4-2 モモちゃん伝説の裏 2
「で、どうした? 外で気分が悪くなったって?」
「あ、はい。体育で、サッカーの試合の後で」
「ふむ」
面白くもなさそうに、うなずく。
「普通に考えたら、軽い熱中症といったところだろうが――」
眼鏡の奥の小さな目が、ぎろりと正面からぼくを見据えた。
「お前、怪我で始業式を休んだ間抜けな転校生だったよな」
まちがいはないけど――つくづく、転校生に優しさのない学校だ、と思う。
「はあ」
「どこかで頭を打った怪我、と言ってなかったか」
「そう言えば――自分でも忘れてました」
「アホか」
そこまで言い切らなくても。
「それが、一週間前か」
「そうなります」
「頭の刺激は、油断できない」
小さくうなずきながら、先生は続けた。
「一度受けた刺激の効果が、しばらくたってから出てくることがある」
「そう、なんですか」
「何しろ、脳というのはまだ分からないことだらけだからな。知っているか、人間の脳というのは、重さにして一五〇〇グラム弱程度、表面積は二千五百平方センチメートル程度だから新聞紙を広げたくらい。それでよく言われるように、豆腐のように柔らかい」
「ああ、本で読んだことがあります」
ぎろ、と小さい目がにらみ、一回それた。
ち、と舌打ちが聞こえた。
「中学生のくせに、つまらんことを知っている」
知っていちゃいけなかった、らしい。
「それでだな」
気を取り直したように、続けた。
「頭蓋骨とその下にある硬膜、クモ膜、軟膜と何重にもガードされているし、クモ膜と軟膜の間は脳脊髄液が満たされていて、そこに浮いた状態になっているから、外からのショックは吸収される仕組みになっている」
それも本で読んだ気もするけど、口に出すのはやめることにした。
それにしてもこの養護教諭の話、医学的というよりはどこかのトリビアネタっぽく聞こえるんだけど。
「一時期は、人間の脳は一割ほどしか有効に使われていない、という説が信じられていたこともあるが、最近では誤りとされている」
それも知ってる。
「で――」
ぎろりと、こちらの考えを見抜いたみたいに、もう一度にらみつけてきた。
「それでもやはり、脳に加わった刺激はどんな効果を及ぼすか分からんのだ」
あ、少し現実的になってきた。
「頭を打って数時間後に脳出血で命を落とすこともある。数週間たってから、頭痛やめまいが悪化する場合もある。これらもほとんど、原因や傾向さえ分かっていない」
ふむふむ。
「何もかも分からないことだらけでな。だから、何が起こっても不思議はない。小説やマンガによくあるような、記憶喪失や人格変異だって現実に十分起こりうる」
なるほど。
「頭を打ったのが原因でタイムスリップを起こしたり、エスパーに目覚めたりしても、驚くに値しない」
それは、驚くと思うぞ、普通。
「それにしても最近の小説やマンガ、あまりにタイムスリップネタが多すぎると思わんか?」
「は?」
「それもあまりに安易に起こるのばかりだし、そんな目に会った人間が妙に冷静で、例えば突然戦国時代に飛んでもすぐにそこに順応してしまったりしている。あり得んだろう。だいたい、食事作法やトイレ一つにしても、絶対現代とは想像を絶する違いがあるはずだぞ」
「はあ――」
「それに一番理解を超えているのは、別時代に飛んでしまった人間がみな揃いも揃って、自分はまた元の時代に戻れるんだと信じて疑わないことだ。まるで自分はフィクションの主人公だと自覚していて、必ずハッピーエンドが待っていると思い込んでいるような。一度入ったところは必ず出られると確信しているような。入ったら出られないような獣や魚用の罠の存在、こいつらは知らんのか。あれは、あれだな。精神が危機回避の必要から楽観的思考をさせるんだな」
理解を超えてると言いながら理由をつけちゃったよ、この人。
「そもそも、タイムスリップなどという言葉、みんな安易に使いすぎだ。あの単語、どこから来ているか、お前知っているか?」
「は?」
「もともと日本語にも英語にも、どこにもそんな単語ないぞ。どこかで誰かが使い始めた造語のはずだ。それが正確にどんな意味をさすかの確認もないままに、みんながいい加減に使い散らしている。こんなバカな話、ないと思わんか? たぶんスリップという言葉からして意図せず起きてしまった時間飛行をさすべきだと私は思うが、マスコミを中心にいい加減この上なく、大昔からある時間旅行に関するものを何でもこの言葉で呼んでいる場合がある。言葉の区別というものができんのか、奴らは。何でも流行りで使うことしかしないのか」
