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 朝日は珍しく、少しだけ厳しい顔をした。私の頭から手を下ろすと、その手を膝の上に重ねて、じっとドアを見つめる。ドアを透視して向こう側を見ようと試みているみたいに、そのまま動き出そうとしない。

 だから、私が代わりに、ほとんど水になっていた氷をテーブルに放し、そっと足を踏み出した。素足に踏みしめられた床が、それだけでギッと音を鳴らす。


「待って、凛子」


 朝日は声をひそめて私を制した。


 ゆっくり振り返ると、朝日は急いで薬莢を箱にしまうところで、それが済むと立ち上がり、私を追い越して台所に入った。朝日が歩くたびに、小箱の中で、氷の正体を隠した薬莢が控えめにじゃらじゃらと言う。朝日は箱を冷凍庫の中へ戻し、台所の隣に位置する玄関へと向かった。私もそのあとを追う。


 朝日はすぐにドアを開けなかった。ぴったりと隙間なく背中をつける。私も同じように、朝日に身体を寄せて隣に並んだ。

 すべすべとした朝日の手が鍵に伸び、息を殺してドアの鍵を外す。線のように細く開いた隙間から、ひんやりとした空気が滑り込んできて、私の低い鼻の頭をかすめていく。そして、その冷気と一緒に、男のやかましい怒号も飛び込んできた。


 聞き覚えのある声に、顔をしかめる。


 顔を出して外を窺おうとした朝日を、今度は私が「待って」と横から呼び止める。

 嫌な胸騒ぎがした。私が見てみる、と手振りでジェスチャーすると、朝日は眉尻をやや下げながらも頷いた。見つかったらまずいのは自分のほうだってことは、彼自身よくわかっているのだろうけど、私を案じる気持ちも多くあるのだろう。


 私はドアの向こう側の、その声の主から見つからないように、片目だけを覗かせてそっと外を見た。

 雨のにおいがした。昨晩の名残だろうか。でも、すぐに私の心も湿ることになる。


 目に映った人影は、なるべくならもう二度と見たくなくて、無意識に忘れようとしていた姿だった。


 パパだ。

 後ろ姿でもすぐにわかる。


 ベージュのパンツに、紺色のもっさりとしたジャンパー。その中に着込んでいるはずのストライプのシャツ。それらは、働いている工場から支給される安っぽい作業着だ。秋の始まりの頃から切っていない髪は伸び切ってボサボサで、ちらほらと白髪が混じっていた。

 どうしたって脳から排除しようがないその大きな背中が、隣、つまり我が家のドアの前に立っていた。


 それだけでも十分に私を怯えさせたのに、それを越えて、パパと向かい合って立った二人の男の存在が、さらに私を戦慄させた。


「凛子……」


 私を呼ぶ朝日の心配そうな声に、平気だよと笑顔で答えられない。


 胸に、鋭利な何かの先端が突き抜けていったような穴が空いた。まるで、さっきの氷の弾丸が撃ち抜いていったみたい。冷たくて、痛くて、身震いする。思わず胸を押さえて、唾を飲み込んだ。


「……朝日、声を出さないで……」


 ようやくそれだけを喉から搾り出して、私は男たちの服装をもう一度目で確認した。

 ダークグレーのスーツ、ダークグリーンのコート。ネイビーのスーツ、そして、ベージュのトレンチコート。

 色合いもデザインも、まだ少しも記憶から薄れていない。


 冷徹な雰囲気を放っていたあの時の刑事たちが、今パパの腕を取っている。どこかへ連れていこうとしているように見える。


「いったい何の話だ!」


 パパが怒鳴りながら、それを懸命に振りほどこうとしていた。


 とりあえず今は、朝日に注意が向けられていないようでほっとする。でも、わからない。パパが何の関係もないってバレてしまえば、きっとすぐにこっちに来る。


 トレンチコートの刑事が、口を動かして何か言った。でも、かなりボリュームを抑えているようで、ここまで聞こえない。パパがしきりに動いて、身体のあちこちをドアや壁にぶつけている音が、邪魔しているせいもあるかもしれない。


