5-2 モモちゃんの食生活 2

 笑いかけて、不自然にならないように気をつけながらぼくはバックネット側へ回った。

 目で追う三人は、小山の方に背を向けることになる。

 中央が大海という名前だと聞いているが、両側のノッポと小太りの二人は考えてみると名前も知らない。


「昨日偶然あそこのコンビニのところ通ったんだけど、ひどい目に遭ってなかった?」


 あ、と三人は一様に顔をしかめた。


「ひどいよね、あれ。知ってる相手なの?」


「知るか」

 小太りが、吐き捨てた。

「キ○ガイホームレスだろ」


「追っかけてたみたいだったけど、捕まえられなかったんだ?」


「おお」

 いかにも忌々しそうに、小太りはうなずいた。

「逃げ足の速いオヤジだ」


「災難だったよね」


 ぼくは同情の顔を作って大きくうなずいた。

 小山の向こうに女の子二人が遠ざかっていくのを、目の端にとらえながら。


「あれ何? 生玉子だったのかな」


「おう」

 大海がうなずいた。

「それも腐ってるやつだ。あのキチガイ」


「本当、災難だったね」


「あのオヤジ、今度見たらただじゃおかねえ」

 ノッポがうめいた。


「この辺って」

 彼らの背後遠く、女の子の姿が小さくなったのに安堵しながら、続けた。

「あんな変質者みたいなの多いの? ぼくも気をつけた方がいいかな」


「そうめったにはいないだろ、あんなの」

 大海が口を尖らせて言った。

 「たぶん、あの茶色の服のオヤジだけだ」


「何か理由があるのかな、その茶服のオヤジが凶暴になるの」


 三人はちらっと顔を見合わせた。


「知らねえよ」

 小太りが語気を荒げた。

「キ○ガイの理由なんて知るかよ」


「そうなんだ」

 ぼくは落ち着いてうなずいた。

「それじゃとにかく、その茶服のオヤジに気をつければいいんだね。教えてくれてありがとう」


「お、おう」


「じゃ、邪魔しちゃったね。失礼」


 笑顔で手を振って、ぼくはそこを離れた。

 三人はまた顔を見合わせて、変な奴だと言いたそうな様子だったけど、それ以上呼び止めもなかった。


 分かったのは、茶服の人が昨日はあの三人に捕まらなかったこと。あとは、三人は隠そうとしているようだけど、やはり彼らとの間に以前何かあったらしいということか。


 決して関わりになりたくはないのだけれど、何故かいざこざのところに居合わせてしまう。

 こちらも近づかない方がいいと第六感に囁かれながら、何となく気になってしまうのだ。

 やっぱりこれ以上は関わらないようにしよう、と強く心を決めて、ぼくはスーパーに買い物に寄って家に帰った。



 筑前煮の煮込みを済ませて、部屋の暑さに我慢できなくなった。

 煮物は少し冷ますように置いておいた方が、味の染み込みがよくなるらしい。

 あとは家の中で無駄に冷房を強くしているよりはと、日が暮れかけている外に散歩に出た。

 アパートの周辺をのんびり一巡り。そうしている間にも見る見る陽は落ちて、夕風が暑気を払い始める。

 勤め帰りの人たちが家路を急ぐ姿の目立つ道を、ぼくはゆっくり元来た方へ戻り出した。

 うちの父親も、もうすぐ帰ってくる頃だ。


 見慣れてきたアパートのエントランスをくぐって、階段に足をかける。

 と、後ろから喚声とともに、小さな固まりがぼくの横を追い抜いて駆け上がっていった。

 小学校低学年くらいの、男の子二人連れだ。

 危なくこちらも段を踏み外しそうになったけれど、何だか怒る気にもなれない。


 きゃきゃきゃと声けたたましく、足音高く、二階を回ってさらに上がっていくようだ。

 ちょうどその上の踊り場だろうタイミングで、


「わあ」


 若い女性らしい、驚きの声が上がった。きゃきゃとさらに子どもの声が高まった。


「ごめんねえ、お姉ちゃん」

「こら、気をつけて上がらないと危ないよ」

「はあい」


 笑い混じりの注意にめげる様子なく、さらに喚声は上へ遠のいていった。


 ぼくもちょうど二階を回ったところで、踊り場に立つ女性の姿が目に入った。

 子どもたちの後ろ姿を遠く見上げ、見送って。


 数呼吸ほどの間を置いて。

 大人びていた笑顔がいきなり歪んだ。

 中腰に屈んで、半べそ顔に。スカートから覗いた膝がすりむけて、血がにじんでいるのだった。


「うう……」


 スーツ姿に似合わない、泣きべそ顔に崩れかけ、ちらと視線がこちらを向いた。


