皿に移して自分の手元に置き、あとは男の子に渡した。男の子はガツガツ食べているが、母親は手をつけようとはしない。男の子の勢いが止まらないのを見て、母親は「もう少し食べる?」と聞くと、男の子は「うん」と元気に答える。母親は自分の分に置いていた取り皿のチャーハンの半分を男の子の皿に戻した。そして、ようやく少し口に運んだ。男の子のコップの水が少なくなっているのを見て、母親は水を継ぎ足そうと左手を伸ばした。そのとき、袖が上がり青いアザが見えた。それを見て、俺は改めて母親に注意を注いだ。母親は店に入ってもキャップを被ったままだった。よく見ると、キャップのひさしで隠すように、目の横にアザができている。これは訳ありだなと察した。それと同時に、本仮屋ユイカに雰囲気が似た母親の美しさにハッとした。俺は思わず声をかけた。

「あのう、すみません」

母親がビクッと、怯えるように俺を見た。

「鶏のから揚げが食べたくて、頼もうと思ったのですが、かなり量がありそうで、一人では食べられそうにないので、迷惑でなければ、一緒に食べてもらえませんか?」

母親は、とまどっているようで、黙ったままだった。俺は男の子に向かって

「ボクは、鶏のから揚げは好きかい?」

と聞いた。

「うん、大好き」

「じゃあ、一緒に食べてくれるかい?」

「うん、食べる」

俺は店員に鶏のから揚げを注文した。

ほどなく鶏のから揚げが運ばれてきた。本当にすごい量だった。とても一人では食べきれない。早速男の子は箸を伸ばし、パクついた。

「お母さんも遠慮なく食べて下さい。私と息子さんだけでは食べきれませんから」

母親はおずおずと、から揚げに箸を伸ばした。俺は中華飯を食べた後なので、二切れ食べるのが限界だった。男の子はパクパクと美味しそうに箸を伸ばす。母親も、空腹に耐えられなかったようで、ひとつ食べてからは、次から次に箸を伸ばしていた。

食べながら男の子に何年生かと聞くと、2年生と答えた。二人は足元に旅行鞄とリュックを置いていたので、旅行かと聞くと、東京の親戚の家に行くのだという。

「この時間だと、寝台特急ですか?」

「いいえ、高速バスで行くつもりです」

「お子さんを連れて高速バスは大変ですね。もうチケットは買ったのですか?」

「まだです」

「私は名古屋まで車で帰るところですが、私の車で名古屋まで一緒に行って、明日の朝、新幹線で東京へ行ってはどうですか?」

母親は黙って俺を見た。明らかに警戒しているようだ。

俺は名刺入れから名刺を1枚取り出し渡した。

「名古屋で輸入雑貨の会社をやっています。営業で全国を飛び回っているんですけど、一昨日から鳥取と島根を回って、今日帰るところなんです」

「でも、そうすると、名古屋で1泊することになりますよね。旅費は助かりますけど、宿泊費がかかるし、今からホテルをとるのは難しいのでは?」

「ああ、それなら亡くなった両親が住んでいた私の実家が空き家になっていますから、そこに泊まればいいですよ。空き家といっても定期的に私が行って手入れをしているし、一通りのものは揃っていますから、今でも生活できるほどです。地下鉄の駅からも近いですから、明日名古屋駅に行くのも楽ですよ」

「でも、私なんかを連れて帰ったら、奥さんが変なふうに思いませんか?」

「家内は7年前に亡くなりました。娘がひとりいるんですが、学生時代の同級生と結婚して、市内に新居を借りて住んでいます。ですから、そういう心配は無用です」

「そうですか」

母親は私が独り身と知って、違う面で心配をしているかもしれない。

「私は家内と娘と3人で暮らしていたマンションに今も住んでいます。今日もマンションに帰らなければ着替えもありません。見ず知らずのあなたに、何かしようという気はまったくありませんので、心配なく」

