3/5
――4日目。
「遅くならないようにね? 怪我しないようにね?」
「はーい!」
カゲロウが元気よく手を上げた。母さんも心配性なんだから。
それから母さんは俺に視線を送った。頼んだわよ、と。
「分かってるよ。変なことにはならないようにするよ」
「はい。いってらっしゃい」
「ああ」
カゲロウと一緒に外に出たのは、昼過ぎの一番暑いときだった。今日は文句なしの晴れ。気分が良いのかカゲロウは鼻歌を歌っている。虫にも音楽の概念があるのかな。
「そういえば、カゲロウはどこに行きたいのか?」
聞いてみたはいいが、そもそもこの町のことを彼女は知っているのか。
「えーっとね。川に行きたい」
川か。悪くないチョイスだ。
「オーケー。ここからなら近いから、すぐに着くよ」
カゲロウは顔をほころばせる。楽しみにしていたのだろう。
でも、どうして川なのだろうか。行けばわかるか。
住宅地を抜け、大通り。休日というのもあって車通りは多い。とはいえ、歩道は広いし、川へ行くには道なりに進めばいい。
そんなわけで、目的地にはすぐに着いた。
橋から見下ろす河川は、受験勉強で疲れ切った心を癒してくれる。県内有数の大河川の流れは、今日も穏やかだ。
河川敷にはサッカーをしている少年たちの姿があった。
「おおー! すっごーい! たかーい!」
隣には子供のように大はしゃぎするカゲロウがいた。あまりに手すりから身を乗り出しているから慌てて制止した。
「気をつけるんだぞ。落ちたら死ぬぞ」
「え? でも私、空飛べるから」
「今は飛べないだろ」
「あ」
赤面するカゲロウ。俺の笑い声が風に乗った。それは遠くにそびえる山々まで届いていきそうだった。グラデーションがかった空は、山の輪郭をハッキリとさせている。
俺はこんなに喜んでくれて安心した。とはいえ、俺は彼女をここに連れてきただけなんだけどな。
「ねえねえ、下には行けるの?」
カゲロウが河川敷を指差している。
「行ってみる?」
「うん!」
橋の端っこは堤防に繋がっている。上はサイクリングロードになっていて、自転車に乗っている人やジョギングをしている人をよく見かける。
堤防を下りると、川面が間近に見えた。
「わっ、すごーい!」
カゲロウは駆けだした。サッカー少年たちがギョッとして彼女の方を見た。邪魔して悪いな。
「って、ちょっと」
俺はカゲロウを追いかけた。彼女はそのまま川に突入してしまいそうな勢いだった。
「ちょっ、気を付けろよー!」
俺の声が届いたかは分からないが、カゲロウは川岸ギリギリで止まった。勢い余って前につんのめり、両手を羽根のように広げてバランスを取っていた。
「はあっ。気を付けてくれよ、ホントに」
虫譲りの瞬発力なのだろうか。とても追いつける速さじゃなかった。
カゲロウはしゃがんでいた。巨大な水の流れに圧倒されている。
声をかけるのも悪いから、俺は少し離れたところにしゃがんだ。
耳に意識を向けると、絶え間ない水流のざわめきが聞こえる。ゆっくりと息を吸うと、ひんやりと澄んだ空気が肺を満たす。
落ち着く。元の世界から一時的に離れて、自然に立ち返ったようだった。
「……なんだか」
自分に注目させるように、カゲロウはそれだけ言って言葉を切った。それから、細い指先を水に入れた。俺の視線がそちらに吸い寄せられる。
「生きてるって感じがする」
まるで独り言のように呟いた。穏やかな横顔だった。俺にはそれが、残り少ない命を嘆いているように感じられてしまった。
「やめろよ、そんなこと言うの」
怒りではなく、哀願だった。
「……うん。ごめんね」
カゲロウもそれを分かっていた。同じような調子で返した。
「でも、こうして人間の姿でいると、虫だったときよりも色々なことが感じられるんだ」
瞳を閉じる。吹き上がる風に、透き通るような茶髪が揺られた。
