よみがえり少女
彦和 貴人
上
明日から体育祭の練習が始まる。
今年で高校三年生になる
そして母もそれに了承し、明日からは彼女限定の休みが始まる…はずだった。
「お母さんこの前はいいって言ったじゃん、体育祭の練習に参加しなくてもいいって!」
明日の朝学校に電話すると言ってくれた母が、最初から約束などなかったかのように、前日の夜になって学校に行くようにと言い出した。霏々季は納得できずに反論する。
「しょうがないでしょ、あの時いいって言わなきゃあなた、ずっとうるさいんだから。とにかく、明日からは体育祭の練習があるんだから、早く寝なさい」
「わたし、絶対に行かないから…!」
自分の部屋に閉じこもると布団に潜り込んだが、いらいらした状態で眠れるわけがなかった。
脳裏には嫌な記憶が次々と甦ってくる。
霏々季だって別に理由もなく行きたくないと言ったわけではなかった。ただ一昨年も去年の体育祭も最悪だったから、今年は行きたくないと言っただけなのに、母は取り付く島もなかった。
では具体的に何が嫌だったのかというと、一昨年は競技で負けると全部自分のせいにされたことが我慢ならなかった。
五人一組が連結して百足のように走る種目では、前の人がもつれて霏々季が止まってと皆に叫んで体勢を立て直すうちにびりになったことがある。
その時、弁明の余地もなく全部自分のせいにされた。
それだけでなく、せっかく体育祭で仲良くなった別クラスの
そして去年の体育祭では、なんの因果か霏々季の悪口ばかりを言う
彼女もつくづくツイていないのだが、その吉川とは中高一貫校故にずっと同じクラスで、しかも日直が被ることも度々あった。
日直の仕事といえば定番の黒板消しがあるが、吉川はきっちりと半面だけを消すとさっさと他の男子の所に行き、隣に立ちたくないなどと聞こえるように霏々季の悪口を言っていた。
彼女はもうそんな悪口を聞きたくなかったので、授業が終われば真っ先に黒板の前まで走り、吉川の分まで仕事をこなすようになっていた。
吉川からしてみれば楽ができたと思うかもしれないが、それは彼女なりの矜持であり、皮肉だった。わたしはあんたとは違う、自分の仕事しかしないケチな男とは違うと示したつもりだった。
勿論彼に何かをした訳ではないし、理由は何も思い当たらない。
せいぜい一時期部活が同じだったぐらいだが、霏々季はすぐに辞めてしまったのでそれを接点らしい接点とも言えないはずだ。
一度担任に相談したら、照れ隠しだろうと言われてしまった。それがなんでもよかったが、実際嫌な気持ちになったのだから無責任な対応であると言わざるを得ない。
そういうわけで、案の定吉川は手を繋ぐ時も嫌そうな顔をして、終わればさっさとまた他の男子の所に行き、握った手が汚されただの言っていた。後から聞いた話だが、休憩中に手洗い場でごしごしと洗ってさえいたらしい。
彼は体育祭の準備期間中、ずっとそんな調子だった。
母親に言っても、やはり先生と同じような事しか言わなかった。きっと気になるんだよとか好きなんだよとか、大したことじゃないんだよとか。
だが霏々季は声を大にして大人達に反論したい。
仮に吉川がわたしを好きだったとしても、悪口しか言わないのだから嬉しいわけがないし、わたしを傷つけてもいい免罪符にはならないと。
何か悩みがあるならいつでも相談しなさいと大人は言うけれど、したところで結局は重く受け止めてくれないのだから、なんの意味もなかった。大人はわたしの気持ちを考えてはくれない。霏々季は何度も何度も泣いた。
もっと悔しかったのはその吉川が、学年一美人な
その場面を見た時は衝撃を受けた。
さっきまでわたしを悪く言っていた口で、好きな子に話しかけるのねと。
やはりあいつはわたしを好きなわけでもなんでもなかったのだ。惨めだった。
美人は優しくしてもらえる、だけどわたしは…。南野さんに騙されないで、あいつは性格が悪いんだよと言ってやりたい。
他にも色々あげたらきりがないが、以上のごたごたがあって、霏々季はすっかり体育祭が嫌いになってしまった。運動自体が嫌いというのも大きく関係していたが、一番の要因はやはり学校生活が楽しくないからだった。
もともと同級生とはそりが合わなかったし、クラスでは浮いた存在と言う自覚はあった。吉川だけではなく他の男子からひそひそと噂をされていることも知っていた。
