第8話 人を殺すのはイヤだ

 その夜、武蔵は夢を見た。

 自分が殺した11歳の少年、吉岡又七郎の夢である。


 あの日、霧の中から突然現れた武蔵を見て、又七郎は「あっ」と驚いた。金糸銀糸で彩られた袖なし羽織をまとい、額には白い鉢巻きをきりりと巻きしめた美しい少年であった。

 少年はあまりのことに口をポカンと開け、武蔵と目を合わせた。

 その刹那、武蔵の刃は一閃し、問答無用と首を刎ねたのだ。

 首は赫い澪を曳いて、宙に飛んだ。

 宙に飛びつつ、口をポカンと開け、まだ武蔵を見ていた。


 返り血が武蔵の顔を朱に染めたところで、武蔵は床から跳ね起きた。

 息が荒い。

 ふと部屋の隅から視線が放たれているのを感じた。

 武蔵は咄嗟に太刀を鞘走らせた。

 手応えがあり、音を立てて何かが転がってきた。

 それは武蔵が彫り上げた不動明王の首であった。


 朝になり、武蔵は興福寺へと足を向けた。

 広い寺域には多くの塔頭たっちゅう支院が散在し、境内は清浄の気に満ちていた。

 槍術で天下に名を馳せる宝蔵院は、この興福寺塔頭の一つである。

 武蔵は宝蔵院の門前に立った。

 一人の寺中間ちゅうげんが門前を掃き清めていた。

 武蔵はその中間に言った。

「胤栄さまはおられるか。できればお会いしたい」


 中間は会釈もせずに鼻をつまんだ。

 武蔵の五体から汗と垢のまじった異臭が放たれているのだ。

 しかし、初対面の人間に「臭い」とも言えない。

 中間は、

「そこでお待ちなされ」

 と言い捨て、本堂の方角へと小走りで向かった。


 やがて武蔵の前に老僧が飄々と現れた。

「わしが胤栄じゃ。何か用かな」

 宝蔵院槍術の創始者とも思えぬにこやかさであった。

 しかしながら、その眸の奥からは尋常ならぬ鋭気が放たれていた。

 武蔵は胤栄の前に片膝をつき、挨拶の辞を述べた。


「突然、申し訳ございませぬ。拙者は旅の兵法者にて、宮本武蔵と申すもの。できれば、一手、お教えくださりませ」

「ふむ、左様か。じゃが、わしは高齢ゆえ、役に立たぬ。弟子でもよいか」

「それで結構にございます」

「で、得物はどうする。真剣か、木刀か」

「もう人は殺したくないので、木刀にて試合仕りたく存じます」

 この武蔵の言いぐさに、胤栄は愉快げに呵々大笑した。

「ほう、その言い様。わが宝蔵院流に勝つと言わんばかりであるのう。面白い御仁じゃ。では、明日の朝、また参られよ」


 武蔵は胤栄に問うた。

「明朝、お立合いいただける御弟子さまのお名前は?」

「道栄と申す者じゃ。いまだ無敗。なかなかに手ごわいぞ」

 そう言って胤栄はまた笑った。

 武蔵は深々と頭を下げた。

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