「どうして、親切に言って下さるのですか?」

「私としては、6時間も一人で運転するより、誰か話し相手が隣に座っていてくれた方が助かります。食事をして眠くなるのは見えていますからね」

母親は、息子に簡単に事情を話し、このおじさんと一緒に車で名古屋まで行くかと聞いている。息子さんはどっちでも良いと返事したようだ。

「それでは、お願いします」

「そうと決まれば、もう少し腹ごしらえしませんか?エビチリなんか食べたいなと思ってたんですけど、どうですか?」


車は米子自動車道から落合ジャンクションを経由して中国道に入った。平日ということもあり、道はすいている。

あのあと、エビチリと五目焼きそばを追加で頼み、3人できれいに平らげた。といっても俺はお腹一杯で、ほとんど食べられなかったが。母親は自分たちが食べた分は払うと言ったが、最初に親子が食べたチャーハンの分も含めて俺が支払った。母親の名前は藤沢真沙美といい、現在35歳らしい。男の子は洋平君といった。最初は親子で後部座席に座って、アルフォードにつけている後部座席のモニターでテレビを見ていたが、洋平君が眠ってしまったので、サービスエリアで休憩した際、真沙美さんは助手席に移動してきた。隣に座って私が眠くならないように話しかけるのが自分のミッションだと思っているようだ。真沙美さんは話し上手で、近所の面白いオバサンの話や、変なママ友の話などを面白おかしく聞かせてくれた。車が新名神に入り、名古屋まであと1時間半くらいというときに、俺は思い切って聞いてみた。

「東京へ行かれるのは、何か事情がおありなんですね?」

真沙美さんは急に黙り込んでしまった。

「すみません、立ち入ったことを聞いてしまって。腕のアザと顔のアザが気になっていたもので」

「気が付いていたんですね」

「ええ。見るつもりはなかったんですけど」

「主人につけられたアザです」

それから真沙美さんは、ポツポツと話してくれた。

ご主人が働いていた会社は、リーマン・ショックの後遺症で、洋平君が生まれてすぐに倒産したらしい。その後再就職をしたが、前の会社でそれなりのポジションにいたプライドが邪魔をして、新しい仕事になじめず、転職を繰り返したとのことだ。2年前に退職してからは定職につかず、フリーターのようになり、酒におぼれるようになり、1年くらい前から、真沙美さんが仕事をするように言うと、暴力を振るうようになったらしい。このままだと身の危険が生じると思い、洋平君を連れて逃げ出してきたというのが経緯のようだ。

「東京には真沙美さんのご両親がいるんですか?」

「両親は亡くなっていないので、母のお兄さん、つまり伯父さんを頼って行こうと思っています」

「東京で暮らすなら、洋平君の学校のこともあるし、住民票を移さないといけないけど、そうすると、旦那さんに居所が知れて追っかけてくるんじゃない?」

「そこまで考えていませんでした。そうか、住民票を移さないといけないんだ」

「ちゃんと離婚するつもりなの?」

「できたら離婚したいですけど、相手が応じてくれるかどうか」

「DVは立派な離婚事由だから、アザが残っているうちに写真に撮ったり、病院へ行って診断書をもらったりして証拠を残しておくといいよ。いずれにしても、本当に離婚するつもりがあるなら、弁護士に依頼した方が無難だね」

「そうすれば良いのでしょうけど、あまりお金がないので、弁護士を雇うのは難しくて」

「真沙美さん、うちの会社で働きませんか?」

「木島さんの会社でですか?」

「ちょうど今、事務の募集をしなければいけないなと考えていたところなんです。経理とかできませんか?」

「洋平が生まれるまでは経理事務の仕事をしていました」

「それは好都合だ。うちで働いてくれるなら、給与の前借ということで、弁護士費用を立て替えますよ。住むところは、しばらくは今日泊まってもらう実家をそのまま使ってもらえばいい。家賃はいりませんから」

「でも、今日会ったばかりの人に、そこまでしてもらっては」

「真沙美さん、会社の面接は、今日会ったばかりの人を見て、この人はうちの会社にとって有益な人材か、そうでないかを判断して採用するか否かを決めるんです。しかも、その人と会話をする時間はほんの15分か20分です。私はもうすでに真沙美さんと、6時間以上会話しています。その上で言っているのです」

