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――5日目。
朝起きてからは、ほとんど机と向き合っていた。カゲロウも気を使ってくれて、勉強の邪魔にならないように、部屋には入ってなかった。
自分のやりたいことのために。目先に目標があると、自然に手が動く。モチベーションは直近では一番高い。
とはいえ、久しぶりにまともに勉強をしたため、思っていたほど効率は良くなかった。それでも確かな進歩はあった。
気づいたら、すでに夜になっていた。あっという間の一日だった。
夕食後。
足りないところを埋めたり復習をしたりしていると、ドアがノックされた。
「あ、いいよー」
ドアが開き、遠慮がちに部屋に入ってきた。
「ごめんね。今、勉強しているところ」
カゲロウだ。
「いや、大丈夫。ほぼ終わってるから」
カゲロウはほっと胸をなで下ろした。俺もなんだか安心した。まだカゲロウは目の前にいる。
「それで、どうかしたのか?」
「うん……実は、ね……」
それきりカゲロウは黙ってしまった。手を身体の前で何度も組み直しているだけだ。この流れは、外出するのを決めたあのときに似ている。今回も、頼みたいことがあるのだろうか。
「何かあるなら言ってみて」
「…………ぉ」
ん?
「ぃ…………ょ……」
いやいや、小さすぎて聞き取れん。
カゲロウは耳まで真っ赤にして、口は小さく開け、蚊の鳴くような声を出している。
そこまで恥ずかしがることなんてあるのか。まして俺とカゲロウの間柄で。
「恥ずかしくないから、言ってごらん?」
カゲロウは目をしばたたかせ、顔を逸らす。窺うようにちらちらと目を合わせている。
そして、絞り出すように。
「き……今日、は……ぃ…………一緒、に…………ね、ねね寝ても……いい……?」
「 」
心臓が跳ねてベッドの上で何度もバウンドした。
ペンを落とした音が聞こえたが、俺は全く気に留めない。
言葉にならないうめき声のようなものが、俺の中から漏れ出た。カゲロウとの日々はいつも新鮮だったが、そんなチャチなもんじゃあ断じてねえ。
待て待て待て。俺は理性のある男子高校生だ。彼女が何を求めているのか、正確に把握できるに決まっている。言葉以上の意味は無いんだ。
「それ、は…………いや、俺は構わないけど。カゲロウは、いいのか?」
「……うん」
「そうか。分かった。なんとかしてみるよ」
現実的な話をすると、俺とカゲロウが二人で寝るにはベッド一つだと小さすぎる。床なら寝られるから、そこに布団を敷くのがベストだ。
ただ、二人か。二人で寝るのか。何か大事なものを失いそうで怖くなってきた。
思考を巡らせる。男子高校生と、虫、ただし外見は美少女。二人で同じ布団で寝る。彼女に一切危害を加えないことは断言できる。けれど、この話がうっかり外に漏れてしまったときに何が起こるのか、俺は想像がつかない。絶対に他の人には知られないようにするつもりだけれど、万が一を考えた方がいい。
すると、流石に一つの布団はまずい。これだけは、たとえ相手が虫だろうと。
「カゲロウ」
彼女は未だにもじもじしている。
「俺が床で寝るから、カゲロウはそこのベッドで寝るのじゃ、ダメか?」
折角のカゲロウの頼みを台無しにしてしまうと思って怖かった。
けれど、カゲロウは満足げに頷いた。
「うん。いいよ」
良かった。
「よし、決まりだな」
心臓は鳴り止まないが、冷静さは取り戻した。
まず、母さんにこのことを伝える。流石俺の母だ、すんなり了承してくれた。他の誰にも教えない約束もした。
押し入れから布団を引っ張り出した。長らく使っていなかったから、少しカビ臭かったけれど、カゲロウにこれを使わせるわけにもいかないから我慢。
布団を敷き終えると、寝るにはちょうどいい時間になっていた。
カゲロウは着替えてから来る。手持ち無沙汰になった俺は、なぜか布団の上で正座をしていた。自分の部屋にいるのに、そわそわして仕方が無い。
ノックがされる。もはやお決まりの儀式だ。
「どうぞー」
なぜか堅い声になってしまった。面接官か。
「し、しつれいしまーす」
俺が面接官なら、向こうは受験生だな。カゲロウはおずおずと入ってきた。
パジャマを着ている彼女は普段とはまた違った印象があった。薄い生地からところどころに浮き出る身体の線は、柔らかさを帯びている。ふくらみかけ、という言葉が当てはまるだろう、その胸元は服のゆとりが残されている。肩にかかるほどの茶色の髪は、丁寧にケアをしたのだろうか、光沢が出ていた。細く、しかしふっくらとした頬はほんのりと赤みがかっている。くっきりとした丸い瞳は、今や半分を瞼に覆われている。
思わず見とれてしまった。今のカゲロウは、元は虫ということを忘れさせる。また鼓動が大きくなってきた。
特に会話もなく、俺もカゲロウもさっさと自分の布団に入った。恥ずかしいのも少しあった。
「じゃあ、おやすみ」
「……おやすみ」
電気を消すと光が一目散に逃げ、闇が部屋を満たした。
静けさが耳に残る。
カゲロウがたまに立てる衣擦れの音が、必要以上に響いてくる。その度に、自分のベッドに女の子が寝ているという、信じがたい現実が鎮まりかけた心を煽った。
