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――3日目。


「いってきまーす」


 誰もいない玄関に、それだけ残して家を出る。母さんはまだ寝ている。


「あ、いってらっしゃーい」


 カゲロウがとてとて歩いてきて俺を見送ってくれた。これでもかと手を振っている。そうだ。カゲロウがいるからいつもと違う。


「いや、そんなに手を振らなくても」


 素っ気なく答えた自分自身がちょっぴりおかしかった。本当は嬉しいのに。


「えー、いいじゃん。無事に帰ってこられるようにと思ってるんだよ?」


「これまた大げさな」


 カゲロウの過保護(?)に思わず苦笑い。


 でも、こうして見送ってくれる人がいるとありがたい。ちゃんと行ってこなきゃって、気が引き締まる。


 俺はカゲロウに手を振り返す。


「じゃ、またな。母さんに迷惑かけるなよ?」


「はーい!」


 まだ手を振っているのを背中で感じながら、今日も学校へ出発した。


 歩き慣れた通学路。気分が良いのか、視線がいつもよりも上を向いている。思い切って空を見上げると、ちょうど雲の切れ目から太陽が覗いた。光が射し、道が明るく照らされる。


 しかし、それはほんの一瞬だった。太陽はすぐに分厚い雲に隠されてしまった。視界が薄暗くなった。


 見上げるものを失い、目線は次第に下がっていく。気づけばアスファルトを見ていた。やがて、気持ちも沈んでいく。


 ため息をついても晴れる気がしない。そうして結局のところ、いつもと同じ登校になってしまった。


 現状は変わっていない。


 昨日に次いで今日と、何とか学校に行くことはできている。どんなに辛くても学校には行くべきだ。ここでサボると本当にリタイアしてしまう。母さんの教えだ。


 教室に入ると、すでに三分の一くらいの人が自習をしていた。しんと静まりかえった教室に、紙のめくる音だけが聞こえてくる。


 ゆっくりと椅子を引いて、何気ない動作でノートと参考書を机に出す。


 ページを開くも、目に入るのは文字の羅列。意識を参考書に移そうとしても、文字と反発し合っていつまでも没入できない。上っ面をなぞるだけの時間が続いた。早くも頭を抱える俺だった。


 俺が手を頭に当てて悩んでいる様子は、他の人には普通に勉強しているように見えるだろうし、違和感もないだろう。ただ周りと違うのは、予鈴が鳴るまでずっとその姿勢だったことだ。


 勉強のモチベーションが上がらないと言ってはいるものの、授業はしっかり受けるようにしている。これも母さんの教えだけど、授業で得られるものと教科書を読んで得られるものが同じなら、ステイホームしていた方がましだ。だから俺は、授業に関しては特に心配はなかった。


 俺が周りとの差異に落ち込んだのは、むしろ休み時間だった。


 昼休み。仲のいいグループが弁当をつまみながら盛り上がっている。聞こえてくるのは勉強の話題ではなく、ごくありふれたもの。ひっきりなしに笑いが起こり、本当に楽しそうだ。


 その会話を聞いていると、俺は陰鬱な気持ちになっていく。友達がいないのではない。


 彼らはどうしてあんなに楽しそうなのか。それはきっと、受験勉強が順調だからだ。余裕がなければ、笑っていられることなんてできない。まるで、すでに明るい未来が約束されているかのような彼らの表情は、今の俺には眩しすぎる。


 つまるところ、俺は完全に置いていかれた。俺がゴールデンウィークに足踏みをしていた間、彼らはずっと努力していた。彼らが努力していたということは、当然、彼らと戦うことになる他の学校の生徒も同じように努力していたことになる。彼らは振り返る必要はない。俺のようなぼんくらは、見向きもされない。


 午後の授業でついたため息の数を、俺は知らない。




 今日は一日中くもりだった。すっかり落ち込んでしまった俺は、家に着くなり部屋に寝転んだ。一度寝てしまうと、磁石のように身体が床に張り付いてしまうのを知っている。


 当然、ものすごい後悔に襲われた。


「ぁ……ぅぁ…………」


 身体を引きはがそうとして変なうめき声が出た。助けてくれ。このままだと寝る。


 勉強しなければという義務感だけが身体から飛び出てきそうだ。幽体離脱でもできるんじゃないか。いや、身体は寝かしといて意識だけで勉強できたらこの上ないことだな。


 ああ、またこんな現実逃避してる。だめだ、今日もまた一日を無駄にしてしまうのか。


 半分諦めかけた。そのタイミングを狙っていたのか、あるいは偶然か。


「あ。帰ってきてたんだ。って、どうしたの?」


 カゲロウが部屋に入ってきた。俺の頭はドアの方を向いていて、仰向けになっていた俺は彼女を見上げるという形になった。うん。この角度だと、ブラウンのワンピースの中が見えるか見えないか、中々際どい。


