「やっと見つけたぞ!こんなところに隠れやがって!」

 霏々季はあまりの驚きに言葉を失った。怖そうな黒人の中年男が睨みつけて来たからだ。

 大人しくしていたのに、生者だとばれてしまった!

 逃げなければ!

 決して俊足の持ち主ではなかったが一生懸命に走り出す。

 「こらっ!」

 しかし無情にも彼女は捕まってしまった。

 折れそうなほど細い腕を力強く引かれて、ずるずると駅構内を突っ切って行く。

 抵抗せずに従った方が刑は軽くなるのか?それともなんとしてでも逃げたほうがいいのか?色々考えを巡らす彼女をよそに男は怒鳴る。

 「全く…主役が仕事を放り出して!みんなに迷惑を掛けたんだから、戻ったらちゃんと謝れよ!」

 男の太い腕に噛み付こうとして、ぴたっとその動きを止めた。

 主役?仕事?

 どうやら互いに勘違いをしているらしい。

 「あの、主役ってなんですか?人違いじゃ…」

 「黙れ!お前は何も喋るな!」

 「いや、あの本当にわたしじゃないと思います!」

 「黙れ!」

 再び怒鳴りつけられて、霏々季はすっかり縮こまってしまった。罪人だと知られなくてよかったけれど、今度は人違いされるなんて。

 なんという不運。

 話を聞いてもらえそうにないし、とりあえず従うしかないようだ。

 駅の改札から抜け出すと、生者の国以上に賑わっている街が目の前いっぱいに広がっていた。様々な屋台が立ち並び、至る所が明かりで飾り付けられている。大きな花火もどーんどーんと上がっていた。

 酒を飲む労働者風の男達。仲睦まじい恋人達。追いかけっこをする子供達。皆とても死んだ風には見えないくらいに楽しそうだ。

 男に捕まってさえいなければ、霏々季も楽しめただろう。黄泉はてっきり怖い所だと思っていたので、すっかり裏切られてしまった。

 これなら間違って来てしまったとはいえ、生者の国に戻らない方がいいのではないか。

 帰った所で待っているのは同級生と上手く付き合えない現実と受験勉強だけ。

 ここで毎日お祭りのような暮らしができるなら、それに越したことはない。彼女は心が揺れ始めていた。

 そんなことを考えている内に男に連れて行かれたのは、寂れた劇場の控室だった。

 「誰よ、この⁉︎私はアリアを探してって言ったのよ!」

 「はあ⁉︎アリアじゃないのか⁉︎」

 「アリアはもっと可愛いわよ!」

 「そんなことを言ったって、友達が駅の近くでアリアを見たって言うから、てっきりこの娘がアリアだと思って…」

 「あなた、アリアを見たことあるでしょう⁉︎全然別人じゃない、どうするのよ⁉︎」

 「アリアだって化粧が濃いじゃないか、女のすっぴんなんてこんなもんだろう!」

 いきなり目の前で喧嘩が繰り広げられ、彼女は置いてけぼりを食らった。

 勝手に別人と間違われて連れて来られただけなのに、可愛くない、こんなものとまで言われてしまって不満に思っていると、

 「とにかくもうしょうがないわ。あたしはここの座長のマリア、こっちが旦那のニッグ。あなたはなんていうの?」

 「ひ…ビキです、ビキ」

 間違えて本名を名乗り掛けたが、下二文字でごまかす。

 「ビッキーね、オーケー。うちの馬鹿旦那がごめんね、怖かったでしょう?」

 「い、いえ…」

 ほら、あなたも謝りなさいと言われて、ニッグが申し訳なさそうに頭を下げた。二人は夫婦で、彼はマリアの尻に敷かれているらしかった。

 「アリアはあたしの従妹なんだけど、困った子でね。でもまさか仕事を放り出すなんて」

 「何かあったんですか?」

 「毎日毎日踊ってばかりで、嫌気が差しちゃったみたい」

 マリアがはあと、溜息を吐く。可哀そうだけれど自分がいても状況は好転しないので、帰ってもいいかと聞こうとした時、控室に第三者が現れる。

 「失礼します、結局アリアは見つかったのですか?」

 「メルメナ…!」

 淡い金髪と薄緑の瞳が特徴的で妖精のように美しかった。口角を上げていたら見る者に儚い印象を与えただろうが、今はきりっとしていた為、正反対に気が強そうに見えた。

 「私はずっとアリアの後ろで踊る毎日でしたが、主役の振り付けも、歌詞も完璧に把握しています。アリアが見つからないのであれば、代役をやらせて下さい」

 かっこいい。

 彼女は素直にそう思った。

 麗しい見た目は勿論のこと、きっと誰よりも努力を積んでいるから、こんなにも堂々と自分の意見が言えるのだろう。

 いつチャンスが巡って来てもいいようにと、メルメナは主役になれない現状に燻ることなく、人知れずアリアの分まで自分のものにしていた。

 そしてとうとう神様がチャンスをくれたのだ。

 「…分かったわ、あなたにしか務まらないものね。主役の衣装に着替えてちょうだい、サイズが合わないようなら衣装係になおしてもらって」

 「ありがとうございます」

 メルメナが少しだけ笑った。

 「で、ビッキー。今からあなたにも舞台に上がって欲しいの、急だけど頼めないかしら」

 「え⁉︎」

 アリアの代役が見つかったのだから、話はもう終わりではないのか。

 「ほら、メルメナがアリアの代わりになると、今度はメルメナの役が空くでしょ?ちょうど左右対称で三人ずつ主役の後ろで踊らなきゃいけないから、一人でも欠くと見た目が悪いのよ」