真沙美さんは少し考えたあと、

「じゃあ、お言葉に甘えて、よろしくお願いします」

と言った。


真沙美さんが名古屋に来てからは、バタバタと事が進んだ。会社への出社は年明けで良いと伝え、年内は先にやるべきことをやってもらった。給与が出てから返してもらえば良いからと、当面の生活費を渡し、日用品等を揃えてもらい、生活環境を整えてもらった。真沙美さんは会社の顧問弁護士に離婚交渉を依頼し、一度松江に戻って置いてきた荷物を名古屋に運び、住民票も移した。洋平君の転校手続きも終わり、3学期から名古屋の学校へ通えることになった。そんなことをしているうちに、あっという間に1か月近くかかった。クリスマスは会社の繁忙期でもあり、俺は出張に出ていたが、洋平君にクリスマスプレゼントだけは渡したくて、真沙美さんに預けておいた。


年が明け、元旦に真沙美さん親子をマンションに招いた。その日は娘夫婦も孫を連れてきてくれることになっていたからだ。

娘の春佳には、真沙美さんの事情は前もって話しおり、元旦に親子も招くことは伝えていた。すると、春佳はちゃんと洋平君にお年玉を用意していた。俺と春佳からお年玉をもらった洋平君は満面の笑みだった。中華屋で会って以来、洋平君がこんな顔をするのは初めてだった。

春佳たちが帰るとき、春佳は真沙美さんに

「真沙美さん、さっきの件、真剣に考えておいてくださいね」

と笑いながら言った。

「いったい何のことだ?」

俺が聞くと、

「いいの、いいの。女同士の内緒話」

と言って、春佳ははぐらかした。


1月4日が年明け仕事はじめだった。新入社員だと言って真沙美さんを紹介すると、社員も事務員が出来たことで、喜んでいた。俺に負担をかけていることが心苦しかったらしい。

洋平君はまだ学校が始まらないので、真沙美さんが働いている間は、春佳が面倒をみてくれることになった。春佳も自分の家のことがあるので、真沙美さんには、小学校が始まるまでは4時であがってもらうことにした。小学校の始業式は1月10日だった。その前日の9日に春佳から電話がきた。

「今日は、お父さんの夕飯の分も準備しておいたから、今晩は真沙美さんのところで食べて」

「なんで俺の分まで準備するんだよ」

「いいじゃない。今日はお祝いみたいだよ」

そう言われて、そうか、明日から新しい学校へ行くのか。そのお祝いか。と思い、その日は早めに仕事を切り上げて、真沙美さんの家へ向かった。

この家へ来るのは、真沙美さん親子が暮らすようになって初めてだった。真沙美さんに迎えられ、俺は家にあがった。2階の南側に面した一番陽当たりの良い部屋を洋平君の部屋にしたというので、見に行ったら、ベッドと学習机が置いてあった。そんなお金があったのかと思っていると真沙美さんが、

「知らない間に春佳さんが洋平と家具屋さんに見に行って、今日搬入されたらしいんです。それで、春佳さんが、これを木島さんに渡すようにと」

そう言って封筒を渡された。封を切って見ると、家具屋さんの領収書が入っていた。金額は132,000円になっていた。

「お金は少しずつ返しますと言ったら、お父さんからもらうから大丈夫だと。返すならお父さんに返してと言われました。これも給与から少しずつ天引きということにしてもらえますか?」

「いや、これはいいです。これは、この家の備品にします。今使ってもらっている食器棚やテーブルと一緒です。だから、お金のことは気にしないでください」

それを聞いて洋平君は、それまで心配そうに二人の会話を聞いていたのが、急に明るくなった。それから机の引き出しをひとつずつ開けて、ここにこれを入れたと、二人に説明してくれた。

そろそろ夕飯にしようと言って、連れていかれたのはダイニングではなくて、1階の客間だった。畳敷きの客間のテーブルにすごい御馳走が並んでいた。そして、ワインまで置いてあった。

「すごい御馳走だね」

「そうなんです。春佳さんが用意してくれていて、私は切って並べるだけだったんですけど」

この分の領収書はなかったので、これは春佳の自腹のようだ。


真沙美さんがワイングラスにワインを注ごうとしたので

「俺は車だから、ワインはいいよ」

「せっかくだから、付き合って下さい。今日はここに泊まればいいじゃないですか」

「でも、」

「ご自分の家じゃないですか。遠慮する必要なんかないでしょ?」

真沙美さんは、そう言ってグラスにワインを注いだ。

洋平君にはジュースを注いで、3人で乾杯した。

「洋平君、明日から新しい学校だけど、頑張ってね。友達できるといいね」

「田舎者だといって、バカにされないかなぁ」

「何言ってるんだ。松江といえば、テニスの錦織圭の出身地だぞ。洋平君を田舎者と言うやつには、君は錦織圭にも田舎者と言うのかと言ってやれ」

「うん、わかった」


実家には、もう自分の部屋はないので、客間に布団を敷いて寝ることにした。二人でワインを1本空け、そのあともウィスキーをチビチビやっていたので、すっかり酔ってしまった。どれくらい寝ただろう。ふと目を覚ますと、枕元にパジャマ姿の真沙美さんが座っていた。