「ち、ちょっと、見ないでよ」


 人間になって恥じらいが生まれたのだろうか。カゲロウはスカートの前を押さえた。虫にドキドキするほど俺は物好きではないが、姿が人間だとどうしても意識してしまう。


「それはそれとして」


 カゲロウは頭をぶんぶんと振った。


「そこで寝転がっているけど、何かあったの? 具合悪くなっちゃった?」


 まるで年上のお姉さんのような調子で言った。その幼い外見のせいでちぐはぐな印象になっているのが面白い。見た目は中学一年生か二年生くらい。そのくせに、話し方は俺よりも年上に感じる。


 カゲロウといると不思議な気分になるのはそのためでもある。肉体年齢と精神年齢がどうも一致していない。


「いや、何でもない」


 俺がそう言うと、カゲロウは顔をしかめた。


「本当に? 疲れてるみたいに見えるけど」


「……そうだな」


 間違いではない。メンタル面で言えば、すでにつぎはぎだらけになっている。


「だから、今日はもういいかな。明日は休みだから、そっちで頑張るよ」


 弱音がぽろりと漏れてしまった。修復しきれない心の隙間は数多くある。


「む、その言い方だと、今日も勉強しないの?」


「ああ」


 弱気に任せて言い切ってしまった。どうせ今日も昨日と同じことになる、という諦めがそこにはあった。


 カゲロウの頬がこれでもかと膨らんだ。何だ、怒っているのか。どこでカゲロウの機嫌を損ねるようなことを言ったのだろうか。彼女が俺に怒る理由が分からない。俺が勉強をしないことにでも、怒っているのだろうか。


 しかし、カゲロウは何の気も無しに言った。言ってしまった。


「ちょっとでも、やった方がいいんじゃないの?」


 その言葉で、瞬間的に脳が沸騰した。


 弾かれるように身体を起こす。カゲロウが小さく「しまった」と言うのを、俺は聞き取ることができなかった。


「嫌いだ」


「え?」


「そうやって、何も知らない奴に勉強しろって言われるのが一番嫌いなんだよ」


「え、ぁ…………」


 カゲロウが青ざめていく。恐らく人間の、いや、怒りそのものに初めて触れたからだろう。


 でも俺は彼女に罵声を浴びせる。そうして、怒りを鎮めようとした。最低だった。


「虫なんかに何が分かるんだよ。人間のことが分かんないなら黙ってろよ」


「で、でも、私だって、キミのことを理解しようって、頑張ってるんだよ?」


 カゲロウは唇を震わせ、ようやくか細い声が出ていた。


「意味ないだろそんなことしても」


 それを跡形もなく打ち砕く。カゲロウは口をぱくぱくさせるだけで、言葉が出なくなった。それをいいことに、俺は追い打ちをかける。


「お前は俺のことなんかほっとけばいいんだよ。どうせ一週間後に死ぬんだろ!」


 ぴしゃりと、雷に打たれたように、カゲロウの顔が強張る。


「あ」


 言ってから、後悔した。


 身体の熱が急速に冷めていく。触れてはいけないところに触れてしまったような気がした。


 俺に対して、カゲロウの頬は紅潮していく。


「あ、ごめ……」


「そんなこと、私だって分かってるよ!」


 ガン、と頭を殴られたような衝撃。まさかカゲロウがここまで叫ぶなんて。


 うろたえたが、自分から怒った手前、引き下がると決まりが悪い。俺は応じざるを得なかった。


「わ、分かってるならどうして俺なんかに構うんだ。お前には時間が無いんだろ?」


「だって、私にはキミしかいないんだもん」


「俺しかいない? 馬鹿言うな、俺となんか付き合うだけ無駄だ」


 論点がずれて、もはや何の話をしているのか俺にも分からなかった。


「それより、さっさと出て行って、自分のやりたいことをすればいいんだよ!」


「私のしたいこと? そんなの決まってるじゃん」


「決まってるだと? 決まってるならいつまでも俺の家にいないだろ。それに、今日までお前は、自分がしたいことなんて一度も言ってないじゃないか」


「それは……」


 珍しくカゲロウが言い淀む。理由を答えられないのか。あるいは、それを言ってはならないのか。ためらうような仕草をする彼女から感情を読み取ることを、今の俺はできなかった。


