5-4 モモちゃんの食生活 4

「親父い」

 キッチンから、ぼくはのんびり声をかけた。

「担任教師をおだてて買収しようったって駄目だぞお。モモちゃん先生にそういうのは通用しない」


「おや、そうか」

 親父ものんびり応じた。

「それは残念」


「こらこらおぬし、失礼なことを言うな」

 モモちゃんがあわて気味にこちらに怒鳴ってきた。

「父上殿にそんなさもしい狙いがあるわけがなかろうが。もちろん私だって、そんな手に乗るわけがない」


「いや、もっともです」

 動ぜず、親父は笑顔でうなずいている。

「私の方もそんなケチな根性は持ち合わせておりません。ただご近所で仲よくさせていただきたいのと、前途有望な若い方の少しでもお役に立てばというだけです」


「そ、それは――なんともありがたいお言葉で」


 だんだん、モモちゃんの声が口の中にこもっていっている。誘惑に負けそう、なのだろう。


「とは言え、ですね」

 親父がやや戯けた調子で続けた。

「実はその辺も、息子の了承の上でないと決定はできないのですがね。今では死んだ女房に替わって家の実権は息子に握られてまして」


「ああ、それは当然です。何事も息子さんの意向を無視してというわけにはいきません」


 何か、責任を押しつけられそうな風向きだ。


「風呂沸いたけど、親父どうする?」

 給湯器の表示を確かめて、ぼくは居間に戻りながら訊いた。


「うん、あ、いや――」


「ああ、私のことならお構いなく」

 モモちゃんが顔を上げて声をかけた。

「どうぞ、いつもの日常のままで」


「あ、いやそうですか――」

 親父は視線を上向けて少し迷っていた。

「ああしかし先生、まだ帰らないでくださいよ。もっとお話がしたい。よろしかったらこの後、お近づきのしるしに一献など」


「いや、はあ」

 モモちゃんはにっこりと応じた。

「お言葉に甘えて、ゆっくりさせていただきます。どうぞお気になさらずに」


「慎策、ちゃんと先生のお相手していろよ」

「へーい」


 浴室へ消える父親を見送って、代わりにソファに腰を下ろす。

 向かいでは担任教師が携帯電話を取り出して、しかし操作する風でもなく開き閉じしながら物思いにふけっていた。

 ピンク色の機械を手の中にもてあそぶのは、ただのポーズのように。


 ぼくに言い出す言葉を探している。

 そう察して、ぼくは少し好奇心を持ってその切り出しを待ってみた。


「実は――」


 少し間を置いて、低い声がその口から発せられた。


「はい」

「私は、おぬしの弱みを握っている」

「は……?」

「少女乱暴未遂の間抜け面が、この中にある」

「はあ」


 ゆっくりと、教師の手が上がった。

 かざされた携帯の液晶画面に、映っているのは確かに青空の下でのけぞった、ぼくの驚いた表情だった。


「………」


 数秒眺めて、どうだと言わんばかりの童顔に目を戻す。


「これを、どうするんですか」

「警察に届けられたら、おぬしの将来は閉ざされる」


「えーと」

 ぼくは掌で額を擦って、返す言葉を探した。

「どういう、理由ででしょう」


「言っただろう、少女乱暴未遂でだ」

「どこの、少女?」


 う、と詰まって、モモちゃんはしばし天井を見上げて考えた。


「若い女性、でもいい」


 そんな、妥協した口ぶりをされても。


「若い女性が、どこに?」

「その場にいたのだ」

「映っていませんね、乱暴未遂の状況は」

「それでも、本人の証言は得られる」


「その女性」

 額がかゆくなってきて、爪の先でかく動きに変えた。

「何故その場にいたか、最初から事細かく証言するわけですか」


「う……」

「中学生さえもう近づかないという子供用の遊び場に、何故若い女性が一人でいたか、何をしていたかということから」

「う――しかた、なかろう」

「だいたいあの時のこと、誰にも秘密じゃなかったんですか」

「ぬ――背に腹はかえられぬ」


 何が背で、何が腹なのだろう。


「そもそもそれで、警察を納得させるストーリーが作れるんですか」


 だとしたら、たいへんな作家だ。

 転校前の中学生が偶然新しい担任と出くわして、いきなり乱暴未遂――ぼくは、サイコパス暴行常習犯かい。


「ぬう――」


 担任教師は、難しい顔で腕を組んだ。


「今のは、なし。忘れろ」

「はあ」


 仕切り直し、らしい。

 ゆっくりと、モモちゃんは室内を見回した。


「そっちが父上殿の部屋のようだから、おぬしの部屋は逆側、こっちだな」


 背後の襖を、親指でさす。


「はあ、そうですが」

「好都合だ。私の寝室の真下だ」

「それが?」

「毎晩真上の床をモップの柄でつつき続けられたら、おぬしおちおち寝られまい」


 それは――確かに安眠妨害になりそうだなあ。


「実行しないでくださいよ。うちだけじゃなく、隣近所まで迷惑になりそうだ」

「それが嫌なら、私の言うことを聞け」


 はああ。深々と、ぼくは溜息をついた。


「どんな言うことを聞かせたいのか、まず話してください。別に脅迫しなくても話は聞きますから」

「そうなのか?」