「放せ! どこに連れていく気だ! 俺をバカにするんじゃねーぞ!」


 古いアパートの廊下に、パパの威勢のいいがなり声が響く。

 まだ完全に陽は沈んでいないけど、仕事からの帰り道に、すでにアルコールを体内に入れてきたのかもしれない。そんな口の利き方だ。


 大家さんはどうしたのだろう。

 これだけ騒いでいたら、誰かが苦情の連絡を入れてもおかしくないのに、どこの部屋もまだ留守なのだろうか。

 そんなことを考えていると、パパの声がひときわ大きくなった。


「はぁ? レインマン? 意味わかんねぇよ! 頭おかしいのか?」


 その瞬間、不安を爆発させるみたいな赤ちゃんの泣き声が、どこからか轟き始めた。

 私は急にいたたまれなくなる。

 情けないような、悲しいような、恥ずかしいような、それらの気持ちが複雑に絡み合って、お腹の底をぐるぐる渦巻いた。


 ところが、事態はすぐに収束した。

 トレンチコートが、素早い動きでパパのみぞおちをこぶしで突いたのだ。

 パパはたちまちくたりと身体を半分に折り曲げて、その場に崩れ落ちた。あっけなかった。


 私は声も出せなかったけど、呼吸も止まった。瞬きも忘れていた。


 トレンチコートはぐったりと意識を失ったパパを抱きかかえて、顎を上げる。ふと、こちらを見た。

 目が合ったかどうかはわからない。心臓がガクンと振動して止まりそうになり、それだけならまだしも声を上げそうになって、私は弾けるように顔を引っ込めた。


 急いでドアを閉める。わずかな隙間であっても、距離があっても、すぐにもするりと指を滑り込ませて、あのトレンチコートの刑事が冷淡な顔を覗かせそうで怖かった。


 緊張しながら、しばらくそのままでいると、ドアの前を、二人分の靴音がと速やかに通り過ぎていくのが聞こえた。何かを引きずるような音も一緒に。

 血液の流れさえもせき止めるような気持ちで、それが聞こえなくなるのを待つ。赤ちゃんの泣き声が遠くかすんできたのと同時に、私はようやく呼吸を取り戻した。


 不思議な気持ちに包まれた。


 日常的にパパから暴力を受けていた私は、朝日と出会い、朝日が殺し屋だと知って、パパを撃ってほしいと頼もうとした。そこにためらいはなかった。

 そのパパが、いざ他人から暴力を受けるのを目の当たりにした時。心が晴れ晴れとしたり、喜んだりしたのかと問われると、実は意外とそうでもなかった。


 そのことに自分がいちばん戸惑っている。


「……凛子」


 漏れ聞こえた声から、私の表情から、何か良くないことが起こったと、朝日にもわかったに違いない。あいかわらずドアに背中をくっつけたまま、神妙な声を出してきた。


「刑事が……パパを連れたいったみたい」

「え?」

「昼間に来たって言った刑事だった。パパが怪しいっていう私の嘘を真に受けたんだと思う。刑事って案外ちょろいかも?」


 明るく言ってみたけど、上手に笑えていたかは自信がない。


「違う」

「え?」

「あれは、刑事じゃない」


 朝日は私を見なかった。まっすぐ前を向いていた。その目は氷のように、いや、氷以上に冷たくて色がない。朝日もこんな瞳をするなんて。


「組織の人間しか使わないはずのコードネームを、刑事なんかが知っているはずはないんだ」

「……コード、ネーム?」

「僕のような仕事をする人間の、個人を識別する……ニックネームみたいなものかな。記号って言ってもいいかもしれない。番号とか」


 朝日が何を言っているかはわかる。でも、その意味が、頭の中にすんなりと入っていってはくれない。耳の入り口で引っかかっているような感じ。


「……R・A・I・N・M・A・N。『レインマン』。それが僕のコードネームだ。それを知っているのは裏社会の人間だけ。つまり、彼らは本物の刑事じゃない」


 朝日はゆっくりと、一言ずつ、私が聞き取りやすいように言うと、緊張したような、息苦しいような面持ちで、それでも口の両端を引き上げた。悲しいくらい、不器用に。

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