俺は息を呑んだ。川面に太陽が反射して、キラキラとカゲロウの周りを照らしている。淡い白のワンピースが彼女の輪郭をぼやかし、空間と調和させている。そこだけ切り取れば、一つの芸術作品となっていただろう。
「だから、生きてることがよりハッキリするの。それだけで私、人間になれてよかった」
「カゲロウ……」
ずるい。そんな笑顔を向けられたら、何も言えなくなってしまう。
沈黙が降りた。それでも気まずくないのは、川の音のおかげだろう。
しばらく二人で無言の時を共有した。
サッカー少年たちの声が耳に入ってきた。夢中になってボールを追いかけている。
「ふふ。楽しそうだね」
「そうだな」
言葉を交わしたが、正直何を言ってもいい。心と心のコミュニケーションだ。同じ気持ちを抱いているということが分かれば、それでいい。
「そうだ、カゲロウ」
「ん、どうしたの?」
俺はかねて聞こうとしていたことをここで切り出した。
「あのさ。カゲロウは、どうやって人間になったんだ?」
来たか。彼女の顔がそう告げた。
「知りたい?」
「ああ」
今の今まで過ごしてきたが、今一度冷静になるとこんなファンタジーなことがあり得るのだろうか。俺はそれを知るまでは、カゲロウと別れても別れられない。
「いいよ。教えてあげる」
カゲロウは立ち上がった。
「ちょうどこの川をちょっと上った辺りだったかな。私はそこに住んでたの。成虫になったときに、ここの辺りまで来て、することもなしにふらふらと飛んでいた。そしたら、キミの部屋に入っちゃって、出られなくなって。それから……それから…………」
頭に手を当てて思い出そうとする。しかし、ダメだった。
「思い出せない?」
「うん。いつの間にか人間になってた」
カゲロウは申し訳無さそうに頭を掻いた。
「そっかー」
意外と当事者には分からないものなのか。
腑に落ちないものの、聞きたいことは聞けた。
ただ、別のことが気になった。
彼女は自分のことを平凡と呼んでいた。俺はそれが未だに納得してない。何をもって、虫である自分をそう決めているのか。
「カゲロウ」
「なに?」
「じゃあさ、教えて欲しいんだけど。カゲロウは、なんで自分のことが平凡だって思っているの?」
「っ……」
一瞬彼女の顔が険しくなった。デリケートな部分に触れてしまったか、と心配になった。
「……いいよ。でも、あまり面白くないよ」
「それでもいいから」
「うん」
カゲロウは、語り出した。
「私たち蜻蛉は、子供を作って死ぬだけの、単純な生き物。大人になってからは、たった一日しか生きられない。私が幼虫のときに、それが嫌になったの。もっと違うことができるんじゃないか、できるならしたいって思ったの。
だから私、大人になったとき、みんなが必死になってパートナーを探そうとしているところから抜け出したの。ハッキリ言って無謀だった。アテもないのに勝手なことをして、馬鹿だなって。
それで、フラフラと飛んでいたところをキミの部屋に入っちゃったの。そのときにはもう飛ぶ力が残ってなくて、ああ、ここで私は死ぬんだって思った。結局、私にできることはこんな程度なのかって、泣きそうになった。
そこで私の意識は無くなったんだけどね、次に目が覚めたとき、私は人間になっていたの。そして、キミと出会った」
それが、カゲロウが俺と出会うまでのあらすじだった。
「だから、私は平凡というか、みんなと同じだったってことかな」
「平凡……」
心の傷口がわずかに開いた。
俺と彼女は同じ。けれど、あるところで決定的に違った。
俺は自分が平凡なことを憎み、そして何もしなかった。何をしても同じと、諦めた。
しかしカゲロウは、行動した。
彼女は自分が周りと同じ結末を向かえることを拒んだ。だから今、ここにいる。平凡な自分から、脱却していた。