 マリアが細身だったら、素人の霏々季に頼む必要なんてなかったのだけれど、彼女はふくよかな体つきで舞台映えしなかった。ぎりぎりの人数でやっているので、他に頼める人もいないのだという。

 「でもわたし、台詞も振り付けも何も分からないのに…」

 何より人前に出るなんて考えられない。

 遠回しに断ろうとするとマリアは食い下がった。

 「大丈夫よ、台詞はないし、ただ踊るだけだから。間違えたって、誰もあなたを責めないわ」

 「頼む、人助けだと思って…!」

 二人に頭を下げられても、無理なものは無理だった。

 自分なんかが出て行ったら、お客さんに笑われるに決まっている。学校にいた時のように嘲りの対象になるに違いない。

 彼女が返答に詰まっていると、メルメナに手を握られた。

 「あなた、これがどれだけ幸運なことか分かってる?うちに入りたくても入れない娘達が沢山いるのよ。女の子なら誰だって舞台に立って注目されたいじゃない、不安はあって当然だけど、やってみる価値はあると思わない?」

 霏々季もかつては夢見て、吉川がいる演劇部に入ったことがあった。舞台に立ってみたいと漠然とした夢があったからだ。

 ところが、演劇部は部としてほとんど機能していなかったので、役を貰う前に辞めてしまった。

 今度の体育祭のチアリーダーも辞退した。

 二年生までは、オーディションを突破しなければチアリーダーにはなれないが、三年生は最後なので希望者は全員無条件で参加できるが、辞退した。学年中の女子で不参加なのは彼女だけだった。

 踊りが苦手だったのと、男子達に笑われるのが怖かったのだ。また吉川に見下されるのかと思うと、とてもではないが踊れない。

 南野のような美少女ならともかく、芋女が無理して表に立つなと思われるくらいなら、ひっそりと存在を消してじっとしていた方がいい。

 春休み中、体育祭の準備の為に皆で集まった時も、彼女は女の子達が楽しそうに曲に合わせて踊ったり、衣装の打ち合わせをしたりするのを遠くから眺めるしかなかった。

 だけれど、もし今、目の前に舞台に立てるチャンスが転がっているのなら。

 わたしもメルメナのように掴むべきではなかろうか。

 ここには霏々季を苦しめる吉川も、劣等感を抱いてしまう南野もいない。黄泉では誰も本当の霏々季を知らない。

 そして、これが人生で最初で最後の舞台になるのだとしたら。

 「…分かりました、やらせて下さい!」

 笑われたって下手だっていいではないか。

 どうせここの客とは今夜でこれっきりだ。

 舞台に立てば、その瞬間からプロとして見てくれるだろう。だったら、何も恐れずに挑戦してみたい。

 わたしも、チアリーダー達みたいにきらきらしてみたい!

 「そう来なくっちゃね!じゃあ時間が許す限り特訓よ!」

 メルメナが練習部屋に案内してくれる。ダンススタジオとほぼ同じ感じだ。

 「このミュージカルは不思議な世界に迷い込んだ女の子の話なの」

 まるで今の霏々季のようである。

 不思議な世界に迷い込んだ主人公が、不思議な住にん達と出会いを繰り返してまたもとの世界に戻って来る、という話だという。

 「あなたは、主人公とお茶を楽しむ六つ子の兎役」

 「分かりました」

 「じゃあさっそくだけど、私の真似をしてみて」

 「は、はい」

 二人で大きな鏡の前に立つと、メルメナが軽やかにステップを踏む。動きの一つ一つがしかっりとしていて美しく、見惚れていると、間違えて反対方向に足を出してしまった。

 「違うわ、もっと集中してよく見て」

 「す、すみません…!」

 そんなことを言われたってわたしはダンス経験者ではないし、仕方なく流れで舞台に立つことになっただけだし…。

 なんてついいつもの癖で他人のせいにしたくなったが、文句を言っている場合ではなかった。

 とにかく全力で覚えなくては。一度でいいからちゃんと舞台に立ってみたいと決めたのは、他でもない自分。たとえ付け焼刃だったとしても、今ここで頑張らなくていつ頑張る?

