music

「ねぇ、アメイジング・グレイスはける?」


 台所には濡れた手を拭くタオルさえない。私は、朝日に借りたスウェットのお腹辺りに手を擦りつけながら、尋ねた。


「『メンフィス・ベル』の劇中歌だったかな。弾けるよ。弾けるし、歌える」

「本当? 歌って!」


 朝日は上手にギターをつまびけるだけでなく、歌うことも得意らしい。それはとても素敵だ。私がお願いすると、朝日はにこっと笑って一つ提案をした。


「じゃあ、ひとまず着替えておいで。それからにしよう」


 そこで初めて、自分がまだ着替えを済ませるどころか、顔も洗っていないことに気がついた。右側の髪に手をやると、寝癖がついている。普段なら気にしないけど、さすがに恥ずかしくて何度も撫でた。


 パパが仕事に行く時間はとっくに過ぎている。だけども、朝になってベランダを確認したパパは、私の姿がそこにないことを知ったはずだ。逃げる場所なんて限られているし、朝日の部屋に乗り込んでこないところを見ると、私が戻ってくるのを部屋で待ち構えている可能性もある。


 息を殺しながら玄関の扉に近づいて、ごくりと唾を飲み込んでから、ノブを静かに回す。鍵がかかっていた。これは、パパが出かけたことを意味している。室内にいるのに鍵をかけておくなんて用心深いこと、あのパパがするわけがない。


 パパは私が逃げたことを知らないのだろうか。ううん、違う。逃げようがどうなろうが、どうだっていいのだ。


 ほっとしたけれど、これでは入れない。

 私は大家さんに頼んで、合鍵で開けてもらうことにした。パパに閉め出されたとは言えないので、朝早く散歩に出た時に鍵を落としてしまったと嘘をついた。

 私が不登校児であることも、寝ぼすけだってことも知っているはずなのに、大家さんは疑ってくることはなかった。新しい鍵を作らないとね、と笑った。


 浴室の床にはいつも通り、汚れた服や下着が散らばっていた。それを横目に顔を洗い、歯を磨いて、入念に寝癖を直す。洗濯済みの服に着替えると、雨に濡れた服と借りたスウェット、嫌だったけど、パパの汚れ物も一緒に洗濯機に放り込んで、スイッチを入れた。


 次に台所に向かい、フライパン、包丁、まな板、ボウルを手に取る。朝日の部屋にはどれもない。


「朝日! 私! 凛子だよ、開けて」


 両腕にいっぱい荷物を抱えた私はドアを開けられず、手前で大きな声を出した。

 そっとドアを開けて顔を覗かせた朝日は、たちまち目を丸くした。足元にはレインがいて、やっぱり驚いたように目を見開いている。そのまま飛び出していかないのだから、本当にお利口な猫だ。


「朝ごはんはごちそうになっちゃったから、お昼は約束通り、私が作るね」


 言葉も出ない様子の朝日を押しのけて、私は上機嫌に言った。料理は元々嫌いじゃないけど、何を作ってあげようかとわくわくするのは初めてだ。


「ねぇ、冷蔵庫の中を見てもいい? 材料になりそうなものある?」

「たぶん……ないと思う」

「だと思った。じゃあさ、今、洗濯してるから、それを干したら買い物に行こうよ。あ、もちろん、朝日の歌を聞いてからね」


 肩をすくめながら台所に向かい、シンクの上に荷物を置く。


「それとも、殺し屋って、明るいうちはあんまり外をうろつかないもの?」


 そう言って振り返る。嫌味半分、本気の心配半分ってところだった。言ってから、そういえば昨日、朝日が外出したのは昼間だったなって気がつく。


 朝日はリビングと台所の境の柱に、肩で寄りかかっていた。面白いものを眺めるような視線で、せかせかと動き回る私を見ている。


「問題ないよ。昼だろうが夜だろうが、用事があれば、人は外に出かけるものでしょう?」

「まぁ、そうだけど」


 朝日は白を切るような言い方だけど、この期に及んでそれはないだろう。でも、昔の映画で見た殺し屋は大概、太陽の下に出ることを避けていた。


「それに、僕はこれでも、昼間は働いているんだ」

「え、本当?」


 それはびっくりだ。


「それなら、私の心配よりも自分の心配したらいいのに。遅刻しちゃわない?」


 問いかけに、朝日はただ含んだような笑みを浮かべるだけ。ひょっとして、からかわれているのだろうか。

 それに、殺し屋の報酬はきっと、私がぴんと来ないくらい高額だろうと思う。別のまっとうな仕事をしなくたって、十分に生活できるはずだ。


「あ、もしかして、カムフラージュ?」


 私は思い立って言ってみた。


「まぁ、それもあるけど。趣味でもあるかな」

「趣味?」


 すると、朝日は少し照れ臭そうに言った。


「歌をうたっているんだ。道端でね。ギターを弾きながら。それでお金を貰っている。まぁ、わずかだけれど、この子のごはん代くらいにはなる」


 そうして、足元で毛づくろいをしていたレインを指さした。


「なぁんだ」


 私は息を吐くようにちょっと笑ってから、素直に「でも、素敵」と言った。


 映画も好きだけど、歌も好き。聴くことはもちろん、歌うのも好きだ。みんなで声を揃えて歌う合唱は特に好きで、音楽の授業はいつも楽しみだった。

 最後に歌ったのは、いつだっただろう。最近はぜんぜん歌っていない。そういう気分になれない。


 でも、それは当たり前かもしれない。


 私はいつでもパパの不幸を願っている。こんな私に、歌が寄り添ってくれるはずもない。私がそういう気分になれないのじゃなくて、歌のほうが私を敬遠しているのだ。


 朝日は小さく首をかしげる。


「素敵なのかな」

「素敵だよ。そうかぁ。だから、アメイジング・グレイスも歌えるんだね」


 朝日はきっと、音楽に愛されている。だから、あんなに美しいメロディを奏でられるし、歌えるのだろう。

 アメイジング・グレイスは、洋楽の中でもかなり好きな曲。これはかなり期待ができそうだ。


「でも、まさかそのストリート・ミュージシャンの正体が、殺し屋だなんて、誰も夢にも思わないだろうね」


 私が今度こそ意地悪く言うと、朝日は困ったようにこめかみを掻いた。

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