第2話 勇者セルウィン


 ――魔王軍本隊を示す、黒く揺れる炎の旗が揺れている。


 そこは腐食した黒い丘の上、立ち枯れて白骨のように変わり果てた木々が刺さる。


 黒い旗の下には、その主である魔王がその巨体を静かに揺らしていた。


 旗が立っている丘の麓には王国軍の兵士たちがひしめき、それを見て口々に感嘆かんたん怨嗟えんさが入り混じった声を囁き合った。


「あの旗を見ろ……ヤツらとの戦争が始まって10年? 魔王を見たのは俺たちが初めてじゃないのか?」


「なんという禍々まがまがしい気配だ……」


「なんだあれは? どんどん丘の土が腐って黒く変色していくぞ。生きる者の敵め」


 魔王直率の馬廻りともいえる半人半獣の馬魔族が主人の周りを取り囲み、魔王の姿はそのほんの一部しか確認出来ない。しかし、その強力な威圧感と、遠望するだけで臓腑ぞうふを突くような不快感が兵士たちの身体と精神を寒からしめ、魔王がそこにいるという現実感を与えている。


 やにわに、兵士たちが嘔吐おうとしはじめた。

 魔王から発せられる黒い煙のような暗気が、風下の王国軍兵士に薄く辿り着き、ただそれだけで、バタバタと暗気耐性のない者たちを倒し始めたのだ。


「――!? 魔法使い! 暗気障壁あんきしょうへきを!」


 王国軍の先頭に立つ若者が、鋭く声を轟かせた。


 若者の声に応じ、三人の魔法使いは灰色の杖を背負った杖箱つえばこから引き抜くと、低く呪文を詠唱し、杖を天にかざした。


 すると光の霧が王国軍を柔らかく包み込み、暗気がその霧に触れるとバチバチと音を立てて霧と共に相殺され消え、兵士たちを防護し始めた。


 魔法使いの一人が、若者に伝える。

「勇者セルウィン! こいつは極めて強力な暗気だ! 我ら三人でこの範囲を防護し続けるのには限度がある。蓄積魔法力が凄い勢いで減少中だ!」


 セルウィンと呼ばれた若者は、手を上げて応えた。


「この距離で兵が……でもいつの間に風下になった? 十分に注意していたのに」


 セルウィンは警戒心を解くことなく、傍らにいる少女に語り掛けた。


「敵には天候すら操る魔法の使い手がいるという噂、聞いたコトあります」


「ああ……じゃあ雷を落とされて最果ての湾岸諸連合軍が壊滅したってあれ、噂じゃなくてガチなんだな。蓄積魔法力が切れて暗気障壁が消える前にカタをつけなきゃならない。時間がないな」


「前衛の兵士たちは、障壁なしでは近づいただけで卒倒そっとうしちゃいますもんね。でも私たちも雷落とされたらビリビリですよ? ビリビリはイヤです、どうしますか?」


「アリーニ……常々言っているように、勇者ってのは人の痛みを引き受ける仕事だ。良き村人の守護者として盾となり、仇なす敵を討つ剣となる。その心構えのない者はハナから勇者を目指してはいけない。分かってるよな?」


「もちろんです。でも雷はビリビリですよ? あの頭のてっぺんまでムズムズする感じが好きではないです」


「敵の総大将を目の前にして、痛みの種類の好き嫌いを今ここで論じてる場合じゃない。師匠として俺は悲しいぞ……」


「でも勇者であれば、誰にだって痛みの好き嫌いはあります。お師匠もそーですよね?」


「まあ、な。それにしても、もし雷が広範囲に被害を与えるようであれば、俺たちはおいといても兵たちへの損害が避けられない。敵にあれほどの魔獣兵がいる以上、それは避けなきゃな」


「はい。どうにかして魔王とお師匠をタイマンの状況へと導かないと、勝ち目はありませんよね。兵には魔獣兵のお相手をしてもらわないと」


「そうだ。それが勝利の最低条件……俺たち勇者は一騎打ちに特化した戦職せんしょくだ。多対一の状況で強力な敵をまとめて倒せるような器用さなんて持ち合わせちゃいない。強力な防護力と、単体の敵と組み合って戦うアビリティに全振りして進化してきた対魔族幹部のエキスパート。戦争においては、いわば変態中の変態だ」


「ん? お師匠は戦争中じゃなくても変態じゃないですか?」


「んん? お前にはこの戦闘の後で、たっぷりと稽古をつける必要がありそうだよなぁ、んん?」


 セルウィンは人差し指の腹で、頭一つ低い身長のアリーニのあごを下からつついた。


「んっん……ビリビリ以外の打撃とか切り傷系の痛みなら喜んで! お師匠の打撃は特にすきです……」


 流麗で整った顔立ちであるアリーニの前髪に隠された額、そこに刻まれた一文字の傷跡がセルウィンの脳裏を一瞬かすめたが、彼はそれ以上言葉を継がずに鞘から剣を抜き放った。


 二人に言葉は必要なかった。

 アリーニは傍らの師匠が剣を抜くのを見るや、自らも腰からその身長に似合わぬ長剣を引っこ抜くと、それを天にかざした。


「大勇者アコンカグアよ、ご照覧あれ!」


 天にも届く声でアリーニが鯨波げいはを上げると、背後の兵たちが一斉に槍と剣を天にかざして彼女の言葉に続いた。


 大群の大音声だいおんじょうが収まったタイミングで、セルウィンは胸いっぱいに息を吸い込み、そして喉を震わせた。


「――突進撃破ッ!」


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