 「もっと笑顔で!」

 「動作はやりすぎなくらい大きく!」

 それから時間はあっという間に過ぎて、終わる頃には、滅多に汗をかかない霏々季でもしっとり汗ばんでいた。

 だが一息を吐く間などなく、残り時間で衣装合わせと化粧をしなければならなかった。

 「あなたは細くて小さいから、一番下のサイズがいいわね」

 マリアから衣装を渡される。メルメナは既に自分の着替えに向かっていた。

 「ありがとうございます」

 それは白のジャケットと黒のミニワンピースだった。

 「メルメナの代役?着替えはあっちよ」

 楽屋に入ると、既に準備を終えていた他の役者達に一斉に注目された。皆スタイルがよくて、いかにも大人の女性という雰囲気で気後れしてしまう。

 「ビッキーです、下手ですが頑張ります…!」

 指された簡易的な更衣室に逃げるように駆け込む。一つ深呼吸をしてから着替えた。

 堂々とミニスカートを履くなんていつぶりだろう。

 学校ではスカートを折ってはいけない規則があるので、いつも放課後、駅の化粧室に隠れてこそこそ折らなければミニスカートなんて履けなかった。

 だけれど、今はこれがで正しい服装なのだ。

 あの世にこんな可愛い衣装があったなんて!

 姿見の前で感動していると、いきなりカーテンが開かれた。

 「きゃっ!」

 「あなたが代役の娘?もたもたしている暇はないわよ、早く化粧しないと」

 ひょろりとした女性で、白い肌ゆえにそばかすが目立っていた。化粧道具を沢山入れたポーチが、重たそうに腰から下がっている。

 「私はエズ、早く座って」

 「ビ、ビッキーです、宜しくお願いします」

 鏡の前に座ると、エズに眼鏡を取られた。裸眼でも見えなくはないので問題はないが、体の一部が消えたみたいで少し不安だ。

 化粧水で肌を整えた後、下地とファンデーションを塗られた。

 「上を向いて」

 「は、はい」

 太いアイラインを入れ、つけまつげをつけると目力が増す。

 「目を瞑って」

 それから、瞼に派手なグラデーションを作り、頬と唇をピンクに染めると、まるで人形のように可愛らしい顔が出来上がった。

 「あら、別人じゃない!子兎みたいでとっても可愛いわ!」

 「本当だわ、こんな妹が欲しかったの!」

 周りに女性達が集まって来た。こんなに沢山の人に囲まれてちやほやされたのは初めてだった。自分がここまで変われる可能性を秘めていたとは、霏々季が一番信じられなかった。

 「当たり前でしょ、この私が化粧を担当したんだから!」

 エズが得意気に言うと、最後に髪をほどいて兎耳うさぎみみ付きのミニハットを被って完成した。

 これでどこからどう見ても、霏々季も立派な役者だ。

 「エズさん、ありがとうございました!」

 「いえいえ」

 「みんな、そろそろ始まるわよ!」

 マリアに呼ばれて、皆、ぞろぞろと舞台裏に移動する。そこには輝かんばかりのメルメナもいた。

 「結構様になってるじゃない、似合ってるわ」

 「いえ、メルメナさんの方こそ、お綺麗です」

 彼女はフリルがふんだんにあしらわれた真っ赤な衣装を着ていた。

 「…正直に言うわ、あなたが舞台に立つのはまだ早過ぎる」

 「え…」

 突然暗い顔でそう言われたので、霏々季は反応に困ってしまった。

 「勿論、意地悪で言ってるわけじゃないのよ、あなたがだめというわけでもないの。…でも私なんて何年も稽古を続けてやっと舞台に立てるようになったんだから、初心者のあなたが今日いきなりデビューなんて普通はありえないでしょう?」

 「確かに、そうですよね…」

 運がいいのか悪いのか。

 「つまり何が言いたいのかというと、気負わないで気楽にやって欲しいということ!できなくて当たり前なんだから、後は見様見真似でやればいいの」

 「ありがとうございます」

 どうやら励ましたいだけなのだと分かると、彼女も少しほっとした。

 「最後に一つだけアドバイスしてあげるわ」

 「なんですか?」

 「途中で上手く踊れなくなっても、堂々としていること!あたかも間違えてなんかないふりをするの。お客さんも案外分からないものなのよ」

 「メルメナさんも知らんふりをしたことがあるんですか?」

 「勿論あるわよ」

 彼女があまりにも正直に答えるので、霏々季は思わず吹き出してしまった。おかげで緊張がほぐれた。

 「じゃあ始まるから、もう行くわね」

 彼女はそういうと、すぐに袖から舞台に移動した。

 音楽が流れ、幕が上がると、メルメナは歌いながら踊る。

 すぐに昆虫や蝶に扮した男女の役者が現れ、主人公に進むべき道を教えてくれた。

 舞台袖からとはいえ、まともなミュージカルを初めて見て感動していると、すぐに霏々季達の番がやって来た。

 「ビッキー、行くよ!」

 「は、はい!」

 捌けた虫の役者達と入れ違うようにして観客の前に躍り出ると、一瞬時が止まった。

 みんながわたしを見ている。

 踊れるところだけでも踊らなければ…!