 まず生徒を脅迫する発想しかないのか、この教師は。


「とりあえず」

 ぼくはもう一度、密かに溜息をついた。

「嫌いなものは何か、教えておいてください。献立の上で考慮しますので」


「おお」

 モモちゃんは目を丸くした。

「考えてくれるのか」


「せっかく作っても食べてもらえないのでは、モチベーションが下がります」

「おお、確かに」


 ぽん、と手を打っている。


「で、嫌いなものは」


「食材としては特にないが」

 視線を上向きにして、考えている。

「味つけ的には、苦いものと、辛いもの……」


 子どもだ。


「本当に食材で嫌いなもの、ないんですかあ」


 見るからに好き嫌いが多そうな気がするのは、偏見だろうか。

 ニンジンとかピーマンとか、苦手っぽく見える。


「いや、その……」

 予想通り、動揺が走った。

「なくはないのだが、家を出る時の親との約束で、克服せねばならんのだ。学校の給食のおかげで、何とか克服中なのだ」


 考えてみると、担任も生徒と一緒に教室で給食を食べているのだ。

 嫌いなものを残していたのでは示しがつかない。

 まあ、モモちゃん先生と生徒の間にそういう類いの示しが必要かどうかは、別な議論を待たねばいけない、気もするけど。


「おぬしの料理のうまさなら、さらに頑張っていける、気がする故にな」

「はあ、なるほど」

「しかし、欲を言えば……魚よりはお肉が好きかなあ、と……」


「却下です」

 ぼくは即答した。

「そういうところは偏りがないようにしないと。魚を食べないと、大きく、骨が強く、なれません」


「むう――」

 ちょっと、口が尖った。

「それでは、しかたない、のだ」


「ちなみに、カレーは甘口がお好みですか」

「うむ」


 うちの親子は辛口派だからなあ。最後の仕上げを分けるしかないかな。

 小さな子どもがいる家では、そんな工夫をしていると聞く。


「まあとりあえず、分かりました。もっと詳しくは、追い追い相談していくということで」

「う、む。よろしく、頼む」


 意外なくらい、素直な言葉が出た。こっちが偉そう過ぎたかなと、ちょっと反省してしまうくらい。


「感謝する――ので、さっきの会話は忘れるように」

「忘れろと言われても……」


 言いかけて、ぼくは思わず目をむいた。


「――って、鈍器を探さないでください!」


 小さな手が、テーブルの装飾代わりのガラスの灰皿を掴もうとしているのだ。

 人に何か忘れさせようとするたびに、記憶喪失を起こそうとする気か、この教師は。


「ダメか」

「ダメです!」

「まあ、冗談だ」


 本当か? 本当だろうな?


「しかし」


 テーブルに置いていたドピンクの携帯電話を、モモちゃんは忌々しそうな顔で手に取った。


「先日の件も忘れろと言ったのに、つくづく言うことを聞かん奴だ」

「そう言われても……」


 頭の中で、雪女が暖気で溶けて生身の人間に変身する、アニメーションが制作された。


「しかも、あれは姪だと言ったろうに」


「いや、しかし」

 ぼくは鼻の頭をかいて応えた。

「姪って、あの生徒会書記の一杉さんですよね」


「うむ、不肖の姪だ」

「彼女、公園で会った女の子よりは少し背が高いですから」


 ぎろ、と担任はにらみ上げてきた。


「でたらめを言うな。あやつは我と同じ身長だ」

「えー、本当ですか?」

「四月の測定結果をちゃんと確認しているのだからな」


 ふんそれ見たことか、と胸を張る。


「―――」

「どうした?」

「えーと、先生」

「何だ」

「中学二年生って、四ヶ月あれば結構背は伸びますよ」

「何だと?」


 本気で、考えてなかったのか。


「おのれ、あの裏切り者め」


 身長を伸ばさない同盟でも、作っていたんだろうか。

 あの一杉さんが好んでそんなものに加盟署名するとは、とうてい思えないけど。


「おのれ、あやつ――」

「あの――」

「何だ」

「まさかとは思いますけど、そんなことで彼女に報復を考えちゃダメですよ。オトナのすることじゃないですよ」


「むう――」

 ぷっと頬がふくれた。

「――当たり前だ、そんなことするわけがない」


 ――考えては、いたらしい。


 それにしても、そんな不服そうに承知しなくてもいいと思うんだが。

 これは絶対、食事を作ってあげる約束ができたのでしかたなくの譲歩なんだろう。


 何となく、この人の餌づけは結構容易なのではないかという、失礼な考えが浮かんだ。


「それと、あれが先生だったんだと確信を持ったのは、ついさっきです」

「何?」

「その携帯の派手なピンク色、覚えがありましたから」


「むう」

 童顔が、たちまちしかめられた。

「――ぬかった」


 まあその直後に、自ら白状したわけだけど。


 その夜、親と教師は杯をかわしてますます親睦を深めていた。

 足どり怪しくなった担任に肩を貸して上の階に送り届けるのは、やっぱりぼくの役目になった。


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