ナイトレガシー
桜舞春音
1 ナイトレガシー
夜は彼にとって、唯一の癒しだ。
愛知県名古屋市。五月初めの初夏の夜に、一人の少年が家を出た。
中学二年生になる彼は不登校児だった。度重なるいじめを受けて、彼は人を信用しなくなっていた。かつて人を信じて疑わず、今残ったのは傷だけだ。
夜は綺麗だと思う。
満ちていく月と深い藍。藤舞の世界は夜だった。
彼の父親は仕事で泊まり。父子家庭で、父が居なければなんだってできる。
藤舞は自転車に
いつもなら直進だが、今日はいつもと違うことがしたかった。
繁華街に行ってみよう。きっと面白い。
藤舞に、悪魔が囁いた。
藤舞はハンドルを切って走り出す。車も減ってきた夜十時、車道だって走れる。名古屋環状線沿いは千種郵便局から名古屋駅辺りまで眠らない町が続く。藤舞は自転車を停めて歩き出した。大人たちは酒が入り始めた頃だ。誰も一人で歩く子供なんて気にすることない。赤い
夜の繁華街は綺麗だった。少なくとも、彼にはそう見えた。
しばらく歩いた辺りで、藤舞の目にあるものが留まる。
煙草の自販機。
気が付いたら、小銭を入れていた。パッと、ボタンが光る。生唾が溢れる。
「お前、煙草興味あんの?」
急に現れた男に驚いて、藤舞は手をすっこめる。そのまま男は上段のアメスピを買う。とすん、と缶ジュースより軽い音を立てて煙草の箱が受取口に落ちる。
逃げ出す藤舞を、男は腕をつかんで止めた。
「待て待て不良くんよ。」
男の声色が変わる。どことなく楽しげで、色っぽい声だ。
「遊んで行けよ。
そう言って男は藤舞の目を覗き込んだ。そして確信したように笑うと、そのまま手を引いて裏路地のコインパーキングに連れ込んだ。光のない目は怖くもどこか懐かしかった。そしてそこに停めてあったタウンエイストラックのキャンピングカーに乗り込んだ。
メッキの巨大なバンパー、ゴールドの鉄チンホイール、社外マフラー。大きなミラーにこれでもかと言うほどの電飾が施されているキャンピングカーは
「乗れよ。」
棒立ちしていた藤舞を男は促すように乗せる。
男は
このデコトラは行く先々で噂になる。涼介はエンジンをかけ、ギアを入れた。五速MTのトラックはLEDヘッドライトが眩しい。
「あの、俺もうお金持ってな...
「金ならこれで貰ってらァ。」
すぐにでも降りたかった藤舞は、涼介が掲げたアメスピの黄色い箱を睨んだ。
藤舞は抵抗すること自体無意味だと思い、寝ないようにはしながら窓の外を眺めていた。トラックは今池を北上して守山方面へ向かう県道二一五号に入る。明らかに郊外へ向かう車。一〇分もすれば、車は旧い商店街らしき所に停まった。
「ようこそ。我がナイトレガシーへ。」
涼介は藤舞をエスコートしながら商店街へ誘った。
そこは疲れた人間たちの遊び場、ナイトレガシー。
夜に頼る藤舞の様な人間が集まる場所だった。文字通り夜の歴史を刻む場所。
藤舞は涼介に連れられ地下の店に入った。そこは、若者が多いカジノホールだった。
ジャックポット、チェス、ブラックジャック。楽しそうに遊ぶディーラーもプレイヤーも、煙草の煙と酒の臭いで顔は認識できない。
「弦月?」
聞き覚えのある声に藤舞が振り返ると、やっぱり見覚えのある顔があった。
「
「久しぶりたい。なんばしよっとった?」
崇高がセブンスターメンソールの煙草を咥えながら言う。こもった九州弁と八重歯が色っぽい。カジノホールの照明のせいかもしれない。
「だらだらしとった。」
崇高は藤舞の答えにふうん、と煙を吐いた。
「夢をみとった、俺は...」
崇高が言った。
「俺の夢は歌手。はじめは叶わない、馬鹿らしいなんておもうてん。でも、追いかけるって、大事なことやと思う。その道がたとえつんどっても、絶対、叶うねん。」
藤舞には、この空間で夢を語る奴がいるのが意外で失笑する。
「違法に煙草吸っとる奴が何言うとりゃあさ。」
藤舞は訛った。
それは藤舞が気を抜き、警戒を解いたことを意味する。そんなこと、いつぶりだっただろう。ここは、そういう本音を言える空間なのかもしれない。
夜の闇を照らすおぼろげな明りは張りつめた心を緩めて開いていく。
「少年。」
涼介がカクテルを飲み干して藤舞に訊く。
「少年は、夢って、なんだと思う?」
夢。
藤舞には程遠く、同年代の奴らには近いその妄想。藤舞に言わせれば夢なんて不確かなものだ。不十分な目標なんて見失うだけ。子どもの夢なんてそんなもんだ。
「俺は、夢ってのは丁半勝負だと思ってる。」
夢は
何の考えもなく見た夢を、奇か偶かで勝負する。そのロジックを追い求め、覆すのが『思春期』。抱いた夢を出た目の数だけ前に進む。
藤舞たちは今まさにその時期にいるのだ。
「だが自分で摑み取るだけが人生じゃねぇ。与えられた人生ってのも、また人生さ。」
運命に身を任すも自分次第。それが生き様。大事なのは今に満足するかどうか。
満足して悔いなく天寿を全うできれば、人生に善し悪しなんてない。
不登校児は問題視されている。義務教育の時点で教育を受けないのは良くはないと、藤舞も解っている。しかし、勉強なんていつでもできる。心が不安定な子どもを引っ張り出して無理矢理勉強に縛り付けることの方がよっぽど問題。倫理観やマナーさえなっていれば生きるのには苦労しない。登校が当たり前で、頭の良さがモノを言う世界はもはやマイノリティー。
藤舞はいつも、家を訪ねて引っ張り出そうとしてくる教師たちにこう言う。
「俺は自分のイノセンスな感情にも暗い気持にも全部向き合うし、自分が好きだ。だから学校なんて必要ない。」
生きることを楽しんでいれば、きっと道は開けると思う。それは幼い頃、祖母に教えて貰った。
藤舞は家に帰った。その夜は、よく眠った。それから何日か、あの商店街に行ってみたが廃れた商店街があるだけでナイトレガシーはどこにもなかった。そしてあの日の半月前、崇高は事故で亡くなっていた。あれは、夢だったのか。
そうではないと、藤舞は確信している。藤舞のスマホには、あの日涼介に貰ったデコトラのキーホルダーがついている。これが消えない限り、夢じゃない。夢だとしても、涼介のあの言葉は忘れない。
大事なのは、今に満足するかどうか。 END
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