王都アーピスへ
二年の時が経過した。
クリスティーヌは今年十五歳になる。社交界デビューの年だ。
明日は王都へ向かうので、クリスティーヌは自室でファビエンヌと準備をしている。
その時、幼い少女が伝い歩きでクリスティーヌの部屋に入って来る。ふわふわとした栗毛に茶色い目の少女だ。
「おねえたま」
たどたどしい口調だ。
「あら、ヴィクトワール。頑張ってここまで来たのね」
幼い少女の名はヴィクトワール。彼女はイポリートとアリーヌの娘だ。今年一歳になる。クリスティーヌにとっては姪に当たる存在である。そして、順当にいけばイポリートの次の代のタルド家当主になる予定だ。髪と目の色はアリーヌから受け継いだが、髪質や顔立ちはイポリートに似ている。
クリスティーヌは頬を緩ませ、ヴィクトワールをそっと抱き上げる。
ヴィクトワールはキャッキャと楽しそうに声を上げる。
「ヴィクトワールお嬢様もすくすくと育って何よりでございますね」
ファビエンヌも頬を緩ませ、ヴィクトワールの頬にそっと優しく触れる。
すると、クリスティーヌの部屋に向かってドタバタと慌ただしい足音が聞こえてきた。
「ああ、ヴィクトワールお嬢様! こちらにいらしたのですね」
ヴィクトワールの乳母だ。彼女はヴィクトワールを見つけると心底ホッとした表情になった。
「クリスティーヌお嬢様、申し訳ございません。お忙しいところにお邪魔してしまい」
「気にしなくて良いのよ。それより、ヴィクトワールは伝い歩きとはいえもう一人でここまで来ることが出来るのね」
クリスティーヌはヴィクトワールを見て優しげに微笑む。
「ええ。成長がお早いので驚かされるばかりでございます。恐らくもう少しいたしましたら支えなしで歩けるようになられるでしょう」
乳母はクリスティーヌからヴィクトワールを受け取り抱き上げる。
ヴィクトワールは相変わらずキャッキャと楽しそうにしていた。
ヴィクトワールと乳母が部屋を出た後、クリスティーヌ達は王都へ向かう準備を続けるのであった。
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タルド領から港街までは馬車で行ける距離だ。しかし王都までとなると距離が遠過ぎて馬車が使えない。故に汽車で移動する。
クリスティーヌはファビエンヌとドミニクと共に汽車の一等車に乗り込む。
一等車は広々としており個室に分けられているので、乗り込む客はほとんど貴族だ。しかし、中には平民もいる。
クリスティーヌは身なりの良い平民一家が一等車に乗り込むのを見て、希望に満ちた笑みを浮かべた。
(平民の方々も豊かになってきているということは、国の税収も増えているということ。きっとこの国はこれからどんどん発展していくのでしょうね)
クリスティーヌ達はそのまま個室に入った。
「三日後の
「ええ、そうよ。それに、お父様とお母様にも来ていただくわ。それに、この時期から社交シーズンが始まるから、イポリートお兄様とも王都で合流すると思うの。アリーヌお義姉様はもう少しヴィクトワールとお過ごしになってから王都にお越しになるみたいよ」
ファビエンヌからの問いに、クリスティーヌはそう答えた。
成人デビュタントの儀では、まず女王からの挨拶及び祝いの言葉が贈られる。その後はエスコートしてくれた男性とダンスをする。そしていよいよここからがメインとなる。ダンスを楽しむのも、軽食を楽しむのも良いが、何よりも重要なのが家や領地を強くする為の人脈構築だ。その為、親も出席する。貴族同士の腹の探り合いや悪意を向けられる等のことも多々あるので気が抜けない。また、未婚の者にとっては婚約者候補を探す場でもあり、家督を継がぬ者にとっては上級貴族の使用人になる等、将来の働き口を探す場でもある。
社交シーズンも始まるということで、クリスティーヌも王都での滞在期間が長くなる予定だ。
「それにしても、汽車は馬車よりも速いのね。初めて乗るから驚いたわ」
クリスティーヌは窓の外に目を向ける。
馬車から見える景色はのんびりと流れていた。だが、汽車から見える景色はあっという間に変わってしまう。まるで颯爽と吹き抜ける風になったような気分だ。
「確かに、左様でございますね。私も汽車は初めてで、馬車の速さに慣れておりましたから、この速さには驚きです」
ファビエンヌも窓の外を見ている。
「確か、蒸気の力で走行しているようです」
