4-3 モモちゃん伝説の裏 3
「む――サンキュ――」
少しうなりの薄まった相手の声は、どこか聴き覚えがある気もする。
「ガキが」
ぼやきながら、宮緒先生は椅子にかけたようだ。
「性こりもなく盗み食いしやがって」
「何のことやら」
絶対聴き覚えあるけど――ぼくの頭はかたくなに断定を拒否していた。
いっそまた眠り直したい、のだけど。
「鍵の番号、変えたんだけどな」
「ふん」
盗人が威張ってるらしいぞ。
「そんなもの、我の敵ではない」
鍵の番号――ああ、卓上金庫か。
しかし、金庫で盗み食い?
ふうう、と溜息の音。
あの養護教諭を疲れさせる相手、只者ではない。
「いい加減にしないと、そのうち私も黙っていないぞ」
「む――我を脅迫する気か」
「どのネタを使わせてもらうかな」
「勝手にしろ、我に弱みなどない」
「―――」
「―――」
「―――」
「……あれだけはやめろよ」
「あれとは?」
「ハリーちゃんに決まってる」
こんな時たいてい、自分から言い出した方が負けと決まってるよなあ。
「そうか、あれはいいよな。貴様の唯一好意的な評判を崩せる」
「待て。あれは腹立たしすぎる」
「そうなのか?」
「あまりに苦労多くて、功は少なかった」
「―――」
「ロッカーに隠れてまで追求したのに、ハリーちゃんの奪還は果たせなかった。思い出しても腹立たしい」
ロッカー――どこかで聞いたような。
「まあ、ほめられたものではないが、評判は勝ち取ったではないか」
「そんなものが代えられるか。ハリーちゃんは戻らなかったのだぞ。あの同等品を見つけるのに、あの後どれほど苦労したことか」
長々と、溜息。
一方は、沈黙。
「それにしてもお前」
やや間を置いて、養護教諭の声が戻った。
「前に注意したことを覚えていないか」
「何のことだ」
「この部屋に入る時は、まずそこの利用者名簿に気をつけろ」
「ん?」
「それから、そこのカーテンは何のためにあると思ってる」
ようやくこちらに注意が向いた、気配。
しかし。すぐに、ふん、と鼻音が返った。
「貴様のこけおどしなど、もう慣れたわい」
「おどしだと、思うか?」
「―――」
「―――」
長い、沈黙。
やがて、かさと何かの動く気配がして。
目の前のカーテンの合わせ目が、わずかに開かれた。
覗いた大きな黒い目と、正面に向き合った。
「………」
「………」
無言でまた、合わせ目が閉じ。
「何もいないではないか」
現実否定?
自分の都合の悪いものはなかったことにする性格か、あの教師は。
「時に、養護教諭」
「何だ、英語教諭」
「あくまで一般論だが」
「うむ」
「人間というものは、どのくらいのショックで記憶をなくすことがある?」
物騒なこと言ってるぞ。
「うむ」
もったいぶった、応え。
「残念ながら、一概には言えないな。そんなところに確実性を発見できたら、こんなところで養護教諭などやっていない」
「なるほど」小さな溜息。「実際に確かめてみるしかないか」
「そういうことだ」
止めろよ、あんたも。
かさかさと、小さな足音が歩き回る。
溜息をついて、ぼくは隣のベッドに手を伸ばした。
やがて、しばらくの間を置いて。
いきなり、カーテンが大きく開いた。
「やあ!」
振り下ろされる攻撃を、ぼくは両手でかかげた枕で受け止めた。
ぽすん。
肩すかしなほど、軽い衝撃。
「え?」
「ぬ――」
うなる攻撃者が手に持つ武器を、ぼくは片手を伸ばして握りとった。
「何ですか、これは」
どう見ても、何かポスターを丸めた筒だ。
「こら、放せ」
小さな担任の握力は思った以上に弱く、軽々とその手から筒は離れた。
「これで殴って記憶を奪おうと?」
あきれて見返した先で、担任教師は口を尖らしている。
「いくら何でも、無理じゃないですか?」
「ふん」
ふてくされた顔で、桜井先生はもと座っていたらしい椅子に戻った。
「あまり固いもので殴って命まで奪うことになったら、目覚めが悪いではないか」
あくまで自分の都合優先らしい、この人。
「しかしそれでは実験にならないぞ」
机に向かっていた養護教諭が、こちらを見ないで言った。
「せっかく実験データが増えると思ったのに」
「止めるという発想はないんですか?」
溜息まじりにぼくは問い返した。
「まあなあ、面倒くさい」
開いたままの金庫から、宮緒先生はクッキーらしい小袋を出して開いている。
「こいつの腕力じゃそんな重いものは持てないし。中学の男子でこいつの攻撃を防げないくらいなら、社会に出てもものの役に立たないぞ、まちがいなく」
「何かのまちがいということもあるでしようが」
ぼくはもう一度溜息をついた。
「だいたいこちらが頭の怪我を心配されていること、覚えていないんですか」
「おお」