「ほら見ろ、何も考えてないじゃないか。やっぱりお前は虫だ。人間のようにはなれないんだよ!」


「ちがうっ!」


 即座に返してきた。俺の勢いも一瞬止められる。


「何が違うって……」


「私はキミのそばにいたいの! それだけでいい! そのために人間になったようなものだから!」


 そう言い切って、カゲロウは俺に強い目を向ける。俺は何も返せず、ただ目を合わせるだけだった。


 音がするほど視線をぶつけ合う。それは図らずも、初めてカゲロウと正面で向き合った瞬間だった。


「…………」


 顔の周りが熱を持ち始めた。怒りではない。よくカゲロウはあんな恥ずかしいことを堂々と言えるな。聞いているこっちが赤くなりそうだ。流石カゲロウ、人間にはできないことを平然とやってのける。


 と、思ったが。


「っ…………」


 カゲロウの方もみるみる赤くなっていく。やっぱり恥ずかしいんじゃないか。


 それでも目は逸らさない。磁石みたいに引き合ってしまっている。先に逸らした方が負けみたいな空気になっていた。


 沈黙。


「……………ぷっ」


 カゲロウが負けた。しかし俺もつられて吹き出してしまった。声を抑えて二人でクスクス笑い合う。


 耳をくすぐるような、カゲロウの笑い声。


 それがこそばゆくて、我慢できなくて。でもカゲロウの方から爆発した。


「くっ、あははは。なんかおかしいね。私、なんであんなに怒っちゃったんだろ」


 それまでの重苦しさを晴らすように笑い、目尻を拭う。それだけで、険悪な空気はどこかへいってしまった。


 俺も一緒に声を上げて笑った。胸に溜まっていた泥のようなものが、少しだけ流れ出ていく感覚がした。


 それから、ようやく冷静になった俺は、


「カゲロウ、ごめん」


 まず、謝った。正直、気まずかった。けれど、筋を通さなければならない。関係が壊れてしまわないように。


 カゲロウは目をぱちくりさせてから、顔の前で手を振った。


「いやいや、キミが謝ることじゃないよ。私の方こそ、キミのことを何も分からずに勝手なことを言っちゃったし」


「そんなことない。カゲロウは間違ってないよ」


「違うよ、私の方が悪いもん」


「いや、俺の方だ」


「私だよ」


「俺」


「私」


「俺」


「私」


「「…………」」


 また二人でにらみ合いになった。


 そしてまた吹き出した。ただのコントだった。


「あーおかしい。やっぱりキミといると面白いね」


 カゲロウはまたストレートに言ってきた。


「そうなのか?」


「うん。もちろん、人間のことはキミしか知らないけど、それでもキミは面白い」


 彼女なりの直感というものなのか。さっきの、俺しかいない、というのは言葉通りだったりするのかな。


 はあ、と腑に落ちない顔をすると、カゲロウはいたずらっぽく笑った。妙に人間らしくて、不意にドキッとさせられた。


 俺とカゲロウの距離が急速に近づいたようだった。さっきのいがみ合いで、お互いの心の壁が取り払われた。それは、いつの間にかカゲロウが隣に座っていたことからも容易に分かる。肩が触れあっていた。