 霏々季は覚悟を決めて一生懸命体を動かした。他の五人より遅れても、動きがぎこちなくても、とにか身振り手振りを大きくして笑顔を絶やさなかった。

 きっと客は、一人だけダンスの質が低いことなどとっくに見破っているのだろう。全体的にうろ覚えだし、悪い意味で目立っているのも分かったが、不思議と怖くなかった。全力の前では何も恐るるに足りないのかもしれない。

 やがてお茶会はお開きとなり、主人公はもっと先に進むことになった。王子役と交代する形で舞台裏に捌ける。十分ぐらいの出番だったが、彼女は疲れて床にへたり込んでしまう。まだ興奮冷めやらぬ心臓が、ばくばくと忙しなく音を鳴らしている。

 メルメナはいつの間にか王子を誑かした悪い女として城の兵士に捕まり、女王に裁かれることとなった。

 しかし、王子が助けてくれたおかげで逃げ出すことができ、二人揃ってもといた世界に帰ることができた…。そこで物語が終了した。

 拍手喝采だった。

 霏々季も手が痛くなるほど拍手をしていると、後ろから押される形で舞台に立ち、役者全員で観客達に深々と頭を下げた。

 「ひびきちゃん!」

 なんと一番前の席にヒューマがいた。

 吃驚しながらも、彼に手を振る。先ほどはそれどころではなかったので全く気付かなかったが、よく見ると列車に乗っていた人が他にも沢山いた。

 「ヒューマくん!化粧もして服も変えたのに、よく分かったね!」

 舞台が終わった後、霏々季は着替えるよりも何よりも先に客席に向かい、小さなヒューマを抱き上げた。

 「ひびきちゃんすごくじょうずだった!」

 「ありがとう!…あれ、他の人達は?」

 「もういったよ」

 これははぐれてしまったということなのだろうか。

 ヒューマだけでは心配だ、誰か傍にいてくれる人が必要だ。

 「じゃあ一緒に探しに行こう」

 彼女は舞台衣装のまま、劇場から飛び出して辺りを見回した。よく分からないけれど、来たばかりの死者は女王に謁見しなければならないらしいので、ヒューマはこんな所でひとりでいるよりも皆に着いて行った方がいいだろう。

 小物やアクセサリーを売る屋台を覗きたい気持ちを我慢しながら集団を探したが、なかなか見つからない。

 「ひびきちゃん、あれがたべたい」

 ヒューマがお腹を空かせて屋台の綿飴を指した。

 「でも、わたしお金なんて…」

 黄泉の貨幣なんて持っていない。ついでに言うなら、なけなしの千円が入った財布も楽屋に置きっ放しのままだ。

 「だめなの?」

 彼ががっかりしたように尋ねるので、霏々季は申し訳なくなった。

 「ごめんね、お金を持ってないの」

 そうこうしている内に、突然街全体に放送が響き渡った。

 「ただいま午後十時になりました。本日もお勤めご苦労様でした。演技をやめて直ちに後片付けを始めてください。繰り返します。ただいま午後十時になりました。本日もお勤めご苦労様でした。演技を止めて直ちに後片付けを始めてください…」

 彼女にはなんのことだかさっぱりだが、周りはぴたっと談笑をやめ、明かりもぽつぽつと消え始めた。

 祭りと思っていたものは、お勤めらしい。では、いったい誰に対して演技をしていたというのだろうか。

 「あの、お祭りはこれで終わりですか?」

 霏々季は先ほどまで踊っていた女性に声をかけた。

 「そうよ、もう帰っていいのよ。…ああ、今日もをするのに疲れたわあ」

 楽しそうなふりに疲れた?

 あれだけきらきらして見えていたものは全て嘘だったというのか。

 「毎日こんなことをしているんですか?なんの為に?」

 「あなた、新人さん?何も聞いてないの?…こうやって毎晩楽しそうなふりをするのがあたしたちの仕事なわけ。生者の国からやってくる死者に油断させる為にね。実際、苦役に従事しているところを見せて初日から逃げ出されたら、たまったものじゃないでしょ」

 女性はめんどうくさそうに説明してくれた。

 死者は女王に謁見する前に黄泉の国を観光して回り、いい所だと思い込まされるのだという。

 「そう、なんですか…」

 やっぱり黄泉は全然楽しい所なんかじゃない!

 黄泉ではこの演者たちのように楽な仕事を振り分けられる死者と、苦役をさせられる死者がいるのだ。多分生前の行いがよくなかった死者が、重労働者なのだ。もし、霏々季が不法入国者だと知られたら大変な目に遭わされる。

 早く逃げなければ。

 「ありがとうございました、失礼します…!」

 彼女はヒューマを抱えてすぐに背を向けて走り出した。横目に皆が屋台を片付けるのが目に入った。  

 「ひびきちゃん、どうしたの?」

 どうしよう、ヒューマを連れたままでいいのだろうか。

 かと言って、その辺に置いて行くこともできない。本当は黄泉の国に留まるべきなのだろうが、この際、一緒に連れて帰るしかない。

 「…だ、大丈夫、なんでもない!」

 一方で女性は慌てて走り去る霏々季を不審に思っていた。

 いくら新人とはいえ、流石に何も知らなさ過ぎるし、家に帰るべきところをなぜ駅の方に向かっているのか…。

 「死者が逃げようとしてるわ…!早くあの娘を捕まえて…!」

 気付けば彼女は叫んでいた。

 あの少女はきっと今日着いたばかりの死者の一人。現実を教えたばかりに逃げようとしているに違いないと。

 瞬間消えかけていた明かりが一斉につき、走っている兎の少女に注目が集まった。

 「女王様に一人足りないとばれたら、俺達が罰を受ける羽目になる!」

 「逃すな!絶対に捕まえろ!」

 「嘘でしょ⁉︎」

 どうやら色々聞き過ぎたらしい。

 駅までの真っ直ぐな道ではなく、途中の小道に飛び込んだ。全く土地勘がないのに、下手に走り回って迷子にならなければいいが…。

 「駅の方に向かってるはずだ!」

 「急げ!」

 男達が霏々季を追い掛けている。

 服装を見られたので、変装した方がよいだろう。彼女はジャケットを脱ぎ、手早く畳んで地面に置いた。その上にハットを載せる。走りにくいのでヒールも脱いで隣に並べた。マリアに返せなくて申し訳ないが、どうか許してほしい。