「よく眠っていらっしゃいましたね」

俺は夢と現実の区別がつかなかった。何も言葉を発せず、真沙美さんの顔を見た。

「今日、弁護士の先生から連絡があり、無事離婚届が受理されたとのことでした」

ようやく俺は、真沙美さんの言葉が頭に入ってきた。むくっと起き上がり、正面から真沙美さんを見て、酔いと寝起きで呂律が回らない口で言った。

「それは良かった。これから真沙美さんの新しい人生の始まりですね。今日のワインは、そのお祝いだったんですね」

「ええ、春佳さんに言ったら、慌てて買ってきてくださいました」

「そうか、乾杯の時に言ってくれればよかったのに」

「洋平がどう思っているのか分からないので、洋平の前では言えなかったんです」

「そうですか。それでわざわざ伝えに来てくれたのですか」

「それもありますけど、この前春佳さんに言われたことがあって」

「そう言えば、元旦の時に何か言っていましたね。何を言われたのですか?」

「木島さんと一緒に住んでくれないかと」

「俺と一緒にですか?」

「ええ。春佳さんは木島さんを一人にしておくのが心配なのだと思います。それで、この家で一緒に住んでほしいと頼まれました」

「突拍子もないことを考えるものだ」

「春佳さんは、木島さんがこっちに移ったら、木島さんが住んでいるマンションに引っ越すおつもりのようです」

「なるほど。どちらかと言えば、そっちが狙いか。今は賃貸マンションに住んでいるので、私のマンションに引っ越せば、家賃負担がなくなると考えたわけだ」

「それもあるのでしょうけど、真剣に木島さんのことを心配されていました」

「でも、さすがに真沙美さんと同じ屋根の下で暮らすわけにはいかんでしょう」

「そうですか?私は全然かまいませんけど」

「真沙美さんは、私みたいな野暮ったらしいオジサンは眼中にないので、そう思うかもしれませんが、私としては、真沙美さんみたいな綺麗な女性が同じ屋根の下にいたら、変な気を起こさないかと戸惑ってしまいますよ」

「戸惑う必要はありませんよ。私は、それを含めて一緒に住んでも構わないと申し上げているのです」

俺は、真沙美さんの真意を測りかねて、ジッと顔を見た。

「春佳は、そういう意味も含めて真沙美さんに同居を提案したのですか?」

「春佳さんは、そこまで考えていなかったと思います。単純に木島さんがやもめ暮らしで不自由しているのではないかと心配されたのだと思います。ひょっとしたら、娘から見た父親は、男としては、もう終わっていると思っているのかもしれません」

「娘にそう思われているくらいのオジサンですから、真沙美さんも無理して私なんかを相手にしなくても、まだ若いのですから、これから良い出会いがありますよ」

「無理なんかしていません。私は木島さんに好意を持っています。もちろん、洋平の将来を考えての打算もあります。それより、あの中華屋の時から私たち親子に対してとられた木島さんの優しさは、心に沁みました。あの鶏のから揚げも、本当は食べたかったわけではないのでしょう?」

「わかっていましたか」

「それより、木島さん」

「なんでしょう?」

「私、こんな格好でここに座っていたら、寒くなってきました」

「ああ、気づきませんでした。エアコンつけましょうか」

「それより、そのお布団に入らせて下さい」

真沙美さんは、そう言って俺の布団に入ってきた。そこまでされては、男として応えないわけにはいかない。俺は真沙美さんの隣に横になり、真沙美さんを抱き寄せた。


俺は、この年になって、ちゃんとことが成せるとは思ってなかった。それほど、真沙美さんの肌に興奮していたのだろう。久しぶりの行為に、息をきらしながら俺は言った。

「真沙美さん。あなたさえ良ければ、ちゃんと籍を入れませんか?」

「ありがとうございます。そうして頂けると助かります。ただ、洋平には離婚のことも話してないので、洋平にちゃんと話してからにしてください」


真沙美さんとは、あれ以来ちょくちょく逢瀬した。洋平君がいるので、実家の方へは行かず、真沙美さんが夜中に俺のマンションに来るといった形だ。実家近くまで車で迎えにいき、2時間ほど俺のマンションで過ごして送っていくという流れだった。