 こうして近づいてみると、本当にカゲロウは綺麗な顔をしている。ガラス細工を思わせる繊細な輪郭は、そのまま夕焼けに溶けてしまいそうだった。


 そんな彼女を見ていると必ず、寿命のことが脳裏に浮かぶ。


 夕日のように、もうすぐ燃え尽きてしまう命。寄り添った身体から流れてくる彼女の体温。これがもうすぐ無くなってしまうのかと思うと、急に焦燥感に駆られた。


「なあ、カゲロウ」


「ん、何?」


「あのさ。お前は、たった一週間しか生きられないん、だよな?」


 さっきの言い争いが鮮明に残っていたから、慎重な尋ね方だった。


「……うん、そうだよ」


 カゲロウの方は、さほど気にしていない様子だった。しかし、頷くのに少しだけ間が空いた。


「それを、カゲロウはどう思っているんだ?」


 振り返ると、かなり失礼な質問だと思った。俺が踏み込んでいい話ではない。余命宣告をされた患者に、今どんな気持ち? と尋ねるのと何ら変わりのないことだ。


 でも、聞かずにはいられなかった。


 初めて会ったあの日。彼女があっけらかんと言い放った残りの寿命。


 あと一週間。


 それは人間にとって、あまりにも短すぎる。何もできないに等しかった。なのに、カゲロウ本人はそれを全く意に介せず、今日まで生きている。


 彼女は何を思っているのだろう。それを知らないまま、別れることはできない。


「どう思っているって、どういうこと?」


 虫は人間のように、言葉の裏に隠れた意味を読み取ることができない。聞きたいことがあるなら、包み隠さず言うべきだった。


「だから、その…………死にたくない、とか、思ったりしないのか?」


「死にたくない? うーん。あんまり思ってないかなあ」


 深く考える素振りも見せず、本当に、なんとなーくカゲロウは言った。そんなあっさりとしていていいのか。これが人間と虫の死生観の違いなのか。俺は納得がいかなかった。


「それは、お前が虫だからなのか?」


 そう言って、ふと思い出した。


『それ、私も同じ』


 カゲロウも、俺と同じように平凡な自分に不満を持っていた。


 自分はこの世界にいてもいなくても変わらない。だから、いつ死んでもいい。そう、思っているのではないか。


「……それとも、お前が平凡だからなのか?」


 カゲロウは口元に手を当てた。珍しい姿だった。


 少し時間を置いてから、カゲロウは言った。視線はどこか別の方を向いていた。


「うん…………そうかも、しれないね」


 どこか、他人事のようだった。自分の運命を達観しているようにも見えた。


「でも、ちょっと違う」


 カゲロウはすぐに続けた。始めからそれを言おうとしていたかのように。


「違う? じゃあ、どういうことなんだ?」


 カゲロウは答えずに、窓の外を見た。俺もそっちを向く。


「どんな生き物でも、いつかは死ぬよね。だから、私たちもいつかは死ぬ」


 すでに陽は燃え尽きて、暗闇が民家に横たわっていた。


「そう考えると、あまり怖くなくてね。私が平凡だから、いつ死んでも変わらない、っていうのも間違ってはいないよ」


 カゲロウは外を見据えている。


 俺は、共感も反発もしなかった。彼女の口からそう言われたら、何も言えない。


 もし、彼女と別れるようなとき、俺は何を感じるのだろう。


 それは、いくら窓の外を見つめても、答えは出てこない。


 ぐぎゅるるる。


「ん?」


 間抜けな音が聞こえた。俺じゃない。


 カゲロウが顔を真っ赤にしてうつむいていた。


「……ごはん、食べよ? お腹すいちゃった」


 俺は笑ってしまった。


「む、何がおかしいの?」


「いや、別に」


 と、言いながら笑みが漏れる。


 カゲロウは呆れたのかさっさと部屋を出てしまった。と、思ったら。


「ほらほら、早くー」


 カゲロウがドアの前で足踏みをしていた。俺が来るのを待っているようだ。親を急かす子供みたいだな。


「分かったよ」


 俺が応えると、安心したように微笑んで先に行ってしまった。待ってたんじゃないのかい。




 夕食後、俺は部屋に戻ると自然に参考書を開いていた。


 相変わらず内容は頭に入ってこない。けれども、俺は僅かな進歩を感じていた。これまでは、机に向かうことさえ億劫だったのだから。


 一時間ほど経った頃だろうか。ドアが小さくノックされた。カゲロウだとすぐに分かった。


「入っていいよ」


 ゆっくりと開いて、カゲロウが姿を見せた。心なしか遠慮がちだった。


 そろりそろりと俺に近づくと、両手を身体の前でもみ合わせた。


「……カゲロウ?」


 急にどうしたというのか。飯のときはいつもみたいに賑やかだったのに。


 カゲロウは目を合わせずに、しかし何か言いたげにちらりちらりとこちらを見てくる。


「らしくないぞカゲロウ。言いたいことでもあるの?」


 そう促すとようやく口を開いた。


「あ、あのね。勉強してるのにこんなこと言うのも悪いんだけど」


 歯切れが悪い。カゲロウもさっきの口論を気にしているのか。


「もしね、キミが良かったら、明日は外に行ってみたい、なんて思ったんだ」


 伏し目がちにそう言って、恥ずかしさからか彼女は身をくねらせた。


 驚いた。けれど、同時に嬉しかった。勉強する気分はどっかに行った。


「それは、カゲロウのやりたいことなのか?」


 カゲロウはさらに俯いて、小さく「うん」と答えた。


 断る理由なんて無かった。残された時間は少ないから。


 むしろこうやって、彼女からやりたいことを言ってくれたのが良かった。今まで、俺のことを気にし過ぎている節があった。せっかく人間になったのに、何もしないで終わるのはもったいない。