 あれもこれも取ってしまうと、だいぶ身が軽くなった。これで多少はごまかせるだろう。というより、そうであって欲しい。

 近くでばたばたという足音と叫び合う声が絶えず聞こえて来る。

 「どこに行った!?」

 「もっとよく探せ!」

 もう少し遠くの路地に逃げ込んだ方がいいかも知れない。ここが見つかるのも時間の問題だった。

 霏々季はそろりそろりと忍者のように隣の路地に移るというのを繰り返した。しかし、何回目かの時、突然柔らかいものにぶつかった。太った男のお腹だった。

 「見つけたぞ!」

 「離して!」

 細い腕を掴まれては、ただの女子高生に過ぎない彼女にはどうすることもできなかった。

 「ひびきちゃんをいじめないで…!」

 ヒューマが男を叩くが、綿しか詰まっていない腕ではぽかぽかとしか殴れなかった。

 ふたりでもがいているうちに他の男達もやって来て、城に連れて行かれることとなる。

 霏々季達は逃げ出そうとした罪人ということで、手錠をつけられ、女王のもとまで連れて行かれた。可哀そうに、ヒューマにも小さな手錠が嵌められていた。

 女王は立派な玉座に座り、肘掛けに頬杖をしていた。その前には同じ列車に乗っていた死者達も集まっている。生前の行いによって一人一人を裁き、それぞれに相応しい仕事を与える為である。

 「来たか、罪人供め」

 女王は頭上に王冠を載せ、艶やかな黒髪を背中から床に垂らしていた。そして同じように真っ黒かつ妖艶なドレスを着ていた。

 彼女は若くも見えるし、中年にも見える不思議な顔立ちだった。そして今は不機嫌そうに眉を顰めているせいで、更年期の女性に見える。

 「…死の匂いがせぬ。そなた、生者だな」

 左右に立ち並んだ死者たちが息を呑むのが聞こえた。流石は女王、一目見ただけで彼女の正体を見破った。

 「す、すみません…」

 「残念ながら、そなたを生者の国に帰すわけにはいかぬ。これからは黄泉でわらわに尽くせ」

 「あの!わたし、どうしても生者の国に帰らなきゃいけないんです!お願いします!」

 「だめじゃ」

 しかしながら女王はきっぱりと切り捨てた。

 「ワタル。生者が来たというのに、なぜわらわに報告しなかった」

 「申し訳ございませんでした」

 ワタルと呼ばれて死者の間から出てきたのは、あの車掌だった。片膝を着いて恭しく礼をする。

 「切符を切り忘れたので、彼女が生者だとは気付きませんでした。ワタシの怠慢です」

 鋭い眼光で睨まれても動じることなく、最初から用意していた言い訳を述べた。

 「ふむ。よりによって切符を切り忘れたのが生者の娘とは。…いささか話ができ過ぎではないか?」

 「申し訳ございませんでした」

 彼は再び謝った。女王はそれ以上追求する事はせず沙汰を言い渡す。

 「ワタルとその女を牢に閉じ込めておけ。ぬいぐるみもだ」

 「はっ」

 三にんとも連れて行かれそうになって、霏々季が慌てて叫んだ。

 「待ってください、悪いのはわたしだけです!車掌さんもヒューマくんも何も悪くありません!」

 ところが女王には情けも涙もないのか、

 「勿論、そなたが一番悪い。だが、そなたを見過ごしたワタルも悪い。いいと言うまで牢で過ごせ」

 手錠を外されると、冷たい地下牢に押し込まれてしまった。ぴちゃんぴちゃんと水が滴る音が響く。

 「ごめんなさい、巻き込んじゃって!」

 霏々季はふたりに謝った。

 「…気にしないで、もともと危険承知だったから」

 彼は少しやつれたように微笑んだ。

 「キミ、どうして駅から出たの?それにその格好は…」

 「ごめんなさい、列車から追い出されたら人違いされちゃって。ミュージカルの役者が一人足りなくなったから、代役を頼まれたの」

 「それでキミ、舞台衣装を着ているのか。…ボクの方こそごめんね、あの後死者達の観光案内をしなきゃいけなかったから、キミを放ったらかしにしてしまった。でもまさか、鑑賞したミュージカルにキミが出演していたなんて、全然気が付かなったよ」

