5-3 モモちゃんの食生活 3

「あとは患部を乾燥させないように保護して自然治癒に任せるのが一番だそうで。最近出ているガーゼを使わないフィルム状の絆創膏のようなものがいい、と。確か、家にあったな」


 電話台の下から救急箱を出して覗くと、やっぱりあった。


「この大きさで間に合いますかね」


 擦り傷は右膝と右肘の二カ所らしいので、二枚取り出して渡す。

 モモちゃんは肌色の絆創膏を取り出して珍しそうに眺め、傷口にあてがってみていた。


「うむ、ちょうどいいようだ」

 大きくうなずいている。

「かたじけない」


 珍しく、礼の言葉が出た。


 妙に苦労しながら二枚を貼り終わって、ようやく小さな担任教師はソファで落ち着いた顔になって室内を見回していた。


「いわゆる男所帯にしては、ちゃんと片づいているなあ」

「まあ――引っ越してきたばかりですからね」


 救急箱を片づけて。ぼくは冷蔵庫から麦茶を出してきて担任の前に置いた。

 頭の中で勝手に、転校直後の生徒宅に家庭訪問してきた教師と設定することにした。

 そうでもしないと、わけ分からない疑問ばかりが渦巻いて、どうにも落ち着きそうにない。


「どうぞ」

「おう、ありがとう」


 まだ見回して、鼻をひくひくさせたりしている。

 本当に子どものような、好奇心に溢れた表情だ。


「いい匂いがしている」

「ああ、夕食の支度の途中でした」

「お前が作っているのか」

「はあ。おかげさまで、すっかり慣れました」

「たいしたものだ」


 まだ、鼻ひくひくを続けている。

 普通なら他人の家に来て失礼な、という態度なのだろうけど、妙に微笑ましく見えてしまう。このあたり、ぼくもどこか毒されてきているのかも知れない。


「先生も一人暮し? 自炊なんですか」

「う……」

 

