タルド領の領民、ベランジェの帰郷

 ベランジェが帰って来る日になった。

 クリスティーヌは朝起きてから心踊らせている。

「半年振りにベランジェお兄様にお会い出来るのよね。とても楽しみだわ。早く夕方にならないかしら」

 クリスティーヌは鼻歌を歌いながら紅茶を飲む。

 朝起きてからすぐに紅茶を飲むのがクリスティーヌの習慣だ。

「クリスティーヌお嬢様、本日のドレスは先日仕立てたものにいたしましょうか?」

「ええ、ファビエンヌ。それをお願いするわ」

 クリスティーヌは明るい笑みを浮かべた。

 ファビエンヌはすぐにドレスを用意する。

 先日港街の仕立て屋で依頼した、紫と赤の生地を使用したシンプルなシルエットのドレスだ。クリスティーヌのブロンドの髪とエメラルドのような緑の目とよく合っている。サロンやお茶会や舞踏会といった社交の場でよく見かける、ウエストを細く絞り、腰から裾にかけて丸くベルのように広がったデザインのドレスとは違い、動きやすそうだ。

 クリスティーヌは着替えるとすぐに朝食を取り、家庭教師が来るまで読書をする。

 そして家庭教師から勉強やマナーやダンスを学んだ後は自由時間だ。

 この日、クリスティーヌはベランジェが帰って来るまでファビエンヌと共に領地を散歩することにした。






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「クリスティーヌ様だ!」

「こんにちは、クリスティーヌ様!」

 クリスティーヌが領地を歩くと、領民は皆嬉しそうに声をかける。

「クリスティーヌ様!」

 若い女性が嬉々としてクリスティーヌの元へ駆け寄って来た。

「この前はありがとうございました。クリスティーヌ様のご助言のお陰で売り上げが大きく上がったのです。夫もとても喜んでいました」

「まあ、それはよかったですわ。安心いたしました。ですが、それはわたくしではなく貴女方が努力なさった結果だと存じます。わたくしはただ、領地経営の知識をパン屋の経営に当てはめただけですわよ」

 クリスティーヌは品のある笑みを女性に向ける。

「いえいえ、そんな。クリスティーヌ様の知識は素晴らしいです。それで、ささやかではありますが、お礼にこれを受け取ってくださいますか?」

 女性はまるで女神を見ているような表情だった。

「ありがとうございます。後で家族といただきますわ」

 クリスティーヌは女性からバゲットを受け取った。

「クリスティーヌ様、私がお持ちしますよ」

「ありがとう、ファビエンヌ」

 クリスティーヌは紙袋に入った長いバゲットをファビエンヌに渡した。

 再び領地を歩き始める。

 しばらくすると、眉間にしわを寄せため息をつく中年男性に会った。

「ごきげんよう。どうかなさいました?」

 クリスティーヌは男性に声をかけた。

「おお、これはこれは、クリスティーヌ様。いやあ、実はうちの小麦畑の実りが一部妙に悪くて、どうしたことかと困っていましてね」

 男性は苦笑しながらため息をついた。

「……少し畑の様子を見せていただいてもよろしいでしょうか?」

 クリスティーヌは少し考えてそう尋ねると、男性は快諾してくれた。

 小麦畑は全体的に実りが良い。しかし、確かに男性が言った通り、一部分だけ小麦がくたびれている場所があった。

 クリスティーヌはその場所へ近付き、小麦の茎や葉、そして地面をじっくり観察する。

「今はどのような肥料をお使いか教えていただいてもよろしいでしょうか?」

 男性は頷き、すぐに今使っている肥料をクリスティーヌの所に持って来る。

 クリスティーヌは肥料の成分を確認した。

「この部分だけ別の肥料に変えましょう。必要な養分が今の肥料だと不足していますわ。一時凌ぎではございますが、それで今年の収穫までには間に合います」

 男性は食い入るようにクリスティーヌの話を聞いている。

 クリスティーヌはそのまま続ける。

「来年はこの部分には種を蒔かず、土地を休ませてください。連作により、土の養分が少なくなっております。現段階で小麦の育ちがこのくらいでしたら、一年休ませれば土の養分は十分じゅうぶんになると存じますわ。それから、来年からは一部分ずつ種を蒔かずに休ませる必要がございます。このくらいずつでございましたら、休ませても収穫にそこまで影響がないと存じますので、貴方達ご家族のの生活も苦しくなることはございませんわ」