 車掌も劇場に来ていたというが、霏々季も全く分からなかった。

 「ぼくはすぐにわかったよ!」

 ヒューマが誇らし気に言うと、霏々季がぎゅっと抱き上げる。

 「ヒューマくんは凄いよ」

 別人と言っていいほど見た目が変わってしまったわたしを、見つけ出してくれたのだから。

 「ところで、まだ何も食べてないよね?」

 「うん…」

 そういえばこれからどのくらい閉じ込められるのだろう。

 このままずっと水一滴も口にしないわけにはいかないし、そうなれば本当に死ぬ。その前になんとしてでも帰らなければならない。

 「ワタルさんは長いこと車掌をやってるの?」

 なんとか逃げ出せないかと鉄の格子を蹴ったり、壁を叩いたりしながら聞いてみた。

 ところが車掌は諦めているのか、行儀よく三角座りして腕にじゃれつくヒューマの相手をしていた。

 「うん、七年くらい。ボク、自分がなんで死んだのかとか生前の記憶とかがないんだ。気付いたら女王様に仕事を与えられて、毎日毎日忙しかった。…ボク、本当はこんな真っ黒な制服じゃなくて、キミみたいなスカートを履いてみたかったな」

 スカートを履いてみたかったと言われて、霏々季は驚いた。てっきり男だと思っていたが、もしかして…!

 「あなた、女の子なの⁉︎」

 「…やっぱりそうは見えないよね、ごめん。騙していたわけじゃないけど、女王様にこの制服を着て、男として振る舞うことを義務付けられているんだ」

 霏々季は信じられない気持ちでワタルを見た。

 「わたるくんはおんなのこなの?」

 ヒューマも不思議そうな顔で二人を見比べる。

 言われてみれば、中性的な顔立ちは十分に女性らしさも兼ねているし、男にしては線が細いのも納得した。

 ワタルというやや男の子っぽい名前と、女の子という性別。その時、頭の中で何かが綺麗に組み合わさった。

 「思い出した…!あなたが七年前、西田蔵駅で神隠しにあった娘でしょ⁉︎」

 完全に記憶が呼び覚まされた。

 隣の小学校で行方不明になった女の子の名前が藤田 航ふじた わたるだったことを。

 彼女がその近辺で行方不明になって以来、西田蔵駅はますます恐れられるようになった。だから絶対に近付くなと大人達から口酸っぱく言われていたものだ。

 「…何を言ってるの?ボクの何を知ってるの?」

 「何も覚えてないんだっけ?街の至る所にはあなたのポスターがあった。まさかわたしと同じように黄泉に来ていたなんてね。そりゃあ警察がどれだけ探しても見つかるはずがないわ。あなたはわたしと同じ生者だったのよ!」

 「そう、なんだ…ボクは生者だったのか。…まだみんな、僕を探しているの?」

 「勿論だよ!みんな、あなたの帰りを待ってるのよ!わたしと一緒に帰ろう!」

 しかし、航は弱々しく首を振った。

 「仮にここから逃げ出せたとしても、キミ一人しか帰れないよ。ボクは…もうだめだ。七年もずっと黄泉のものを食べてきたんだ、もうとっくにここの住人だよ」

 最初に会った時、航が忠告として絶対に黄泉のものを食べるなと教えてくれた。もしかしたら彼女が記憶を失くしたのも、黄泉の食べ物をずっと口にしていたからかもしれない。

 だが逆に考えれば、黄泉の国のものを食べたら帰れないというのなら、生者の国のものを食べれば帰れるのではないか。

 「わたしの馬鹿馬鹿馬鹿…っ!あの時、チョコレートを食べなければ…!」

 そうすれば今、航に食べさせることができたのに…!

 「ひびきちゃん、どうしたの?」

 いきなり自分を責め始めた彼女を、ふたりが怪訝そうに見つめる。

 「ねえ、ヒューマくん、他にお菓子を持ってない!?なんでもいいの、飴とかキャラメルとか!」

 「あるよ」

 そう言うと例のごとく、じじじ…とジッパーを下げて、チョコレートを取り出した。

 「さいごのいっこだけど、ひびきちゃんにあげるね」

 「ヒューマくんありがとう、大好き!」

 これでなんとかなるかもしれない!