なんだよ。カゲロウの方がずっとずっと、先を行っているじゃないか。
「どう? うまく説明できたかわからないけど」
「十分伝わったよ。でも……」
「でも?」
「…………」
「どうしたの?」
なんでもない、とは言えない。沈黙で返すしかなかった。
呆れられたかと思ったが、逆にカゲロウは俺に寄り添ってきた。
肩を掴まれて、引き寄せられた。身体が密着するほどに近づいた。
「今、落ち込んでるでしょ?」
ストレートな物言いだった。けれど、どうしてかすんなりと染み渡った。
「……ああ」
カゲロウは俺の背中をポンと叩いた。
「元気だして。キミは何も落ち込むことはない」
不思議な感覚だった。カゲロウが、いつものカゲロウじゃないようだった。傷ついた俺の心が、丸ごと包まれていく。
「キミは、少し考えすぎなんだよ」
「考えすぎ?」
「うん。キミと過ごして分かったよ。キミは自分で自分を苦しめてる」
そうなのだろうか。
「平凡なことの、何が悪いの? 特別、周りよりも優れていないと、何かダメなことでもあるの?」
「……いや」
そんなこと、考えたこともなかった。平凡なことは悪だ、と決めつけてしまっていたから。そもそも、俺はいつから平凡が悪いことだと思い始めたのか。
「分からない。でも、やっぱり特別なことができないと、俺がいる意味がない気がする」
「もう、それがダメなんだよっ!」
「いてっ」
コツン、と頭をグーで叩かれた。
「特別なことなんて、始めからできる人の方が少ないよ。キミがしようとしているのは、とても難しいこと。だから、できなくても当然だと思わないと、窮屈になっちゃうよ」
カゲロウの語気が強まっていく。俺はそれを受け止めるので精一杯だった。相手が虫であることも忘れ、俺はすっかり聞き入っていた。
「じゃあ」
平凡であることを受け入れる。そしたら、俺は何をすればいい。
「俺はこのまま、何もできずに終わるってことなのか?」
大きなため息が聞こえた。こりゃ重症だな、とも。どうやらカゲロウは俺をからかっているようだ。
「人と同じことしかできないのなら、いてもいなくても同じ。だったらさ、自分の好きなことをしてもいいんじゃないの?」
さりげなく、しかし決定的な一手が打たれたような気がした。
「好きなこと?」
「そう。だって、いてもいなくても同じなんでしょ? だから、自分のやりたいようにやればいい」
カゲロウは続けた。
「特別なことをしようとしなくてもいいんだよ。まずは人のことよりも、自分のことを考える。自分がやりたいと思うことをやってみる。それがもし誰かのためにもなって、何か大きなものが残ったら、大成功。上手くいかずに結局平凡に終わってしまっても、それはそれで悪くはない。だって自分で選んだことだから。こんなシンプルなことで、私はいいと思う」
「そんな、簡単なことでいいのか……?」
そうだよ、と言わんばかりにカゲロウは俺の肩を叩いた。その力強さに、俺よりも長い人生を歩んできたような重みを感じた。どうしてなのか、今の俺が気にする余裕は無かった。
「それに、キミ自身も分かっていたじゃない」
「俺自身が?」
「うん。昨日、キミが言ってくれたのは、まさにそれじゃないの?」
俺が言ったこと。昨日というと、あの喧嘩のことだ。
『それより、さっさと出て行って、自分のやりたいことをすればいいんだよ!』
あのときは何も考えずに、ただ言葉を並べていただけのつもりだった。それに、これはせっかくカゲロウが人間になったのに、何もしないで終わることがもったいないと伝えるために言ったことだ。
「でもあれは、意味がちょっと違うんだ」
カゲロウは首を横に振った。
「そんなことないよ。自分で分かっていなかったら、あんなこと出てこないから」
「そうなのか?」
「きっとそうだよ」
カゲロウの瞳に、迷いは無かった。