 見回していた顔が、びくりと止まった。どうも都合悪い質問だったらしい。


「う――いや、たまには、な」

「一人、なんですか」

「それは――うむ」

「じゃあ、自分で作らないといけない」

「それは、あれだ。現代社会はなかなか便利にできているからな。コンビニもあるし」

「まあ、そうですね」

「それに、こないだの日曜はスーパーマルマルの特売でな。甘口カレーが七十五円お一人六袋限定というのを二回行って買いだめしてきたから、しばらくは困らない」

「レトルトカレーですか」


 甘口限定というのも、妙に納得できすぎて怖い。

 特売は中辛と辛口も同じ値段だったはずだ。


「うむ。あれはなかなか食える」

「特売品になっているやつは、ほとんど具も入っていないんじゃないですかね」

「あ――いや、うん」

「栄養足りないと思いますよ。大きくなれませんよ」


「う――」

 丸い目が、強ばったように見開かれた。

「それは……困る」


「ちゃんと、栄養バランスを考えないと」


「しかたないだろう」

 丸い頬が、ふくれた。

「仕事が忙しいのだ」


 聞いている限り、それとは別次元の問題という気がするのだけれど。


 ――って、ここまでの会話、これじゃまるで教師と生徒が逆じゃないか。

 しかもぼくの台詞、まるで所帯じみたおばちゃんだ。

 自省して、終わりにしたいところなのだけれど。


 向かいのオトナはすっかりすねた子どもみたいに口を尖らせて、こちらに気づかれないように配慮しながららしく、鼻くんくんを続けている。

 何だか放っておけない気分になってきたのは、中学生としてぼく、おかしいのだろうか。


 小さく息をついて、ぼくは向かいを覗いた。


「ついでだから先生、夕食一緒に食べていきます?」

「は?」


 目がますます丸く、口元が緩みかけた。


「いや、しかし――それは、まずい、悪い――」

「量はたくさんあるから、問題ないんですけどね。粗末なものでよければ」

「うん、いや――いや、しかし、そういうわけには」

「うちの父も、一度担任とお話ししたいと言っていますし」

「う、あ、や――そう、なのか?」

「はい」


 目の前の童顔が、きょときょと嬉しさと困惑の往復をくり返して、いる。

 何となく面白くなってきて、しばらくぼくは黙って観察を続けた。

 見るからに、もう一押し、勧めてくれるのを待っているような態度だ。


「あ、や、しかし――担任としてはだ――いや、どうし――」


 発言がわけ分からなく、ますます面白くなってきた。

 と思っているうち、玄関ががちゃりと開く音がした。


「お帰り」

「おう、ただいま」


 すぐに居間へ入ってきた父に、ぴょこんと立ち上がったモモちゃんは大きく頭を下げた。


「これは、お邪魔しています」


 面食らって、親父は一瞬硬直していた。

 無理もない。息子が突如妙な子どもを連れ込んだかと思ったのだろう。


「あ、担任の桜井先生」


 ぼくが紹介すると、目を丸くしていた親父は、すぐに愛想のいい笑顔になった。


「ああ、これはこれは。息子がお世話になっています。今日は、家庭訪問でしたか」

「いや、その――そんなもので――突然で恐縮です」

「いや、いつでも歓迎です。こんな汚い家ですが」

「こんな時間だから先生を夕食に招待したんだけど、よかったかな」


 ぼくが断りを入れると、父は笑ってうなずいた。


「おう、当然だ。先生、どうかゆっくりしていってください」

「あ、はあ――では、その――お言葉に甘えて……」


 ちらと横目でぼくを見て、先生はもう一度頭を下げた。


 ぼくがキッチンで仕上げをしている間、着替えてきた父と先生は本当に家庭訪問らしい会話をしていた。


「いや彼は、学校に慣れるには問題ないと思います。級友ともすぐに打ち解けて、むしろ転校生の初々しさに欠けて見えるくらいで」


 遠慮なく言ってくれてるなあ。


「はは、転校が多いものだから、それだけが取り柄みたいなもので」

「いや何につけ、経験を積んで慣れているということはいいことです」


 意外なくらい、ちゃんと社交辞令している。


「こないだもちょうど私と一緒に居合わせて、生徒が万引犯扱いされるところ、疑いを晴らす協力をしてくれまして。大いに助かりました」

「おや、そんなことがありましたか」


 考えてみるとあの件、親父に話していなかったな。あの日は突然帰りが遅くなったから。


 父の方も、初見ではモモちゃんの童顔に驚いただろうに、直後からそんなことおくびにも出さずしっかり教師として扱って、それこそ大人の対応になっている。

 社会人というのはたいしたものだと思ってしまう。


 その後も話が弾んでいる二人に、ぼくは声をかけた。


「飯できたけど、出してもいい?」


「おお」

 笑顔を振り向けて、親父が声を上げた。

「せっかくだから冷めないうちに、だな。先生も、食べながらお話でいいですよね」

「ああ、はい。まったく構わないであります」


 急にしゃべり方が少々奇妙になって、モモちゃんは目を輝かせた。

 何かまるで、マンガなら瞳がハート形になっていそうな表情だ。


 あまり期待されても困ると、ぼくはちょっと閉口しながら食器を運んだ。

 筑前煮に焼き魚、味噌汁、というあまりに質素な献立なのだ。


 しかし。


「う――うま、おいしい――」


 煮物を一口して、モモちゃんは目をアーチ状の糸にしてしまった。

 その端に、涙までにじみ出している。


「すばらしい、うう……」


 声まで、涙ぐみ始めている。


「いや、はあ――」


 さすがに親父も驚いて、箸を止めていた。


「いやそんな、大げさなものでもないと思いますが」


「いや」

 モモちゃんは口を一文字にして言い張った。

「これは、すばらしいです」


「一食の恩義くらいで、そんな大げさにおだてなくていいですよ」


 ぼくは目をぱちくりさせて、断りを入れた。


「失礼な」

 ちょっとだけ、モモちゃんは口を尖らせた。

「私がお世辞など言うか。はばかりながら、そんな世渡り慣れしておらんわ」


 何となく、説得力。


「この料理、掛け値なくうまいのだ、私の口には」


「すると――」

 ぼくはちょっと考えた。

「それほど先生、家庭料理から遠ざかっていたとか」


 ぎく、と言わんばかりに、モモちゃんの視線が上向きに泳いだ。


「いやなんだ、そんなことはともかく、たいへんな料理の腕前なのだ、うん」


 言いながら箸は止まらないのだから、確かにまんざらお世辞だけではないらしい。


「これは父上殿、息子さんに料理の道を歩ませてもいいのでは」

「はあ――いや、まあ」


 親父も、返答に困っている。


 ぼくとしても、こんな手抜き料理一つで一生を決められても、困る。


 そのままうまいうまいを連呼して、担任教師は勢いよく食事を続けた。

 とはいっても口も胃袋も小さいらしく、こちらの男連中より早く食べ終わるわけでもなく、お代わりを要求するでもなかった。

 要求されてももうないのだから、そこは正直助かった。


 それでも食事中にも会話は弾んで、


「いやそうでしたか、先生は上の部屋だったんですか。奇偶ですなあ」


 ますますPTAの絆は深まっていた。


 考えてみるとうちの親父は、見た目可愛いものと面白いものが大好きなのだ。


「いやあ、一人暮しでも仕事が忙しくてなかなか家のことができぬのです。恥ずかしながら」

「分かります分かります、私も独身の時はそうでした」


 親父のあの家事の腕なら、しない方がましの部分もあるだろうなあ。食器を洗いながら、ぼくは密かに思った。

 まあおかげで息子は好き嫌いもなく、たいていのことには動じない精神力を獲得できたという功績もあるが。


 まさか、モモちゃんの料理も親父と同程度などということはないだろうな。

 ふと恐ろしい想像が頭をよぎって、ぼくはあわてて打ち消した。

 考えないようにしよう。


「何にせよ仕事と家のことを両立はたいへんなのに、先生は教師なんていう重い仕事を抱えてまだ日が浅いんですものねえ。当面は仕事の方に傾注して当然です」

「分かってくださるか、父上殿」


 食後のお茶を飲みながら、すっかり意気投合している。


「しかしそれで食生活をおろそかにして身体を壊しては先生、元も子もありませんよ」

「はあ、面目ない」

「それくらいならいっそどうです、毎日食事をここでとっては。天井隔てたお隣さんということなら、たいした面倒もない」

「おお」

「作る方は二人分でも三人分でも手間のちがいはない。材料費だけ入れていただければ、何の問題もありませんよ」

「いや、その――魅力的なお申し出ではあり、ますが――いや、はや、いや――」


 さっきと同様、と言うかそれ以上に、しどろもどろになろうとしている。

 少し分かってきたけど、モモちゃん、ほとんど誘惑に負けかけてるけどわずかに最後のプライドに押し留められている、といった状態だ。


「いやいや、無理にとは言えませんが、私も先生とご一緒していると楽しいし、男二人の味気ない家に、花が咲いたようだ」

「いやいやそんな、過分なお言葉を」


 あのモモちゃんに自分のペースを作らせない親父も、なかなかのものとは言えるが。

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