女子ともほとんど交流を持たなかった。
霏々季は誰に対しても心を閉ざしていた。
なぜなら周りに対して不信感を抱いていたからだ。
隣のクラスの
傍観する者、楽しむ者…。気の強い彼女は全て自分で言い返し、誰も助けてくれなかった事実と合わせて二倍傷付いた。
後から考えれば、中にはもしかしたら心配してくれた人もいたかもしれないし、どうすればよかったか分らなかっただけの人もいたかもしれない。
でも、言葉にしなければ思いは伝わらない。本当は助けて欲しかった霏々季のように…。
どうせ行ったところで、またよくないことが起こるに決まっている。
それに戦力になるわけでもない、いてもいなくてもいい存在なのだから行かずに家でだらだらしていたい。四月下旬とはいえ、暑い中頑張る意味も分からないし、体育祭なんてやりたい人だけがやればいい。
嫌な記憶も、それを忘れられない自分にもむかむかしたまま、浅い眠りについた。
翌朝目が覚めて、図書室で借りて来た恋愛小説を寝転がったまま読む。
神様と女子高生が恋をする話だ。
生まれてこの方彼氏なんてできたこともないから、ここに書いてあるような切ない気持ちや熱い気持ちに自分もなれるのかと疑問に思うけれど、もし本当にふたりみたいな恋ができるものならしてみたい。
でも学校の男子と恋愛したいとは思わないし、向こうも南野のような美人がいいだろう。
霏々季ももっと見た目に気を遣えば南野にも負けないが、本人は大学からでいいやと諦めてしまっている。
眼鏡からコンタクトレンズに変えるのも母が衛生面でだめだと言うし、美容室に行って髪を整えるのだってお金が掛かる。アルバイトが禁止されている私立学校に通う彼女にお洒落は縁のない話だった。
それに彼女は家庭の経済状況が芳しくないのを知っていたので、月々のお小遣いを全て親に返上した上で、今年からはいらないと申し出ているから財布は常に千円以下しか入っていなかった。
特別貧しいわけではないが、お洒落にお金を回せるほど裕福でもなかった。それに何より、今は気になる人もいないし…。
夢中になってページを捲った。
わたしもこれくらい可愛かったら男子とも上手くやれたのかな…。
美男美女が並ぶ挿絵を眺めていると、怒った様子の母親が入って来た。
「いつまでそうしているつもり?早く着替えて学校に行きなさい」
「わたし、行かないって言った」
「だめ、行きなさい」
「やだ」
堂々巡りが続き、互いをきっと睨む。根負けしたのは母の方だった。
母は深い溜息を吐いた後、厳しい口調で、
「…分かった。学校行かないならせめて家から出て行って」
「はあ?なんでよ。自分の部屋なんだからいいでしょ?」
「家にいると私の責任になるから、どうしても行きたくないなら家以外のどこかに行って」
「はあ?うざ」
霏々季は吐き捨てると、適当に着替えて家から飛び出した。
母は自宅兼店舗の惣菜屋を切り盛りしているので、家にいるとずっと険悪な雰囲気のまま過ごさねばならない。それならと言われた通りに出て行ってやった。
しかし所持金千円にも満たない彼女はどこかに遊びに行く気にも、何かを買って食べる気にもなれなかった。近所をうろつき、公園のベンチに腰掛けてぼうっと植えられた木を眺めた。
お母さんなんてわたしのお母さんじゃない。
いつも肝心な時には助けてくれない。ちょっと学校に電話してわたしを休ませたいと言ってくれればいいのに、それすらも協力してくれない。お母さんなんて大嫌いだ。
わたしなんていなくなればいいんだ。どうせみんなわたしが嫌いなんだから、いなくなったって誰も心配しない。寧ろせいせいするに違いない。吉川も小早川も、担任も副担任も、同級生も、お母さんも、みんなそうに違いない。わたしだって好きで「神山 霏々季」に生まれたわけではないのに。
南野さんみたいな女の子に生まれていたら、こんな思いをせずに済んだのかな…。
お嬢様育ちで、いつも綺麗な身嗜みで、周囲からはちやほやされて。
きっと誰かに悪口を言われたこともないのだろう。褒められることはあっても、貶されたことなんかないに違いない。なぜなら、粗を探す方が大変なくらい素敵な女の子なのだから。
それに比べてわたしはなぜ、こうもハズレな人生を生きているのだろう。
自分でお母さんのもとに来ることを選んだのか、そういう運命だったのかは知らないけれど、最初から自分の歩む人生がこんなにも暗いものだと分かっていたら、絶対に「神山 霏々季」の人生なんか選ばなかった。
