cinema

 いきなりちゃんとした朝ごはんが胃に入っても、心配していたように、驚いて痛くなることはなかった。人間って案外、丈夫なんだなぁって感心する。

 食べ終わると、私は食器を片づけようと立ち上がった。それを察した朝日が制する。


「僕がやるよ。凛子は家に戻って、早く学校に行く準備をして。たぶんもう、遅刻ギリギリの時間なんでしょう?」


 私よりも焦る朝日は、今朝私が、朝はいつも起きるのが遅いと言ったことを忘れてしまったのだろうか。ついでに、私が家事をやるって約束したことも。


「学校は行ってない」


 隠すつもりもないので正直に答えると、朝日は皿を重ねていた手を止めて、目の奥まで覗き込むようにじっと私を見た。事あるごとに、こうやって相手の真意を探るかのように見るのは、朝日の癖なのかもしれない。その隙をついて、皿を奪う。


「一応、今は中一だけど、一学期の途中から行ってない。だから、もう……半年くらい? 靴を隠されたり、教科書を破られたりしたから、嫌になったんだ」


 そのきっかけや、いつからそんなことをされるようになったのか、そんなことは覚えていない。きっと相手だって覚えていないんだろう。嫌がらせなんて、だいたいそんなものなのだ。


 朝日はまた、昨夜のような悲しい顔をした。


「……そうか。だから、昨日のお昼もあそこに。そのことを、お父さんは」


 噴き出してしまう。


「知らないに決まってるじゃん。子供に暴力を振るう親が、子供に興味があると思う?」


 もっともだと思ったのか、朝日は黙った。


「学校から連絡が行ってるかもしれないけど、俺は知らない、で通してるよ、たぶん。でも、それは本当。知らないんだよ、私のことなんて何にも」


 私は笑った。ヤケクソでも自嘲のつもりでもなかった。事実を言っただけだ。

 食べ物は何が好きだとか、身長は145センチで、その身長に対して体重が軽すぎるとか、パパは何も知らない。興味がないことがわかるから、私も言わない。私が泣きながら学校から裸足で帰ってきたことも、言ったところで、「だから何だ」と返されるのがオチだ。


「パパのことだからさ、通ってないんなら給食費とか払わないでいいんだろ、とか言ったんじゃないかな。むしろラッキーだと思ってるんだよ」


 朝日は何も言わない。言葉が浮かばないのかもしれない。

 私は奪い返される前に、さっさと食器を台所に運んだ。足元を、レインが転がるようについてくる。猫用のフードを貰ったばかりでお腹いっぱいなのか、ご機嫌だ。


 予想していた通り、台所にも余計な物はなかった。


 シンクと小さなコンロ、換気扇は備え付け、それは我が家と一緒だ。電気ケトルとトースターがあって、洗った食器を置いておくようなものはない。炊飯器もない。冷蔵庫はある。でも、小さな、一日分の食料と飲み物くらいしか入らないんじゃないかってサイズだ。あとは二段のカラーボックスがあって、上の段にはインスタントコーヒーと砂糖が買ってきた袋のまま、下の段には猫用フードの大袋が入っている。


 シンプルイズベストとは言うけど、少なすぎて寂しいくらい。

 こんなに物が少ないと、朝日は私との約束を破って、今すぐにでもどこかへ消えてしまいそうな不安に駆られる。


「でも、大丈夫」


 暗いことを考えるのが嫌で、無理やりに話題を変えた。


「学校は行ってないけど、ちゃんと勉強はしてるから」

「勉強?」


 朝日はあのままリビングにいると思っていたから、そこそこ大きな声を出したのに、ふと気づくと、物音も立てずにそばまできていてぎょっとする。さすが殺し屋と言うべきか、気配を消すことが完璧だ。


 気にしないふりをして袖をまくり、蛇口をひねる。水道水がどっと出た。湯沸し器なんてついていなくて、水は肌を切るような冷たさだけど、それも慣れている。


「人生の勉強だよ。映画を観るの」


 基本的な文字の読み書きと算数。それさえ出来ていれば、生きていくのにそこまで困らない。実際、パパは頭が良くないけど、工場に就職できたし、働けている。とりあえず結婚もできたし、子供だって作れた。


 だけど、思いやりとかモラルとか、そういうものは、学校に通っているだけじゃ身につかないんだと思う。そうかと言って、私の周りには教えてくれる大人がいない。

 だから、映画をたくさん観て、自分で吸収するのだ。映画によっては、化学や英語、料理の仕方まで学べる場合がある。


「映画?」

「うん。洋画とか邦画とかこだわらずに、面白そうだなと思ったものを片っ端からレンタルしてくるの。どうせ家の事をやり終えたら暇だし」


 旧作のレンタルDVDなら、一本、ワンウイーク百円程度で借りられる。十枚まとめてだって千円も行かない。勉強方法としては、とても効率的な上にお得だ。ただ、タイトルの選択をミスしないように注意しなければならない。


 話しながら、洗剤を流した食器を朝日に手渡す。まるで事前に打ち合わせしたみたいに、朝日は水を切ってシンクの上にじかに置いた。


「『ローマの休日』『ショーシャンクの空に』『ニュー・シネマ・パラダイス』『八日目の蝉』『悼む人』『シザーハンズ』『ショコラ』『重力ピエロ』『メンフィス・ベル』『フォレスト・ガンプ』」


 私は思いつくまま、観た映画のタイトルを並べた。


「『ゴジラ』」


 そこで、ぷふっと朝日が小さく噴き出した。仲良くなりたい相手の笑いのツボを、やっと掴んだ時のように、私は嬉しくなる。


「知ってるんだ? 意外と勉強になると思わない? 考えさせられるよね。人間の愚かさって言うの?」

「ごめん。ちゃんと観たことはないんだけど」


 朝日は謝り、最後のマグカップを置くと言った。


「……羨ましいな。僕には、そんな素敵な時間はなかった。でも、『メンフィス・ベル』だけは観たことがあるよ」


 それは勉強とは言わないと呆れたり、学校に行かなくてはだめだと叱ったりもしない。


「素敵なのかな」

「素敵だと思うよ」

「すごくいい映画だよね」

「うん。そうだね。とてもいい」

「ねぇ、若い男の人ってみんな、あんなに単純で臆病なものなの?」

「どうかな」


 そう言う朝日だって、いわゆる青春時代をとおってきているはずなのに、ひどく他人事だ。ふと、朝日はどんな人生を送ってきたのか興味が湧いた。


「そうか。君は年齢のわりに、妙に肝が据わっているなと思っていたけど、そういったの影響があるのかな」

「どうかな」


 私はわざとそう返してやる。

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