ずっと黙っていたドミニクが口を開いた。
「蒸気機関ね、ドミニク。ネンガルド王国で発明されて、今やこの国周辺でも一般的に使われているわ。恐らくこの先もどこかの国でまた新しいものが産まれるのでしょうね」
クリスティーヌはエメラルドの目を輝かせた。
「左様でございましょう。……この速さなら、夕方頃には王都へ到着するでしょう」
ドミニクは少し考える素振りをしてそう言った。
「それならば、まだ時間はあるわね。荷物から
「お嬢様、こちらに」
「ありがとう、ファビエンヌ」
クリスティーヌはファビエンヌから出席者名簿を受け取り、顔と名前を暗記するのであった。
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王都アーピスはタルド領や近くの港街よりも人が多く、賑わっていた。更に、周囲の建築物等も洗練されている。
「ここが王都アーピスなのね」
王都が初めてのクリスティーヌにとっては何もかもがキラキラして見えた。しかし、だからといって子供のようにはしゃがない。貴族令嬢らしく、淑やかに品のある笑みを浮かべるだけだ。
「お嬢様、生憎駅前の辻馬車が全て出払っているようです」
困り顔のファビエンヌだ。
「
クリスティーヌは周囲を見渡し、困ったように微笑んだ。
「王都のタルド家の屋敷までは駅から遠くないわ。荷物もそれほど多くないし、王都探索も兼ねて歩いて行きましょう」
気を取り直し、クリスティーヌは微笑んだ。エメラルドの目は輝いている。
一行いっこうは歩き始めた。
仕立て屋、パティスリー、レストラン、そして本屋。港街よりも様々な店がある。
とあるカジュアルな平民向けのレストランを通りかかった時のことだ。クリスティーヌはよそ見をしており、看板を出している少年とぶつかってしまった。
「大変失礼いたしました。申し訳ございません。お怪我はございませんか?」
クリスティーヌはすぐに謝罪をした。
「いや、俺は特に問題ねえけど……」
少年はまじまじとクリスティーヌの顔を凝視する。
クリスティーヌは訝しげに首を傾げた。
(
クリスティーヌは目の前にいる少年に見覚えがあった。
褐色の髪にアンバーの目の少年。必死に記憶を呼び起こした末に思い出す。
「もしかして、ゴーシャ様……ゲオルギー様でございますか?」
「やっぱりクリスティーヌ嬢ちゃんか!」
相手もクリスティーヌのことを思い出したようだ。
少年はかつて港町で道に迷っていたゲオルギーだった。まだアシルス帝国には帰っていないようだ。
「お久し振りでございます、ゴーシャ様。二年前より背が高くなられたのでございますね」
クリスティーヌは当時を懐かしんだ。二年も時が過ぎたこともあり、ゲオルギーの背は更に伸びていた。クリスティーヌの背も伸びたのだが、二人の身長差は頭一個と少しある。
「ああ、クリスティーヌ嬢ちゃも、何か
ゲオルギーはニッと歯を見せて笑う。
「俺、半年前からこの店で修行してんだ」
ゲオルギーは看板を置き、目の前のレストランを指差した。
「ゴーシャ様のお父様のお店を継ぐ為、でございますね」
クリスティーヌはかつてゲオルギーが話していたことを思い出す。
「ああ。嬢ちゃんは何で
「
「
ゲオルギーは聞き慣れない言葉に首を傾げた。
「社交界へのお披露目のようなものでございます。この儀を終えますと、社交界デビューとなりますわ。社交シーズンも始まりますので、
「……何か、お貴族様って大変そうだな」
ゲオルギーは苦笑した。
「まあ、アーピスで何か困ったことがあったら俺んとこに来てくれよ。前に助けてもらったし。つっても、クリスティーヌ嬢ちゃんは他に助けてくれそうな人がいそうだけどな」
「お心遣い、感謝いたしますわ」
クリスティーヌは品よく微笑んだ。
その時、店の中からゲオルギーを呼ぶ声が聞こえた。
「おっと、そろそろ時間だ。この店、貴族向けじゃねえけど結構美味いんだ。クリスティーヌ嬢ちゃんも何か色々大変そうだけど、頑張れよ」
「ありがとうございます。ゴーシャ様もお疲れの出ませんように」
クリスティーヌは店へ入るゲオルギーを見送った。
(王都は初めてで、少し不安もありますが、懐かしいお方にお会い出来ましたわ)
クリスティーヌは品のある笑みを浮かべていた。
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