本当は、俺自身でも気づいていた。でも、それを良しとしないで、選択肢から外していたのかも知れない。
カゲロウが改めて、その大切さに気づかせてくれた。
「俺が、やりたいことをやる」
何度も呟いて、かみ砕いて、俺の中に収めようとした。とても、大事な言葉だから。
「私がね、群れから離れたのもそれが理由。私がいてもいなくても同じなら、私一人が勝手なことをしても変わらない。そう思ったから、私はキミと出会えた」
生物の本能である子孫を残す行為を無視した。それは、悪く言えば自分勝手な行動だ。それが本当に良かったのか、人間の俺には知り得ない。けれども、カゲロウの生きる姿勢は、人間の俺にも当てはめることができる。俺はそう思う。
カゲロウが我に返ったように慌てふためいた。
「あ、ご、ごめんね。勝手なこと言っちゃって」
さっきまでの風格は、どこかに流されて行ってしまった。もとのカゲロウに戻った。
「いやいや、カゲロウのおかげで、なんだか頑張れるような気がしてきた」
「本当……?」
「ああ」
カゲロウの顔がぱあっ、と明るくなった。
きっとカゲロウは俺のことを思ってくれているんだ。適当なことかもしれなくても、何か一つでも俺のためになればいい。カゲロウが色々話してくれた、それ自体がとても助かった。
「って、これじゃあどっちのためにここに来たのか分からないな」
いつの間にか俺が主役みたいになっちゃったし。けれどもカゲロウは首を横に振った。
「いいの。私をここまで連れてきてくれた、お礼みたいなものだから」
言ってから恥ずかしくなったのか、顔を逸らした。ぼそりと、お礼になったかはわからないけど、と呟いていた。
まさか虫に助けられるとは。俺もまだまだ未熟なんだな。
「そうだ」
カゲロウが思い立ったように言った。
「せっかくここに来たんだから、遊ぼうよ」
「遊ぶ? 何するの?」
俺が尋ねると、カゲロウはこの場を離れてどこかへ走っていった。嫌な予感。
「ねーねー。私もまぜてー!」
カゲロウがサッカー少年たちの中に突入していった。まじでごめん、少年たちよ。
突然の乱入者に動揺していた少年たちだったが、カゲロウの半ば強引な参加と、人当たりの良さと、それから目を惹く容姿で、数分後にはばっちり馴染んでいた。すげえなカゲロウ。
運動に適した服装でもないのに、少年たちのように、あるいはそれ以上に活発にボールを追いかけていた。エネルギーに満ちあふれていた。それこそ、あと数日で死んでしまうようになんて、全く見えない。
「……ふっ」
それも、カゲロウらしくていいな。
「混ぜてもらうか」
俺もサッカー少年たちの輪に入っていった。カゲロウのおかげもあって、すんなり受け入れてもらえた。
「おねーさんはおにーさんのカレシなの?」
「そうだよ、いいでしょー」
カゲロウが勝手なことを少年に吹き込んでいた。
「待て待て、違うぞ。こいつは彼女じゃない」
「じゃあ、なーに?」
そう言われても困る。
「し、知り合い?」
カゲロウの頬が膨らんだ。
「もう、そんな関係じゃないでしょ?」
「そ、そうなのか」
この虫さんは知り合いという関係ではご不満らしい。
男女関係なんて露も知らない少年たちは口を開けているだけだ。いや俺もそっちに入れてもらいたいくらいだ。虫との関係ってなんだよ。
「ねえねえ。誰が好き?」
少年の一人が出し抜けに聞いてきたが、誰って誰だ。
「君は誰なの?」
「メッシ!」
あー、そういうことね。
「僕はロナウド!」
「スターリング!」
他の少年も次々と名前を挙げていく。
「おにーさんは?」
困ったな。あまり知らないんだけど。
「えっと、ランパードかな」
沈黙。
「あ、ごめんね。ほら、続き、続きをしよ? サッカーやろうぜ!」
ぽかんとしていた少年たちだが、ボールを蹴り始めるとまた目を光らせて動き回った。
