clear tear

 朝日の歌声は、予想以上にきれいだった。


 低音は優しく穏やかで、高音は伸びやかで透き通っている。ギターと同じくそっと心に寄り添ってくるようで、初めて聞くのに懐かしい声。


 おまけに、英語の発音もパーフェクトだ。


 もちろん正確さについては、私はネイティブな外国人ではないから、判断しようがない。

 でも、映画の中で聞いて以来、すっかりその曲を気に入ってしまった私は、スーパーのワゴンセールでCDを見つけて、飛びつくように買った。寝室の隅っこには、パパのCDラジカセが埃を被っていた。それをこっそりリビングに出してきては、何度も何度も繰り返し聞いた。だから、音は耳が覚えている。


 朝日はベランダに続く窓を開け放って、床の上にあぐらをかいて、ギターを弾きながら歌った。私はそのかたわらで、うつ伏せに寝転んで頬杖をついていた。


 窓から吹き込む冬の風が、ハンガーごと持ち込んできた洗濯物を揺らす。

 普段から薄着の私は、これくらいの寒さはへっちゃらだ。むしろ、洗剤の清々しい香りが部屋中に漂い、しゃきっとして気持ちがいい。朝日の指がかじかんでしまわないかが心配だけど、見た限り問題なさそうだ。

 テーブルの上にはレインがだらしなく寝そべっていて、時々、流れる音符を辿るように鼻先を揺らした。


 この時間が永遠に続けばいいのにと願うくらい、穏やかなひととき。メロディに浸っていると、音が途中でぴたりとやんだ。


「どうしたの?」


 頬を手のひらの上に乗せたまま、私は首を傾けた。

 朝日は自分の手元に目を落として言った。


「……君は、僕が怖くないの?」


 伏せられた目にまつ毛が薄い影を作り、また雪原のような顔つきになる。


「……今さらだね」


 私は起き上がり、膝を抱えて座り直した。


「歳のわりに肝が据わってるって言ったの、朝日じゃなかった?」

「そうだけど……」

「怖くない」


 私はきっぱりと言った。

 普通の女子中学生だったら、朝日の正体を知ったとたん、青ざめて腰を抜かすのかもしれない。

 だけど、残念ながら、私は普通じゃない。


 朝日は目を閉じる。

 喜んでいるのか悲しんでいるのか、こうなるともう私には読み取れない。


「もしかして、怖がってほしいの?」


 だったら、朝日は最初からやらかしまくっている。

 隣に住む者同士として、挨拶くらいはしておいて損はないと思う。でも、窓の外で凍える私を、部屋の中に入れる必要はなかったし、泊める必要もなかった。


 朝ごはんまで用意して、リクエストに応えて歌までうたうなんて、腰を抜かしてほしいならぜんぜんだめだ。


「私、大人の男の人ってパパ以外に知らないから。親戚とか会ったことないし、学校の先生は、よく知る前に行かなくなっちゃったし。こんな優しい男の人もいるんだって、感動したくらいなんだけど」

「僕は、優しくなんかない」

「ううん、優しい」

「だって僕は」


 白い肌の上の長く繊細なまつ毛が、細かく震えたように見えた。


「……人を傷つけることが仕事だ」


 朝日がそう言った時、その彫刻のような頬に、透明な涙が流れるのを見た気がした。あの夜、彼が流していたように見えた涙が。


「うん。そうだね」


 もしかして、と思った。今の仕事は、何か事情があってやっているのだろうか。


 朝日と出会ってまだ間もない。朝日の人となりを完璧に把握できたわけじゃないけど、少なくとも、朝日はパパとは違う。

 笑顔が穏やかで、言葉遣いが丁寧で、歌声がきれいで、花の首が折れただけでも心を痛めてしまいそうな繊細な朝日に、殺し屋という職業はやっぱりどうしても重ならない。


 だけど、昨夜、人の命を奪ったことも、揺るぎようのない事実。


 私は膝を抱きかかえる腕に力を込めた。


「そんなこと言うなら、あの銃で私を撃って、さっさと自由になったらいいんじゃない?」


 朝日はゆっくりと目を開けると、強い目でじっと私を見てきた。私もまっすぐに見つめ返した。


「私を殺したって誰も困らないし、誰も悲しまないよ」


 そうだ。誰も悲しまない。

 私が消えたって、パパは身の回りのことをしてくれる人間がいなくなって、ちょっと不便に思うだけ。大家さんは少し泣いてくれるかもしれないけど、学校の同級生や先生は、私がどんな顔だったかさえ、思い出せないに違いない。

 家を出たママはどこにいるのか、生きているのかさえわからないし。


 私が唯一の目撃者で、朝日はとても幸運だったのだ。


 死んでもいいって、ずっと思っていた。

 今の苦しい毎日を繰り返していくことに、意味なんて何もない。それなら思い切ってリセットして、次の人生に希望を託したほうがいい。


 でも、自分で自分の命を終わらせるのは怖い。だから、病気とか、不慮の事故とか、そういうものが降りかからないかなって、いつも願っていた。


 もし、朝日に終わらせてもらえるなら。それは素敵かもしれない。

 

 朝日はプロだから、きっと一瞬で、私という人間の存在を、この世からきれいに消し去ってくれるだろう。

 

 そうか。朝日が私の前に現れたのは、殺し屋なのは、そのためなのかもしれない。


 先に目をそらしたのは、朝日のほうだった。ギターの弦が張られた頭の部分を持ち上げる。


「……そろそろ、買い物に行こうか」


 ほら、やっぱり。

 この殺し屋はそうやって、また泣きそうな顔をするんだ。

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