「はあ……」
「で、頭痛はあるか?」
「は?」
「分からんのか? 自分の頭のことだろうが」
「あ、はい、いえ――ないと思います、頭痛は」
「はっきりしない奴だな。男のくせに、情けない」
「はあ……」
もったいぶった顔で、先生は考え込むように腕組みをした。
もしかすると、一気に喋り続けて疲れたのかも知れない。
「ところで――」
おそるおそる、ぼくは訊ねた。
「ぼくの頭とタイムスリップが、関係あるんですか?」
「あるわけないだろう、アホ」
―――
ぼく、この人、苦手かもしんない。
「まあ――」
こほん、と小さく先生は咳払いをした。
「ここまで話題の変遷についてこれていることからすると、思考力に異状はなさそうだな」
今の話すべて、診断のためだったと? きっと、おそらく絶対、後つけの言い訳だ。
「まあ、軽い熱中症なら、この冷房の中でしばらく安静にしていればいいだろう。それでもめまいや吐き気が出るようなら、また考える」
「はい」
「ということで、そこのベッドでしばらく休んでいなさい」
「分かりました」
逆らわないことにして、ぼくはベッドに腰を下ろして上靴を脱いだ。
「眠ってもいいぞ、放課後になったら起こしてやる」
「ありがとうございます」
「私が部屋を空けることもあるが、そんな時何かあったらそこの枕元のボタンを押しなさい。職員室につながっている」
「分かりました」
「留守している時に、この辺のものを勝手にいじるなよ。ところによって毒針をしかけてあるから、命の保障はしないぞ」
「……肝に銘じます」
「うん。素直な生徒は好きだぞ」
まあ、卓上の金庫を始め書類や医療品を入れているらしいガラス戸の棚も、一通り鍵がかけられているらしく見える。
意外といっては失礼だけど室内はきちんと片づけられていて、命の危険を冒してまでいじりたくなるようなものは見当たらない。
心穏やかに落ち着けようと深呼吸して、ぼくはベッドに上がった。
「――しかし、養護の先生も、たいへんですよね」
「ん? 何がだ」
「ずっとこの部屋に一人でいると、話す相手がいなくてストレスが溜まったり」
じろ、と眼鏡の目が横にらみしてきた。
そして一呼吸置いて、に、と唇の端が上がった。
分かってるじゃないか、とでも言いたげに。
「そこのカーテン閉めて、安静にしていろ」
「はい、分かりました」
手を伸ばして白い布を引くと、あたりが柔らかに落ち着いた光に包まれた。
心身共に、疲労が溜まっていたようだ(心の方の大半は、この部屋に来てからのもののような気もするが)。
昼食後という好条件も加わって、睡魔を抑える気力は持ちようもなかった。
日頃願ってもなかなか果たせない明るい中のまどろみに、すぐにぼくは引き込まれていった。
頭の中をくすぐるような、白い光の揺らめき。
かさかさと、そよ風が囁くみたいな――。
いや、小動物が隠れ隠れ移動するような。
かさかさかさと、小刻みな足音。
きりきりと、小さな金属音。
一拍置いて、かちゃと何か外れたみたいな。
そのあたりで、ゆっくりぼくは意識をうつつに集めていた。
何だ? 泥棒? とっさに思ったのはそんな認識だった。
しかし。
カーテンの向こうに聞こえるのは、かすかな鼻唄だった。
妙に調子外れな。泥棒にしては、あまりに暢気な。その合間に、かさかさと紙か何かの擦れる音。
声を出そうか、起き上がって威嚇に出ようか、しばらくぼくは考えた。
本当に泥棒なら怖いけど、あまり脅威はうかがえない、気もする。
しかし、すぐに次の展開があった。
「何をしている」
低い声は、宮緒先生だ。
外出から戻ったところみたいだけど、また戸の開く音しなかったような。
「む――ぐぐ――」
先にいた闖入者は、奇妙な声をもらした。
「何をしているかと訊いている」
「ま、待て――ぐぐ――み、水――」
「ミミズが好物か?」
どこかで聞いたギャグだ。
しかし、すぐに奥の水道で水音がして、
「ほら」
水を汲んでやったらしい。意外と親切だ。
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