俺が最後にボールを蹴ったのはいつだっただろうか。小学校の休み時間に友達とサッカーをした以来やっていない気がする。俺は終始おぼつかない足捌きになってしまった。少年たちの方がよっぽど上手い。
カゲロウの方はというと。
「やっ! あ、あれー?」
うん。走り回っていた。ボールは蹴ってもあらぬ方向へしか行かず、その度に必死こいて取りに行っていた。彼女はテニスの方が上手いのかもしれない。なぜならボールがネットに当たらないから。
それでも、いつの間にか俺まで夢中になってしまった。みんなが疲れ果てて終わりになったときには、太陽が大きく傾いていた。
「ふいー、疲れたねー」
あれだけ走り回ったカゲロウは、額からだらだらと汗が流れている。タオル持ってきてないんだよな。
「そ、そうだな……」
俺は息が上がってまともに返事ができなかった。なんでカゲロウはケロッとしているんだ。
「今日はありがとうね。楽しかったよ」
カゲロウはすっかり気に入られたようで、少年たちに取り囲まれていた。ちょっかいとか出されているし。
「わっ、やめろー。カレシの目の前で、なんてことするんだー」
おどけたように言って、攻勢に出た。少年大はしゃぎ。
カゲロウって、子供の扱いが上手いんだな。本当にお姉さんみたいだ。俺は感心していた。
楽しい時間はすぐに去ってしまう。少年たちともお別れだ。
「じゃあねー! おねーさん!」
「またねー!」
少年たちを見送ろうとカゲロウは両手を大きく振った。俺も一緒に手を振った。
自転車に乗った少年たちはあっという間に遠くなり、夕焼けに溶け込むようにして見えなくなった。
「さて、カゲロウ」
カゲロウはグラウンドに残った無数の足跡を名残惜しそうに眺めていた。
「どうかしたか?」
声をかけると彼女は我に返ったように振り返った。
「……ううん。何でもない」
そう言って俯いた彼女の表情は、逆光に隠れて見えない。
「遅くなるといけないから、帰ろう」
「……わかった」
元来た道を辿るようにして家に向かう。夕日で赤みがかった町は、昼間の喧噪もとうに過ぎ、ゆったりと時が流れている。足元から伸びた影は、長く、深い。
今日のことを思い出しながら歩く。二人で川に来て、たくさん話して、遊んで。まるで魔法にかかったような時間だった。
帰り道も、それは続いている。こうして二人で歩くことも、今日の思い出になる。
少しでも長く、この時間が続いてほしい。今日という日が終わってほしくない。
ちらりとカゲロウの横顔を盗み見る。夕日を背にした彼女の顔に、暗く影がかかっていた。
足元の影の輪郭が、少しずつ失われてきた。夕日が、沈む。
カゲロウも、このまま闇に溶けていなくなってしまうのか。そう思うと、焦りが募る。けれど、それは俺にはどうしようもない。どんなに必死になっても、沈もうとする太陽を止めることができないのと同じだ。
それでも、せめて、抗いたい。
そう思った次のとき、俺の手がカゲロウの手とぶつかった。
「えっ」
お互いに目を見開いて向き合う。足が止まった。
無意識だった。カゲロウと離れたくない。その言葉が何かを動かしたのか、カゲロウの方へ手が伸びていた。
そして、カゲロウの方も、俺に向かって手を伸ばしていた。あの顔を見るに、同じく無意識だったのだろう。
「あ、いや…………」
取り繕うにも、言葉は喉の奥へ引っ込んでいく。胸がつかえて苦しかった。
カゲロウとじっと目を合わせる。空気が肌にまとわりつくようだった。
沈黙。
「……あ、あのな」
先に口を開いたのは俺だった。
でも、その次の言葉が出てこない。正直に言うと、何も考えていなかった。とにかく何か言わなきゃと焦った結果がこれだ。
俺がうじうじしている間にも、太陽はその身を半分以上隠してしまった。いよいよ、周りも薄暗くなってきた。