もっと他にいい人生があればそちらを選んでいただろうし、なければ最悪生まれることさえ拒否していたはずだ。だってそうだろう、苦労してまで生きる意味なんか見い出せない。
できることなら「南野
勿論、生まれてしまった以上、誰かと人生を交換するなんて不可能だ。霏々季に残された選択肢は二つだけ、このまま「神山 霏々季」の人生を全うするか、自ら命を絶って来世に賭けるか。
もういっそ消えてしまいたい…。
霏々季はそこまで考えた時、スマートフォンで「睡眠薬 致死量」と検索してみた。
とてもではないが刃物で自分を刺したり首を吊ったりする度胸はないし、何より痛みに悶え苦しみながら死ぬのは嫌だ。楽に死にたい。
ところが、思うような答えは見つからなかった。なんでも、睡眠薬を大量に飲んでも上手く死ねるのは稀だという。ほとんどが未遂に終わってしまうそうだ。
これでは、死にたくても死ねない。
彼女はスマートフォンをポケットにしまうと、はあ、と重い重い溜息を吐いた。
…これからどうしようか。
死ねないなら、生きる他道はないということになるが、それでもまたあの地獄のような学校生活に戻らなければならないのだと思うと、憂鬱になった。
どこか遠くに行けたらいいのに…。
新しい場所、誰も冴えない霏々季を知らない場所で、人生をやり直したい。
そこで死を思い断ったばかりの彼女は、新たに「
「久しぶりに、行ってみようかな…」
公園を出ると、駅に向かって歩き出す。いつの間にか、昼過ぎになっていた。
西田蔵駅には都市伝説がある。
なんでも別世界に繋がる列車が時折運行しているのだという。
実際に七年前にそこで女子小学生が行方不明になるという事件も起こり、危ないから絶対に立ち入り禁止だと小学校では厳しく指導されていた。
学校でこっくりさんが流行ったように、西田蔵駅も例外なく子供たちの興味関心を惹き付けた。霏々季もそのうちの一人で、本気で信じて一度近くまで友達と見に行き、結局怖くなって逃げ帰ったことがある。だから、六年ぶりでもあっさりと見つけ出すことができた。
相変わらず廃れたままの駅は言うまでもなく不気味だった。
雑草は生え放題で壁もぼろぼろと落ちていた。スマートフォンの明かりを頼りに足を踏み入れる。さくさくと砂利を踏む音だけがトンネルに響く。
当然、頭の中では分かっていた。
こんな所に来たとしても結局は今まで通り一人ぼっちで、言いたいことも言えないだめな奴のままで、簡単に変われるわけがないと。だが、それでもよかった。
どうしてここに来ようと思ったのかは自分でもはっきりとは説明がつかなかったが、きっと現実逃避したかったからなのだと思う。
ありえないと分かっていながらも、もし本当に別の世界に行けるのならという淡い期待を抱いていたのだ。あとは十代特有の勢いと怖いもの見たさとやけである。
外とは違って、じめじめひんやりしており、当たり前だがそこには列車なんて停まっていなかった。線路に沿って歩いていたが、もうこれ以上奥に行っても何もないだろうと引き返そうとしたその時。
ぱっと向こうから光が暗闇を照らし出した。音が鳴り響き、どんどん近づいて来るのが分かる。
もしかして本当に列車が来てしまったのだろうか?とっくに廃駅になったはずなのに?
いや、別世界へ繋がる列車ならば走っていても可笑しくはない。なんにせよ、轢かれる前に早く逃げなければ。
霏々季は慌ててホームによじ登った。欠けたコンクリートがぽろぽろと落ちる。
十数秒後に列車は彼女の前に停まった。それは汽車の形をしていたが、白い蒸気を吐かず、赤い車体と黒い車輪を持ち、細部は金色でとてもお洒落だった。
一度も乗ったことはないが、現代の豪華寝台列車にも負けない高級感がひしひしと感じられた。扉が独りでに開く。中は既に沢山の乗客で賑わっていた。
「割り込み乗車をしないで下さる?」
後ろから声をかけられてびくっとした。振り返るより先に、
「皆さん並んでいるんです、おどきなさい」
「ご、ごめんなさい。そういうつもりじゃ…」
彼女の言う通り、ずらっと人がホームに並んでいた。
霏々季は道を譲る為に、同化しそうなほど壁に身を寄せて、通り過ぎる人々を眺めた。最後に熊のぬいぐるみがとことこと歩き、乗り込もうとしていた。
ぬいぐるみが動くなんて…!