寝られない。
隣にいるカゲロウが気になって気になって。どうしようもないから、目は開けたままでぼーっとすることにした。いつか寝られるさ。
しかしそれがかえって眠りを妨げた。カゲロウの寝返りの音はまだするし、いつの間にか意識していた時計の秒針。これが結構うっとうしい。窓からぼんやりと光る月明かりも、闇の中では目立つ。
一つ大きく息を吐いた。
それが静寂を破ったのか。
「……まだ、起きてる?」
カゲロウがひそひそ声で話してきた。
「起きてるよ」
同じように返した。会話というよりは、一種の生存報告のようだ。これきりでやめるつもりだった。
「……ねえ」
「ん?」
「なんでもない」
「なんでもないのかいっ」
こんな当たり障りのない会話がひとりでに続く。
不思議な高揚感があった。たとえるなら、修学旅行の夜、消灯後になってから友達と盛り上がって一睡もできなかった、あのときのわくわく感に近い。夜の長さが、魅力的に思えてしまうのだ。
話は逸れに逸れて、話題を追うことは意味をなさない。脊髄で会話しているような感覚だった。
「好きな食べ物? うーん、みんなおいしいから全部好き。キミは?」
「俺か? そうだな……。カレーかな」
「カレーおいしいよね」
「そうだな」
「なんでカレーっていうのかな」
「辛ぇからでしょ」
「そうなんだ。メイドノミヤゲにするよ」
「ちょ、まて、どこで覚えたんだ、やめてくれ」
「んっふっふっ」
うるさくしないよう、声を抑えた笑いが俺の耳を撫でた。
カゲロウのしたり顔が容易に想像出来る。
「冥土の土産ってさ、なんか。あれじゃない?」
「あれ?」
「そう、あれ」
自分でもよく分からん。なんでこんなこと言い出したし。
「あれじゃ分かんないよ」
「すまん」
「ふふっ。でも、よく考えないでしゃべっちゃうの、なんか分かる気がする」
「だよな」
「不思議だね。夜はホントは眠らなきゃいけないのにね」
「そっか。確かに」
夜になれば眠る。朝になれば起きる。当たり前のことだ。それにわざと反するところに背徳めいた楽しみがあるのかもしれない。
「もしかしたら、人間にしかできないのかもね」
「そうなの、かな……」
「あ、別にカゲロウのことを悪く言ってるわけじゃなくてな」
「うん、分かってる。そうじゃなくて、もっと……」
しばらく間が空いた。
「うーん」
唸るような声。
「…………」
「分からないんだろ」
「……ぅん」
「ふ」
「笑わないでよっ」
「いや、すまんすまん」
「あっ、これがよく考えないでしゃべっちゃうってことなのかな」
「そうじゃないかな。カゲロウも分かっただろ?」
「うん。でもやっぱり不思議。人間っておもしろいね」
「そうか?」
「やっぱり分かんない」
「おい」
「えへへ、ごめんね」
「まったく……」
そうはいっても、笑みが自然にこぼれる。楽しい。純粋にそう感じていた。
彼女といると、どうしてこんなにも心が躍るのか。どうしてこんなにも話したくなるのか。どうして彼女をこんなにも受け入れているのか。
どうして、彼女と別れたくないのか。
そんなの決まっている。楽しいからだ。
何の下心もなく、対等に向き合って、互いに一人の人間として接する。その関係が心地よかった。気づけば、失いたくないとまで願っていたくらいに。
「……やっぱり、離れたくない」
「ん?」
「カゲロウと別れたら俺、絶対つらい」
何も返ってこない。俺は続けた。
「カゲロウは死にたくないなんて思わなくても、俺がカゲロウに死んでほしくないよ」
弱音だった。何でも話せそうなこの空間が、俺の口に戸を立てるのを許さなかった。
「……」
何かを言おうと息を吸い込んだ音が聞こえた。そして、細く吐き出された。
息が詰まるような沈黙。闇がのしかかってくるようだ。
「ごめん。勝手なこと言って」
俺は苦しさを紛らわすように言った。
「……いいの。私が悪いんだから」
「違うよ。なんでそんなこと」
「…………」
意味ありげな間が空いて、
「ごめんね」
カゲロウはぽつりと呟いた。闇の中に放り出されたその儚い一言は、追う間もなく消えた。不器用にも紡がれてきた言葉の糸が、切れた。
しん、と部屋が静まりかえる。仰向けになっていると、口を開いても声が出ない。静寂を破ることは許されない、暗黙のルールがここにはあった。
枕に顔を埋めた。
「それじゃあ、何も分からないよ……」
か細い声が漏れ出た。カゲロウには聞こえない。
じわりと、枕が湿った。
手が届いたと思ったのに、決して触れることができない。こんなにも近いのに、遥か彼方にいるようだった。
俺が見ている彼女の姿は、夕日が見せた陽炎なのだろうか。朝になったら、カゲロウなんて初めからいなかったことになっているのかもしれない。
俺は眠るのが怖くなった。もしそんなことになるなら、夜なんて明けてほしくない。ずっと、一日が続いていればいい。布団を被っても、身体が震えた。
見かねた眠気が俺を寝かすまで、どれくらいの時間が経ったのか。俺には分からない。
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