 ぎゅっと抱き締めたヒューマを降ろして、急いで航と向き合う。

 「ねえ、これを食べて!」

 「それは?」

 「生者の国の食べ物よ!これを食べれば帰れるはずよ!」

 「でも…」

 「いいから!試すだけ試そうよ」

 渋々といった様子で航は受け取る。

 「…ありがとう。試してみよう」

 包装を破り、チョコレートを口に入れた。黄泉では一度も口にすることが叶わなかった甘美な味だ。

 「美味しい…」

 航は涙ぐんだ。

 ぼんやりとだが七年前、列車に乗ってやって来たことを思い出す。彼女の言う通り、自分は生者だった。

 「…思い出したよ、わたしは藤田 航で、西田蔵駅まで友達と遊びに行ってたんだ。だけど途中で置いて行かれて…泣いていたらおいでって呼ばれて列車に乗っちゃったんだ…」

 「わたしと一緒だ…わたしもヒューマくんに誘われて乗ったの」

 航が記憶を取り戻せてよかったと霏々季は胸を撫で下ろした。

 とはいえまだ問題は解決していない。鍵さえ開けば、ここから逃げ出せるのに。

 その時ちょうど見張りが食事を持って来てくれた。航が耳打ちする。

 「具合が悪いふりをして!」

 霏々季は瞬時にぐったりと横たわり、顔を歪めた。これでも学校で生理痛のふりをして、授業をさぼったことがあるくらいだ。演技力には自信がある。

 「すみません、彼女は具合が悪いようなので医者を呼んでください!」

 「だめだ、我慢しろ」

 「このままでは死んでしまいます、生者である彼女を勝手に死なせたらあなたの責任になるのでは?」

 「し、しかし死者の国に医者なんていないぞ!一体どこが悪いんだ⁉︎」

 乱暴に食事を床に置くと、見張りが格子越しに尋ねた。

 「お腹、お腹が。はあ、ああ…さっき祭りで変なの食べて…はああ、当たったかも…っ!」

 霏々季はお腹をぎゅっと抱えて転げ回った。ヒューマが不安そうに顔を覗き込む。

 「ひびきちゃん、だいじょうぶ?」

 「生者だから黄泉の食べ物に体が拒否反応を起こしているのかもしれません!医者がだめなら女王のもとまで運んでください!」

 航に圧倒された見張りはもはやどうしたらいいのか分からず、言われるがまま扉の鍵を開けてしまう。

 そして彼女を抱き起こそうとした瞬間、女子にしては大柄な航の体当たりで横に飛ばされていた。

 「あがっ!」

 「逃げるよ!」

 霏々季は素早く起き上がり、

 「わっ!」

 ヒューマを抱えて航と共に牢屋を飛び出した。

 地上に向けて一気に階段を駆け上がる。運動するよりも家でごろごろすることの方が多い霏々季だったが、もはやそんなことを言っている場合ではない。

 逃げなければ今度こそ帰る機会を逃してしまう。こんなことなら日頃から足腰を鍛えていればよかったと後悔する。

 はあはあ、息を上げながらどうにか地上まで辿り着く。扉を少し開き、左右を確認してからそっと足を踏み出した。夜間警備中の騎士の目を掻い潜いながら、三にんは移動する。到着したのは城の裏にある厩舎だった。