カゲロウの顔もよく見えなくなった。そのおかげで、気恥ずかしさも少し無くなったのかもしれない。
「……帰ろっか」
はにかみ笑いをカゲロウに向けた。
「……うん」
伸ばした手を、組み合わせた。それはごく自然な動作だった。
夜の帳が下りても、カゲロウは俺と繋がっていた。離れていない。それがなによりも俺を安心させた。
しかし後に、カゲロウと手を繋いだこの瞬間を、俺は後悔することになる。いや、後悔はしていない。けれど、思い出す度に気まずさと恥ずかしさで死にたくなる。
なんでかって? 教えねえよ。
その夜。リビングに行くと、母さんだけがいた。カゲロウはもう寝てしまったようだ。
「今日は楽しかった?」
水を飲んでいると、そう尋ねられた。
「楽しかったよ」
「そう、よかった。カゲロウちゃんもあんたに感謝していたわよ」
「うん」
感謝したいのは俺の方だ。俺は何もしていない。
自分の好きなことをすればいい。カゲロウの言葉は、今も強く俺の中で響いていた。
でも、これを鵜呑みにして良いのだろうか。ふと、雑念のようなものが浮かんだ。
カゲロウには悪いけれど、心のどこかでまだ信じ切れていないところがあった。彼女が虫であるという事実が、否応なしに邪魔をしてくる。
本当に、これでいいのだろうか。
「なあ、母さん」
「ん?」
「あのさ、今日、カゲロウが言ってたんだけど」
母さんはそれまでしていた作業を止めた。
「本当に、自分のやりたいことをして、生きていって良いのかな」
「そんなの良いに決まっているじゃない」
「え?」
母さんはあっけなく認めた。
それから、堰を切ったように言葉が流れる。
「あんたはね、難しく考えすぎ。人のためとか、社会のためとか、そういうのを考えるのは良いけど、それで自分を縛っちゃうのはよくない」
カゲロウが俺に言ったことと同じだ。
「まだ焦る必要はない。今は、カゲロウちゃんの言うとおり、好きなことをして良いよ」
まるで裏で示し合わせたようだった。
「どうして、母さんは俺のことをそんなに知っているんだ?」
「そりゃ、私はあんたの母親だからだよ」
得意げに胸を張った。そんなの根拠になる訳ないのに、どうしてかそれだけで俺は納得してしまった。
「あんたが今、とても辛い思いをしていることは、よく分かってる。色々悩んでいることもね」
母さんはまるで心を読んでいるかのように、俺の気持ちを当てていく。これが、母親というものなのか。
「母さん……」
「大丈夫。私ができる限りフォローするよ。それに、頼めばきっと親戚の人も助けてくれるから」
胸が熱くなった。ただただ頼もしすぎて。
母さんはしかし釘を刺した。
「でも、やるのはあんただからね。厳しいことを言うけど、この先の人生がどうなるかは、あんた次第」
思い出されたのは、カゲロウと言い争ったあの日。彼女に勉強しろと言われ、俺は激昂してしまった。彼女は何も間違っていない。俺のことを思ってそう言った。だって、勉強をするのは俺自身だから。
「それは、分かってるよ」
けれど、俺は不安だった。これでまた勉強をずっと続けて、同じようにスランプに陥らないのか。
しかし、母さんはそれさえも分かっていた。
「私にお姉ちゃんがいるのは知ってるよね?」
「え、もちろんだけど」
近い親戚でいうと唯一かもしれない、母の姉。子供もいて、今は大学生だとか。遠くに住んでいて、ほとんど会う機会がない。俺が小さいときに一度だけ会ったことがあると聞いたが、記憶には残っていない。
でも、急にどうしたのだろうか。
「お姉ちゃんはね、昔は成績が良かったの」
「昔は?」
言い回しが引っかかる。
母さんはゆっくりと頷いた。どこか哀愁が漂っている。