養護教諭は、クッキーを口に入れてから両手を打ち合わせた。
「そう言えば、そうだったな。どうだ、頭の調子は」
「――もう、いいです……」
疲れを覚えながら、室内を見回し直す。
宮緒先生の前の開いた金庫の中は、華やかな菓子のパッケージばかりが見えていた。
もともとそういう用途のものなのだろうか。
いきなり小さな教師の手が横から伸びて、そこから一袋取り出した。
ふてくされた顔のまま、薄焼きせんべいを出してかじり始めている。
壁の時計を見ると、もう放課後の時間だ。
「桜井先生は」
ぼくは思い出して訊いた。
「ぼくが保健室にいるって、聞いてなかったんですか」
「おお」
担任教師も、せんべいを口にくわえて両手を打ち合わせた。
「そう言えば、誰か言っていた気もするな。どうだ、具合は」
泣いていいかな、ぼく。
こうなったら。
意地でも疑問点だけは解明していこうという気になってきた。
「さっき聞こえてきたんですけど」
間食中の教師二人を、ぼくは見回した。
「何ですか、ハリーちゃんって」
「聞いていたなら分からんか、貴様」
もぐもぐ口を動かしながら、担任が言った。
「そんなこと、人に知られる危険を冒すわけがないだろうが」
当然、黙秘らしい。
「まあ、分かることからいくと、あれですよね、ハリーちゃんって。小学生に人気の、小物によく使われるキャラクター」
「………」
「ロッカーに隠れてって、聞いたことがあります。モモちゃん先生の伝説のいじめ解決の一幕」
「………」
「その時に、ハリーちゃん奪還の意図があったと、こういうわけですね」
「………」
「そこに盗難事件が絡んでいたとは聞いていませんので、その前提で考えて、ハリーちゃん絡みのものが先生の手を離れて生徒から取り返す必要、しかも物かげに隠れて、というと――」
「………」
「完全な想像ですが、いじめ問題というと、よく被害者の持ち物が隠されるということがあります。例えば、被害者が筆記用具を持っていないことに気がついて、先生が授業中に貸してあげた」
ぐ、と妙なくぐもった声がした。
「しかし被害者はそれまで隠されてしまって、先生に返すことができなかった。もちろんいじめの事実は打ち明けられず、何かわけの分からない言い訳だけをする」
「………」
「業を煮やした先生は、それを取り返すために問題の教室のロッカーに隠れて様子を探ったと」
「………」
「ブツは、シャープペンシルあたりですか?」
「ただのシャープではない」
教師は、口を尖らせた。
「貴重な、レア物だったのだ」
「白状してるぞ、お前」
宮緒先生が、声をかけた。
「ぬ、ぬかった」
モモちゃんは、ぼくをにらみつけてきた。
「おのれ、誘導尋問しおって」
そんな高等テクニック、したつもりはない。
「つまり、シャープペンシルを取り返すのが主目的だったと?」
「主というか」
宮緒先生が首を回しながら言った。
「ほぼそれが唯一すべての目的だ」
「そうなんですか?」
「何しろ生徒に伝わる美談ではこいつ、そこで加害者に説教したことになっているが。実際にはただただ、シャープを返せということだけくり返していたらしい。後ろ暗いところがある生徒が勝手にそれを、いじめ行為すべてについて責めているように聞いただけだ」
「はあ――」
「それをまた家に帰って過剰に母親に伝えたから、ますますややこしいことになったわけだ」
「あのドクサレ母親がややこしいことするから」
モモちゃんは、怒りを蘇らせたように頬をふくらませた。
「結局大騒ぎになって、どさくさでハリーちゃんを取り戻すことができなくなったではないか」
「そういう――ことなんですか」
ドクサレって――教師の台詞とは思えない、し――どこかでも聞いたよな。
一見清純少女風成人の口から聞いても違和感があるが、正真正銘少女の場合はさらに不似合いだ。
姪の口癖の原因がこちらにあるとしたら、かなり責任重大ですよ、あなた。
「お前」
養護教諭がむこうを向いたまま、溜息をついた。
「また、言わんでもいいことまで白状しているぞ」
「ぬ、ぬかった――」
「えーと」
とりあえずの疑問は解消したかな、とぼくは頭を整理した。
これ以上突っ込んでは訊かない方が、精神衛生上よさそうな予感がある。
「帰っていいですか、ぼく」
「おお」
宮緒先生はまだクッキーで口を動かしながらうなずいた。
「家へ帰ってとりあえず休め」
「はあ。じゃあ、失礼します」
保健室だと安心して休めないというのは、どういう仕組みなんだろう。
「覚えておけよ、口の軽い男は、長生きできんぞ」
担任がせんべいを片手に、低い声で威嚇してきた。わあ、怖い。
黙って頭を下げて、ぼくは退室した。
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