 「久しぶり、テミオン」

 航が栗毛色の馬に近寄ると、その馬も嬉しそうに頬を寄せた。彼女が慣れた手つきで優しく立髪を撫でつける。

 「まさか馬に乗るの?」

 「うん、ここから駅まで結構距離もあるし、もうすぐ追手が来るだろうからね」

 鞍を取り付けてふたりを最初に乗せると、航がその後ろに跨った。

 「車掌になる前は騎士見習いだったんだ。…結局厳しい稽古についていけなくて、車掌見習いになったんだけどね」

 航がその腹を蹴ると、テミオンは勢いよく走り出した。

 霏々季にとって、初めての乗馬である。

 激しく揺れ動き、不安が襲う中、思わず強くヒューマを抱き締めてしまう。すると、それを察したかのように、航が背中から優しく包み込んでくれた。

 「大丈夫、もうすぐだから」

 綺麗な横顔を見上げて、霏々季はつくづく航が男の子だったらよかったのにと思う。まるで本物の王子様のようだ。

 城の敷地から離れて街に入ると、後ろから馬の嘶き声が響き渡った。振り返ると、追手の騎士たちだった。

 「いたぞ!罪人を逃すな!」着く

 「馬も盗まれてるぞ!」

 追い着かれぬよう、航はもう一度その腹を蹴った。

 「行くぞ、テミオン!」

 テミオンは負けず嫌いなのか、意地でも追い着かれまいと俊足を惜し気もなく披露した。

 「きゃー、すごいね、すごいね、ひびきちゃん!」

 急加速にヒューマが大喜びする。テミオンが騎士達を大きく引き離して行く…。

 駅が目前に迫った。

 「停まれ」

 先に航が降りて、霏々季を抱き降ろしてくれる。テミオンが駅の中まで着いて来ようとするので、航はそっと制服の帽子を彼に被せた。

 「テミオン、今までありがとう。でも、わたし達はもう行かなくちゃいけない。きみとはここでお別れだ」

 「乗せてくれてありがとう」

 「ありがとう!」

 三にんは礼を述べると、駅の構内に入った。列車は停まったままだった。

 「まだ一日経ってないけど、この列車は動くの?」

 「うん、わたしが運転する」

 「航ちゃん、運転もできるの!?」

 乗馬もできて運転もできるなんて万能過ぎるのではないかと吃驚したが、彼女はなんでもないように微笑んだ。運転席に座り、確認を始める。

 「わたしとギョームさんは普段、二人で交代しながら運転しているんだ。運転していない人が車掌として車内を見回ってる」

 「なるほど…」

 霏々季を追い出した半魚人の男がギョームらしい。長時間勤務の二人が休めるように、一日経ってからでないと運転を再開しないという決まりがあったのだ。

 「では、出発進行」

 列車がゆっくりと滑り出した。

 「わたしはこれからずっと運転しなきゃいけないけど、もう疲れたでしょう。生者の国に着くまで仮眠室で寝てていいよ」

 「ごめんね、頼ってばかりで」

 「気にしないで。わたしこそ大事なことを思い出させてくれたから感謝してる」

 航は鍵を投げて寄越した。

 「じゃあお先に」

 「おさきに!」

 ヒューマとふたりで仮眠室のベッドに倒れ込むと、安心感からかすぐに眠りにつく。

 次に目が覚めると、もう西田蔵駅に着いていた。

 「おはよう、あたし達、本当に帰って来れたんだね!」

 まだ眠そうなヒューマを抱えて、運転室に飛び込む。

 「おはよう!そうだね、本当に帰って来れてよかった」

 二人はとりあえず家に帰ることにした。ヒューマは霏々季が連れ帰って面倒を見る。

 「お疲れ様でした。本当に戻って来られるなんて奇跡みたい…!」

 「そうだよね、自分でも信じられないよ」

 「ねえ、また会えるよね?」

 「うん、また会いたいね」

 「…一つお願いがあるんだけど、いいかな?」

 霏々季はにやりと笑い、耳打ちする。

 航はちょっと困った顔をしながらも、お願いを聞いてくれると約束した。

 「…分かった。けど、あんまり期待しないでね…!」

 三にんはぎゅうっと抱き合うと、その場で別れた。西田蔵駅に黄泉行きの列車を残して…。

 「ヒューマくん、あたし意外とお喋りしたら相手を吃驚させちゃうから、家族の前ではただのぬいぐるみのふりをしてね」

 「はあい」

 勇気を出して店のシャッターを叩くと、母親がそれを上げて現れた。

 「霏々季!」

 「お母さん!」

 背骨が折れそうなほど強く抱き締めてくれた。なんせ娘の初めての朝帰りなのだ。

 「どこに行ってたの!?本当に心配したんだから!」 

 「…凄く遠い所」

 警察への捜索願を取り下げて、学校も一日休むことになった。結局昨日は無断欠席で学校から家に連絡があったらしい。

 その内戻ってくるだろうと思っていた両親も、夜の九時になっても娘が戻って来なかったので、ついに警察に連絡した。そして一晩経って無事霏々季が帰って来たことを、心の底から喜んでくれた。

 「…嫌なら体育祭の練習期間中はずっと休んでもいいのよ?私の方から担任に連絡するから…」

 「…ううん、いいの。あたし、逆にやる気が出ちゃった。今日休んだら明日からは参加するから」

 なんとなく逞しくなったような娘に、母親は戸惑いながらもほっとした。

 彼女は遅めの朝ごはんを食べながら、航のことを考える。

 きっと今頃、藤田家でも大騒ぎになっているに違いない。七年も行方不明だった娘が、突然帰って来たのだから…。



 体育祭当日の昼休み。

 そろそろかなと思っていると、案の定現れた。

 真っ白なTシャツに日除けの帽子、細身のスキニーパンツというやや洒落た格好の青年だ。

 皆がいきなり現れた美男子に注目している。霏々季は気をよくしながら、堂々と彼、否彼女の側まで近付いた。

 「ありがとう、航!忙しいのにわざわざ来てくれて嬉しい!」

 航と同じようにお洒落した霏々季がわざとらしく満面の笑みを浮かべ、腕に絡み付いた。

 眼鏡を失くしたのをきっかけにコンタクトに乗り換え、美容室で重かった髪もばっさりと切り落とした。そして今は元気いっぱいなチアリーダーの衣装に身を包んでいる。

 「…大好きな、ひ、霏々季の為なら…」

 たまらず耳打ちをする。

 「航ちゃん、棒読みになってるよ!」

 「ご、ごめん…」

 気を取り直して、航は事前に指示された通り小さな花束を相手に差し出した。流石に薔薇はやりすぎなので、お手頃価格の可愛らしいブーケだ。

 「頑張ってね、応援してる」

 「うん!」

 「神山さん、その人は?」

 同じクラスの女子達に囲まれ、好奇心いっぱいの目で見つめられる。

 「彼氏の航くんだよ」

 「ど、どうも、初めまして」

 彼氏と言い切ると、甲高い声がグラウンドに響き渡った。

 「え、神山さん彼氏いたの!?」

 「いいな~!」

 「かっこいい~!」

 「超イケメンなんだけど!」

 他のクラスの女子も集まって、ちょっとした人だかりができてしまう。辺りを見回すと、いつの間にか男子達も集まっていた。突然女子が騒ぎ始めたので何事かと様子を見に来たようだ。

 「霏々季ちゃん…!」

 これはいいと、霏々季は航の手を引いて、吉川のところまでずんずんと歩み寄った。

 「あんたは一年前、あたしと手を繋ぐと手がけがれるって言ってたけど、あたしの彼氏は癒されるって言ってくれるよ。…あんたにもそういう彼女が早くできるといいわね」

 恋人繋ぎを見せつけるように、手を持ち上げた。

 「……」

 吉川は何も答えることができずに黙っていた。周りの男子達も固まってしまっている。突然見た目が変わったかと思うと今度は彼氏が現れたので、皆ついていけないらしい。

 「じゃ、うちらはこれで」

 彼を見返すことができた霏々季は余裕の笑みを浮かべて、その場を後にした。

 その日のうちにあの神山 霏々季にイケメンな彼氏ができたと全校に知れ渡った。

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