「でもね、お父さんが凄い厳しい人で、お姉ちゃんに勉強しかさせなかったの。わざわざ家庭教師まで付けて。自分が良い大学出ているからって、お姉ちゃんにも上の大学に行かせようとして、いつもいつも、どこどこ大学じゃないとダメだ、って言ってたんだよ」
俺の祖父。俺が生まれる前にはもう死んでいた。でも、今の話を聞くだけでも厳しさが伝わってくる。そこまでしなくていいじゃないかと、怒りさえ沸き上がってくる程に。
「お姉ちゃんはね、それでも言われたとおりに勉強してた。だから成績は良かった」
母さんはすぐに言葉を繋げずに、逡巡する。
「でも、結局二年も浪人しちゃったの」
「二年も……」
どうして。そんなに勉強していたのなら、浪人なんてするはずないのに。
母さんは話が重くなりすぎないように、冗談めかした。
「お姉ちゃんはね、嫌になっちゃったんだよ。勉強し過ぎて」
「勉強のし過ぎ?」
「お姉ちゃんは、ずっと勉強をやらされてた。ストレスもあったと思うよ。それが、受験が近くなったところで抑えきれなくなっちゃったんだよ」
俺は何も言うことができず、ただ聞いているだけだった。
「浪人中は、お姉ちゃんは全然勉強をしなくなっちゃってね。一年目は結局どこも受からなくて。二年目は流石に頑張ったみたいで、自分で勉強をして、なんとか合格したの」
それは良かった。最後に少しだけ明るくなった。
「でも、お父さんは酷かった」
まだ続きがあった。もうやめてくれ。
「やっと合格したのにお父さんは『二浪してその程度か』って言ったの。流石に私も頭にきたよ」
「は……?」
言葉を失った。そんな話が現実に、しかも身内で起こって良いのだろうか。
「もう大喧嘩だったよ。母さん自身じゃ止められなかった。お姉ちゃんはそれきり実家に帰らなくなっちゃって、そのまんま」
酷い話だ。あり得ない。あっていいはずがない。
「あ、お姉ちゃんとは今でも連絡をとっているから大丈夫」
母さんは思い出したように付け加える。
「それに、あんたの従姉もあんたに会いたいって言ってたよ」
「ああ」
母さんのフォローは、あまり役に立たたなかった。俺は打ちのめされたような感覚の中にいた。
立ち尽くしていると、母さんは俺の肩を叩いた。ちょうど、カゲロウが俺にしたように。
「大丈夫、何もあんたを落ち込ませるために話した訳じゃないよ」
「……じゃあ、どうして」
「まあ。お姉ちゃんのことを身近に見てきたから、息子にはそんな風になってほしくないんだよ。だから、母さんはあんたに勉強しろとは言わない。母さんの教育方針は、あくまで本人の自由にさせる。だって、自分からやらないと、いつかダメになっちゃうからね」
そして母さんは俺の頭をぽんぽんと叩き、何度も「大丈夫」と言った。
カゲロウの言葉と、母さんの言葉。はっきりとはしない、けれど、太いパイプで繋がったようだった。
「じゃあ、やりたいことをするために、勉強する。こんなことでいいのかな」
良い大学に行けば、それだけできることの選択肢は増える。選択肢を増やすためには、勉強は避けては通れない。そうやって、勉強することの意味を見つける。
「うん、それでいいんだよ。難しく考えなくていいの。そうすれば、あんたも少しは勉強ができるようになるんじゃない?」
難しく考えなくていい。確かにそうだ。だって俺、今すごく勉強がしたい。
「ありがとう、母さん」
「うん。後でカゲロウちゃんにもお礼を言いなさいよ」
「分かった」
部屋に戻ると、高揚した気分のまま参考書を開いた。
ようやくスタートラインに立てたような気がした。クラスメートはもっともっと前から分かっていたのだろうと思うと、自分がアホみたいに遠回りをしていたのが恥ずかしくなってくる。
でも今は、それも笑い飛ばせる。まだまだこれからだ。
今日は、とても長い一日だった。
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