「なるほど。毎年ずっと小麦を育ててたから、土の養分が減ったってことですか。クリスティーヌ様、ありがとうございます。クリスティーヌ様のお陰でとても助かりましたよ」

 男性は感激していた。

「とんでもないことでございます。今後ともご無理のないようにお願いいたしますわ」

 クリスティーヌは品良く微笑んだ。

 そして再び領地の様子を見て回る。

 クリスティーヌはどこか嬉しそうだった。

「お嬢様、どうかなさいましたか?」

「いいえファビエンヌ。ただ……わたくしが学んだ知識が少しでも領民の為になったことが嬉しくて。今までやってきたことは、無駄ではなかったと思えるの。もっと色々勉強をしようとも思えてくるわ」

 クリスティーヌはふふっと笑った。そしてそのまま続ける。

わたくしが生活出来るのは、領民の方々が納める税金のお陰よ。だから、わたくしは少しでも領民の方々の暮らしが豊かになるようにしたいの。それが、わたくしにとってのノブレス・オブリージュよ」

 クリスティーヌは微笑んだ。強く気高い笑みだ。

「クリスティーヌお嬢様、ご立派でございます」

 ファビエンヌはクリスティーヌの笑みに引き込まれていた。

 またしばらく歩いていると、今度は小麦の栽培に適さない土地を見つけた。

 何の変哲もない土地だが、クリスティーヌはそこに生えている植物が少し気になった。

「この植物は……」

 クリスティーヌは少し考え込む。

「あまり見かけない植物ですね、お嬢様。何と言いますか、ハーブのような」

「ええ、だけど、少し前に本で見たことがあるのよ。確か最近見つかった新種のハーブよ。名前は……『ルナ・エルブ』だったわね。女王陛下が発見したからそう名付けられたのだそうよ」

 クリスティーヌは本で見た内容を思い出した。

「女王陛下が直々に……」

 ファビエンヌは驚いていた。

「女王陛下はご公務の間に、国民の生活に役立ちそうな分野の勉強をなさっているとイポリートお兄様から聞いたことがあるわ。このハーブも、きっとその産物よ。今のところ、薔薇のような香りがすることと、食用にしても問題がないということしか分かっていないわ。女王陛下や植物分野の専門家の方々が色々と研究しているそうよ」

 クリスティーヌは興味深そうにルナ・エルブを観察していた。

 そうしているうちに、日が暮れてベランジェが帰って来る時間が近付いてきた。

「とにかく、ルナ・エルブが生えていたことは一応お父様に報告しておきましょう。領地の作物や植物は新しいものがあれば女王陛下に報告の義務があるわ。報告を怠り資産隠しを疑われたらいけないもの」

「左様でございますね、お嬢様」

 クリスティーヌはファビエンヌと共にタルド家の屋敷に戻るのであった。






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「ベランジェお兄様、お帰りなさいませ。お久し振りでございますね」

 クリスティーヌは嬉々としてベランジェを出迎えた。

「ただいま、クリスティーヌ。まさか真っ先にお前が出迎えてくれるとはな」

 ベランジェはハハッと笑った。

 ブロンドの癖毛にエメラルドのような緑色の目、そして顔立ちは母親であるミレイユ似のベランジェ。

 タルド家の兄弟姉妹の中では一番歳が近いので、二人は仲が良い。

「クリスティーヌの好きそうな本を土産に買って来たが……お前は本ばっか読んでその他の淑女教育は大丈夫なのか? 確かに知識を詰め込むのも大事だが、そらだけじゃ社交界を渡り歩けないぞ」

 ベランジェは呆れたような、心配するような表情だ。

 それに対してクリスティーヌは気品のある笑みでカーテシーをする。

「ベランジェお兄様、お気遣いありがとうございます。ですが、ご安心ください。アリーヌお義姉様から素晴らしい家庭教師を紹介していただきましたので」

 上級貴族にも劣らない身の振る舞いだった。

「うむ。確かにに今のお前なら安心だな。二年後のお前の成人デビュタントの儀が楽しみだ」

 ベランジェはニッと歯を見せて笑い、クリスティーヌの頭をポンと撫でた。


 成人デビュタントの儀は、貴族令嬢が成人して社交界に出られることを示す場、つまり社交界デビューの場だ。貴族令息の場合は各家での判断で、その家の当主と共にサロン等の社交の場に出ることで社交界デビューとなる。


「おお、ベランジェ、今帰って来たのか!」

 プロスペールがやって来る。

「はい、ただいま戻りました、父上」

 ビシッと敬礼するベランジェ。

 王都の騎士団での活動の賜物だ。

「ベランジェ、お帰りなさい。もうすぐ夕食の時間よ。ここではなくゆっくり座ってから話しましょう」

 ミレイユはそう言い、玄関にいた三人をダイニングルームへと連れて行く。

 ダイニングルームには既にイポリートとアリーヌがいた。妊娠中のアリーヌの容態は安定している。

 ベランジェの久々の帰郷により、タルド家の夕食時はいつもより賑やかだった。

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