彼女が目を丸くして微動だにできずにいると、目が合ってしまった。無機質な黒いビーズは確かに目として機能し、彼女を捉えているようだった。
「おねえちゃんはのらないの?」
今度は喋った!
ぬいぐるみは短い手を口元に添え、首を傾げた。その完璧な仕草により、ぬいぐるみは更に愛くるしさを強調することに成功していた。霏々季はぎゅっと胸が締め付けられた。
どう見ても、呪われた人形にしては可愛過ぎる。何よりもその円らな瞳が悪いものの類には見えない。これはきっと、ただの可愛いぬいぐるみに違いない!
「わたしも乗っていいの?」
「うん、いっしょにあそぼう!」
熊のぬいぐるみに手を引かれて彼女はよろめきながら、つい乗車してしまった。背後から扉が自動で閉まる音がした。
中を見てもかなり豪華な造りになっていた。通路には暗赤色の絨毯が敷き詰められ、黒い座席の上にはクッションが配置されている。頭上には派手な照明器具が等間隔に埋め込まれていた。
「こっち、こっちー」
そのまま幼子が大人の手を引いて走るように、席に連れて行かれた。ぬいぐるみはぴょんと霏々季の膝に飛び乗った。訳も分からず乗ってしまったが、これが別世界に通じる列車なのだろうか?ぬいぐるみがお客さんになり得る列車なのだから。
「ね、ねえ。これからどこに行くの?」
「うーん、わかんない。でもすごくとおいところで、しんだらそこにいくんだって」
「死んだら⁉︎」
「うん」
ぬいぐるみは背中のファスナーを下ろすと、一枚の紙を差し出した。それはどうやら切符らしく、
サノ ヒューマ サマ
サイダクラ→ヨミノクニ
「黄泉の国⁉︎」
ということは乗客は死者しかいないのか。
彼女はぐるりと車内を見渡した。あの説教してきた婦人も、お爺さんも青年も、幼い女の子も皆、死んでいる…。
信じ難いことに、この列車は別世界は別世界でもあの世行きの列車だったらしい。
黄泉は死者の国だ。生者が行くべき場所ではないし、何より死にたくない。
どきどきわくわくするような世界に行きたかっただけなのに、よりによって一番行っては行けない世界に行こうとしているだなんて。
わたしが死にたいと願ってしまったから、こんなことになったのだ。
いざ死が間近に迫ると、やはり生きたいと本能が強く訴えかけて来る。
神様、もう死にたいだなんて思わないから、「神山 霏々季」としてちゃんと生きて行くから、せめて、せめてわたしをもとの世界に返して下さい。
「ね、ねえ。次の駅がどこか知らないよね?」
次の駅で降りれば、まだ間に合うかもしれない。
「しらなぁい」
それはそうだ、行き先すら知らなかったのだから。
霏々季はヒューマを隣の席に置くと立ち上がった。こんな時はどうすればいいのか。とりあえず近くに座る男性に声をかけた。
「あの、西田蔵の次ってどこに停まりますか?」
「次は終点の黄泉ですよ。どうかしましたか?」
険しい表情の彼女を見て男性が心配そうに尋ねたので、礼を述べて走り出した。ヒューマのどこにいくのという声を聞き流して。
最初から次なんてなかった、このまま終点に行くのだ。早く職員に伝えて停めてもらわなければ、黄泉行きは免れない。
扉を横にずらして隣の車両に移動し、更にその先にも行こうとして、どんと誰かの肩にぶつかった。
「すみません!」
「大変申し訳ございません。おけがはございませんか、お客様」
尻餅をつきそうになった彼女を支えてくれたのは、若い車掌だった。金の飾りが付いた黒い制服を着こなし、長い髪を後ろで束ねている。前髪で片目は隠れているものの、整った顔立ちをしていることが見て取れた。彼も人ならざるものだから、こんなに美しいのだろうか。
「何かお困りですか?」
にこりと愛想よく微笑んだ彼に、霏々季は全力で後悔した。
ああ、こんなことならもっと可愛い服を着て来ればよかった。
今の格好はお世辞にも可愛いとは言えなかった。適当に括っただけの髪はぼさぼさだし、服もよれよれのパーカーにジーンズだ。おまけにスニーカーも汚れが目立っている。
彼女は恥ずかしくなって俯いた。どうして油断している時に限って、イケメンに会うのかな…。