「な――」

「わ」


 驚きの声が両方から出た。

 身を隠す暇もなく、丸く見開いた大きな目と、正面に向き合ってしまっていた。


「な、何だ、貴様――」

「先生、何で――」


 目の前にうずくまっているのは紛れもなく、教室以外では会わないように避けていた小柄な担任の姿だった。


「またもこんなタイミングに現れおって。まさか貴様、ストーカーか?」

「まさかあ」


 どんな輩であれ、この人をストーカーして何の得がある?

 辛うじて頭に浮かんだのは、幼児誘拐、という単語だった。

 まあ、親が金持ちであれば、という条件つきだけど。


「ならば何故こんなアパートの中まで侵入する? わけを述べよ。尋常に応えねば、ただではおかぬぞ」

「いや、ぼくの家、ここですから」

「何だと?」

「ここの三〇三号室です」

「なんと」


 いつ見ても身体のサイズに比べて大き過ぎるのではないかと思える両目が、ますます丸く見開かれていた。


 目玉、落っこちるんじゃないか?


 と、現実逃避気味にやや関係ないことを考えながら。遅ればせに、ぼくの頭にも悪い予感が浮き上がってきた。

 その可能性、今まで考えてもいなかったよな。


 どう見ても目の前の教師の様子は、生徒の家庭訪問に来たというようではない。


「まさかとは思いますが――」

 ぼくは天井を見上げて、観念の問いを口にした。

「先生のお住まいって――」


「四〇三……」


 ほとんど聞きとれない小声が、横を向いた口からこぼれ出た。


 よりにもよって、真上かよ。


 誰に吐きかけていいか分からない呪詛を、ぼくは胸の内に呟いた。


「ぬぬぬ――」


 相手も憤懣やる方ないのは同じみたいだ、けど。

 それにしたって――こんな偶然、ありか?


「一応」

 わずかに不満の切り口を思いついて、ぼくは言った。

「ついこの間、ぼくの住所は書類で提出しているはずですけど」


「そんなもん」

 ぷうっと先生は頬をふくらませた。

「家庭訪問の時ででもなけりゃ、見るもんか、生徒の住所など」


 いや、細かい住所はともかく。転校生がどの辺に住んでいるのかというくらいには見るもんじゃないのか、普通担任としては。

 それで自分と同じアパート名がそこにあれば、いやでも気がつきそうなものだが。

 つまりこの先生、その程度にも転校生に関心がなかったってことですね。よーく分かりました。


 はあ、と思わず溜息。


 同じ高さまで上がったので、先生は歯を食いしばったみたいな顔でぼくをにらみ上げている。

 目の縁に涙をにじませているので、何だかこっちが小さな子どもをいじめて泣かせているみたいだ。

 涙は絶対、膝をすりむいたせいだと思うんだけど。


 ぼくの視線に気がついて、膝の痛みを思い出したみたいに、モモちゃんは情けない顔で身を屈め直した。


「うう……」

「大丈夫ですか?」

「バカにするな、平気だ」


 とは言いながら、目の端に涙がこぼれかかっているんですけど。


「ちゃんと消毒しないと、擦り傷はすぐ化膿しますよ」


 何だか場が持たない気分で、言わでものことを口にしていた。


「う――」


 じろ、と横目でにらみ返して。何だか口の中で呟いたような。


「え?」

「……ない」

「何ですか?」

「薬……ない」

「お宅に、救急箱とかないんですか?」


 こっくり、大きくうなずいた。

 必死に強がるみたいなその仕草を見ると、本当に年下みたいに思えてしまう。

 今さら、だけど。


 理由もなく。ぼくが運命を受け入れるみたいな気分になったのは、その瞬間だった、ようだ。


 大きな溜息を、必死に呑み込んで。


 数分後、ぼくは担任教師を自宅に招き入れていた。

 とにかく擦り傷には早期に水洗いが一番と聞いていたので、風呂場に誘導して患部を洗うように言った。

 自分は居間でパソコンを開いて、治療方法を検索してみた。


「深い傷や異物混入がなければ水洗いだけで十分、消毒薬は使わない方がいいんだそうです」


 風呂場から出てきた教師に、そう告げた。


「染みる消毒はしなくていいんだな」


 妙に明るい顔で、モモちゃんは声を返した。

 とにかく痛いのが嫌なんだろう。


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