真沙美さんは洋平君に離婚したこと、そして、俺と結婚したいと伝えたそうだ。すると、洋平君は「嫌だ!ママは結婚なんかしなくていい」と反対したそうだ。

「私は洋平君から嫌われているのかなぁ」

「そんなことはないと思います。前から木島のおじさんは大好きだと言っていました」

「じゃあ、父親のことが好きで、本当は離婚してほしくなかったのかな。そして新しい父親はいらないってことかな」

「離婚したと伝えたときは、なんともなかったんですけどね。もう一度話してみます」


その後、真沙美さんが何度説得しても洋平君は「嫌だ」と繰り返すばかりだったそうだ。木島のおじさんは嫌いなの?と聞くと「好きだ」と答えるらしい。でもママが結婚するのは嫌だ、新しいお父さんはいらないと繰り返すばかりらしい。

真沙美さんは春佳にも相談し、春佳もマンションの件があるので、洋平君を必死に説得しようとしたが、同じ返事だったらしい。


休日に洋平君を動物園に誘った。

「洋平君、コアラを見に行くかい?」

「コアラ?行く!」

真沙美さんが3人分の弁当を作って、東山動物園へ行った。

洋平君はコアラはもちろん、ゾウやライオン、そして、コアラと並んでこの動物園のスターのゴリラにも興奮して喜んでいた。


ベンチは座るところがなく、芝生にシートを敷いてお昼にした。真沙美さんが作ってくれた弁当は美味しかった。俺自身、野外で手作り弁当を食べるのは本当に久しぶりで、幸せな気分を味わった。食べ終わったあと、俺は洋平君に聞いた。

「洋平君は、おじさんのことは嫌いじゃないけど、ママと結婚するのは反対なんだって?」

洋平君は、何も言わず、うつむいて頷いた。

「おじさんがパパになったら、こうやって動物園や色んなところへ連れてってあげられるんだよ。それでもダメかい?」

「それは嬉しいけど…」

「どうしてダメなのかな?松江のお父さんのことが好きだから?」

洋平君は首を振る。

「パパは好きじゃない」

「おじさんはね、ママと、洋平君を大切に思っているし、幸せにしてあげたいと思ってる。今のままでも出来ることはあるけど、ちゃんとママと結婚して、法律的にも家族になった方が二人にしてあげられることがたくさんあるんだ。どうかな、それでもダメかな?」

洋平君はチラッと俺の顔を見て、またうつむいた。全然ダメという感じではない。洋平君の中でも何かと葛藤しているような気がした。

「洋平君、ママとおじさんの結婚を許してもらえないかな」

しばらくして、じっと、下を向いたままだった洋平君が口をひらいた。

「おじさんは、ママを叩いたりしない?」

俺は一瞬、洋平君が何を言っているのか理解できなかった。しかし、その意味がわかって、俺は慌てて言った。

「当たり前だよ。おじさんは絶対ママを叩いたりしないよ」

「ママに怒鳴ったりしない?」

「しない!そんなこと絶対にしない」

「ママを泣かしたりしない?」

「しないよ。約束する。おじさんは、ママを絶対泣かしたりしないよ」

俺はそう言いながら、涙が出てきた。横で真沙美さんもハンカチで目頭を押さえ泣いている。この子は、父親がした真沙美さんに対する仕打ちに心を閉ざしていたのだ。母親の夫となる人は、みな同じではないかと不安だったのだ。

俺は思わず、洋平君を抱きしめた。

「おじさんは、絶対に、ママを幸せにする。悲しませたりしない。男同士の約束だ。だから、おじさんが洋平君のお父さんになってもいいかな?」

洋平君は、ウンと頷いた。


俺たち3人を祝福するように、遠くで、ゾウの親子の鳴き声が聞こえた。

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