「…あの、わたし、間違って乗車してしまって、途中で降ろしてもらいたいんですけどできますか?」
「間違い、というのは?」
「えっと、これが黄泉行きだとは知らなくて…普通の列車だと思って乗っちゃったんです…すみません」
落ち着いて話を詳しく聞く為に、端に連れて行かれた。
「…切符はお持ちですか?」
彼はいまいち話が飲み込めていないという風な顔だったが、話を進める為にこう切り出した。切符の話をされた彼女は固まってしまった。
「…す、すみません、切符がいるとは知らなくて…いくらですか?」
そもそも別世界行きに切符が必要なんて都市伝説では一言も言っていなかったし、事前に分かっていたとしても買う暇はなかった。千円以内に収まればいいけれど…。
霏々季は無賃乗車を咎められると思って小さくなっていたが、彼は緊張がほぐれたように再び微笑んだ。
「事情は分かりました。どうやらお客様は本当に間違って乗車されたようなので、お金は結構です。それよりも、この列車は途中で停まることはできません」
お金を請求されずに済んでほっとするのも束の間、最悪のことを告げられた。
「あ、あの!わたし、生きているんです!黄泉に行く前に降ろしてください、お願いします!」
白手袋をつけた手が慌てて彼女の口を覆った。
「分かっています、あなたが生者であることは。ごく稀にですが、あなたのように切符を持たずに乗車する方がいるのですが、それは生者である証拠です。切符は死者にしか発行されませんから。あなたはなんの因縁があってか、偶然この列車に乗ってしまったのです」
彼はそっと手を離すと続けた。
「黄泉に行くのを止めることはできませんが、黄泉に着いて一日経つと、この列車は生者の国へと回送されます。その時にあなたを西田蔵まで送り届けますので、それまでは自分が生者であることを周りには隠して、黄泉の国の駅で待っていてください。正体が明るみになるとあなたは罪人として囚われて帰ることができなくなります」
「罪人ですか⁉︎」
「ええ。生者の国でもあるでしょう、不法入国者や不法滞在者を罰する法律が。それと同じです」
「分かりました…」
二人で一番最初にいた車両まで向かうと、ヒューマが座席の上でぴょんぴょんと跳ねた。
「おねえちゃん、どこにいっていたの?」
「ごめんね、ひとりにして」
彼女の代わりに彼が説明してくれた。
「少しボクとお話をしていたのですよ。切符を拝見してもよろしいですか?」
「はあい」
ヒューマが切符を差し出すと、彼はそれをぱちんと切った。そして去り際、小声で教えてくれた。
「夜までは黄泉には着きませんので、ゆっくりとお過ごしください。…それと、最後に一つだけご忠告致します。帰るまでは何も口にすることができずお腹が空くかと思いますが、くれぐれも黄泉の食べ物は絶対に口にしないでください」
すっかり忘れていた。朝ご飯だって食べていないのに、これからは空腹に耐えなければいけないのだという。
「いいですか、水も飲んではいけません。なんであれ、黄泉のものを口にすれば、その瞬間からあなたは黄泉の国の住人になってしまいますので…それでは失礼致します」
「…分かりました」
彼はにこりと笑って次の客の方へ向いた。
待ち侘びていたようにヒューマが再び膝によじ登った。かなり甘えん坊らしい。
「おねえちゃんはなんていうの?」
自分の名前を聞かれてふと車掌の名前はなんというのだろうと思った。聞いたところで死者である彼とは恋になんて発展できないだろうけれど。
「霏々季だよ」
「ぼくのともだちにもひびきちゃんがいるよ!」
「そうね、ひびきという響きは珍しくないもんね」
意図せず駄洒落を言ってしまった。
ただ漢字の並びは自分でもかなり珍しいと思う。おかげで初見で正確に読まれたことはほとんどない。
「ヒューマくんはどうしてぬいぐるみに取り憑いてるの?」
他の乗客の中にもちらほらと変わった姿形をしている者もいるが、大多数は生前の人間の姿をしている。
ヒューマが取り憑いているのは、黄緑と黄色のチェック柄の熊のぬいぐるみで、桃色の肉球が愛らしい。彼は霏美生を見上げながら元気よく答えた。