「いいよ。明日は休みだから、行こう」


 快く受け入れると、カゲロウは顔を上げた。まばゆい程の笑顔だった。


「本当? ありがとう!」


「どういたしまぐほぉ!」


 カゲロウが飛びかかってきた。突然のことで全く準備ができなかった。後ろに倒れそうなところ、ギリギリで踏ん張った。


「ちょ、ちょっと、分かったから」


 カゲロウが目一杯俺を抱きしめている。華奢な体躯がまんべんなく俺の身体に押しつけられる。いくら虫のすることとはいえ、これはまずい。


「分かったから、離れよ? ね?」


 俺はカゲロウの気持ちを傷つけないように、そっと離した。彼女はご満悦そうだった。


「キミの身体、あったかいね」


「そうだな。でも、いきなり抱きつくのは良くないぞ」


「え、なんで?」


「なんでって、言われてもなあ」


 冷静に振る舞っているが、俺の身体は芯から熱くなっていた。落ち着け男子高校生。目の前にいるのは虫だ。お前は虫に襲われただけだ。


 いや、いくら虫とはいっても、見た目が美少女だからな。それが俺の胸に飛び込んできたら、そりゃあ、ねえ?


「危ないからだよ」


「え、危ないの? 怪我しちゃうの?」


 逆だよ、俺がお前を汚しちゃう。


 なんてことは言えない。


「まあ、それは人間じゃないと分からないもんだよ」


 カゲロウのほっぺたが膨らんだ。あ、怒った。


「分かった分かった、悪かったよ」


「もう、明日一緒に行ってあげないからね」


 頼んだのそっちじゃん。


「すまんすまん、許してくれ」


 まあ、ここで文句を言っても仕方ない。カゲロウのペースに合わせるのが正解。


 カゲロウは、ぷいとそっぽを向き、ちょっと空けてから流し目でこちらを見た。


「……ふ」


「ちょっと、なんで笑ったの?」


 その動作が、小さい子が大人ぶっている風に見えておかしかった。それと。


「いやいや。なんか、カゲロウもすっかり人間っぽくなったな、ってね」


「ん」


 面食らったのかカゲロウはしきりに身体のあちこちを触る。そういうことじゃない。


「私、まだ変なところがあるの?」


 どうやら本気で心配しているようだ。


 ちょっとからかってみるか。魔が差した。


「そうだな。子供っぽいところとか?」


 カゲロウは目を丸くした。それから口を尖らせた。


「そんなのしょうがないでしょ? 身体を選べたわけじゃないから」


 怒ってはいるものの、本気ではなかった。彼女もこのくだりはそういうものだと分かっているようだった。だから俺は安心して笑えた。


「あっはは、すまない」


「もう……」


 カゲロウは呆れながらも口の端が僅かに上がっている。


「じゃあ、私はもう寝るね」


 気づかれまいと、俺に背を向けた。明らかに恥ずかしがっている。かわいいやつめ。


「ん、おやすみ」


「うん」


 最後まで俺に顔を見せなかった。


 カゲロウが部屋を出ると、急に静かになった。俺が熱くなっていることが際立つ。


 気づいたら、頬の筋肉が痛くなっていた。ずっと笑っていたのだ。


 俺はすっかりカゲロウのことを気に入っていた。会ってから三日しか経ってないことを考えると、俺もちょろいものだな。


『私はあなたのそばにいたいの!』


 思い出すだけで小っ恥ずかしくなる。あんなの、ほとんど告白じゃないか。下手したら、人生で初めて女の子からそういうことを言われたかもしれない。


「…………へへ」


 いかん、ニヤニヤが抑えられない。言葉の意味は全然違うけれど、嬉しいものは嬉しいんだ。


 とりあえず、深呼吸。これは例外で、あくまで彼女といるときは冷静に。


 明日はカゲロウを満足させないと。俺には重大な使命が課せられている。彼女の笑顔が見たければ、俺が頑張らなければならない。


「よし」


 中途半端なところを仕上げて、俺はこの日の勉強を終わらせた。そしていつもより早くベッドに入った。

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