「これはね、たんじょうびぷれぜんとにもらったの!でもひゅうま、なんかいかしかだっこできなかったから、そのままおいていくのはかわいそうでしょ?だからつれてきたの!」
「そっか、熊さんも寂しいよね、ご主人様がいなくなったら」
きっと誕生日にもらって少ししてヒューマは命を落としたのだろう。彼女は胸が苦しくなってぎゅっと抱き締めた。
「ほんとうはね、おかあさんをつれていきたかったけど、きっぷをくれたひとが、まだじゅみょうがのこっているからだめっていったの。だから、かわりにくまさんをつれていってもいい?ってきいたら、いいっていったの」
ぞっとした。
後を追うようにして亡くなったとよく言うけれど、ヒューマのように早く死んだ人が連れて行くからなのかもしれない。もし切符を渡したひとが止めていなければ、今頃母親と一緒に列車に乗っていたことだろう。
「あ、おなかすいちゃったねえ。ぼく、ちょこれいとをもってきたんだ!たべる?」
うんしょと、言いながらヒューマは再びファスナーを下げて中から小さな個包装のチョコレートを取り出した。どこでも取り扱っている有名企業の商品だ。
そのありがたいことといったら!
「ありがとう、ヒューマくん!」
「どおいたしまして」
いつもならろくに味わうこともせずに嚙み砕いてしまうのに、今回ばかりはチョコレートが口の中でゆっくり溶けるさまを楽しんだ。甘くて幸せな味だった。少しだけ落ち着きを取り戻せたような気がする。
ヒューマも丸い手で器用に包装を破って、ぱくりと口に入れた。
「おいしいねぇ」
「ねー」
それから暫くヒューマと他愛もないことを話しながら、流れていく景色を眺めた。
不思議な景色だった。
宇宙のような空間を走っている為、木や空は全くない。星屑らしき銀色のものが散らばっている。
それを見ているとやはり人間界から遠く離れた場所に行こうとしているのがよく分かった。流石に喋ることがなくなってくると、霏々季は壁にもたれて眠ってしまった。
次に目が覚めたのは、ヒューマの柔らかい肉球によって頬を押された時だった。
「ひびきちゃん、おきて。とおちゃくしたよぉ」
不機嫌そうに眉を顰めながら目を開けると、扉からぞろぞろと死者たちが降りているところが目に入った。自分はともかく、ヒューマは降ろさなければならない。
「ヒューマくん、今までありがとう。わたしは列車からは降りられないから、ヒューマくんはあのひと達に着いて行って」
「ひびきちゃんもいっしょじゃないの?」
「ごめんね、ここでお別れなの」
わがままを言うこともなく、ヒューマは膝から降りると、扉まで近付いた。
「ばいばい」
「ばいばい」
彼女は見えなくなるまで手を振った。
暫くは一人きりで列車の中で過ごさねばならない。てっきり車掌が様子を見に来てくれるものだと思っていたが、彼は現れなかった。代わりに半魚人の姿をした係員が点検がてらやって来た。
「お客さん、早く降りなきゃ。女王は待たされるのが好きじゃないから、急いで急いで」
「あ、あの、わたし、ここにいたいんですけど、だめですか?」
「何を言ってるの、これは回送列車だから。降りた降りた」
半ば強引に降ろされて、霏々季は途方に暮れる。
最悪だ。
それにしてもこんなところにまで女王がいたとは。生者の国と同じように王族がこの死者の国を治めているらしい。
仕方なしに霏々季は駅構内の端に座り込んだ。
一応あの世に着いたようだが、駅から出られないのでいまいち実感は湧かないし、何より一人では寂しい。本来ならとっくに学校も終わって今頃家に帰っているはずなのに。
当たり前だが電話は繋がらず、何かアプリを見て暇を潰すことも叶わず、顔を膝に埋めた。
お母さん、まだ怒っているのかな…。
…でもわたしは悪くないし!
そもそもお母さんが追い出さなければ、家出なんかしなくて済んだのに。そうしたら、黄泉なんかに来なかったのに…!
などとつまらないことを考えていると、足音が近づいて来た。ぱっと顔を上げたが、あの車掌ではなかった。
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