3-2 モモちゃん第一の伝説 2

「モモちゃん、ついに泣き出した。びいいーーって」

「は?」

「その泣き声、実に一里四方に響き渡ったという」


 効果を狙って、言葉が切られた。

 ふう、とぼくは息をついた。


「冗談――だよね?」


「一里四方、というのはね」

 真倉さんは笑った。

「それでも、冗談にしきれないくらい響き渡ったのは確かなの。あたしだって、一階にいたのにその三階の声を聞いたくらいだもの。放課後でみんなさまざまなところにいたのに、きっとこのクラスでも半分の人は聞いたって言うと思うよ。まあ、後つけで聞いた気になっちゃってるのもいるかも知れないけど」


「それにしても――すごいね。で? 他の先生が駆けつけた?」


「先生が駆けつけたんなら、さっき言った敗因にならないよ」

 戸野部さんが苦笑した。


「じゃあ?」


「先に、生徒ががやがやと駆けつけた」

 真倉さんが続けた。

「その中に当時の生徒会長(女)がいて、これが気が強い、弁の立つ人でね。先生泣かすとは何事か、生徒の迷惑考えろ、とその母親に詰め寄った」


「はあ……」


「こないだ言った、モモちゃんの授業ボイコット事件がその少し前のことでね。その時も言ったでしょ、三年生としては授業の遅れは絶対阻止、というのが共通認識だったの。文句があるならこんな密室でやるな、生徒総会で取り上げて問題のクラス全員から証言をとる、いいか、と」

「わあ……」

「それでその母親、何も言えなくなっちゃった」


「そこが敗因ってわけ」

 戸野部さんが補足した。

「母親としては、教師を言い負かす心積もりはしてきていたけど、生徒総会という言葉に対処は思いつかなかった」


「教師相手だと証言しない生徒も、先輩相手だと拒みきれないかも知れないしね」

 ぼくもうなずいた。


「うん、だから」

 戸野部さんが薄く笑った。

「その母親、モモちゃんと他の先生を一緒にして詰め寄った方がまだよかったんだ。なまじ一人にしたから、泣かせてしまった」


 教師を泣かせたのが敗因なんて、聞いたこともない。


「以上が、東江中学の一大伝説ね」

 に、と真倉さんが笑った。


「確かに」

 ぼくは、額を押さえてうなった。

「規格外だね、あの人」


 話を聞けば聞くほど、理解を超えていく印象だ。

 できれば、これ以上あまりお近づきになりたくない気がしてきてしまう。


 しかし何というか、クラス担任だということを除いても、こちらへ転居して以来妙にあの人と関わりが多い気がするのだが。


 転居翌日に会ったあの公園の女の子の正体はまだ確定していないけれど、無関係ではないらしいのでそれも数えると、四日間で学校以外であの人と関わったのが三回、校内で転倒場面に遭遇したのが一回。

 偶然と片づけるには少しばかり頻度が高いと思う。

 もしかすると、お祓いでもしてもらった方がいいのかも知れない。

 それでなくても、できるだけ遭遇を避ける配慮を欠かさない方が賢明と言えそうだ。

 昨日みたいな事件めいた状況に巻き込まれるの、そうそう面白がってばかりもいられない。


 そう言えば。昨日の件、まだ疑問が残っていた。


 いつの間にかそばに笹生が立っていたので、訊いてみた。


「笹生さ、昨日の件は結構くわしく聞いてるって言ったよね」


「ああ」

 人のいい顔が、うなずいた。

「仲尾から聞いた限りでね」


「一つ疑問があったんだけどね。仲尾君の災難を目撃した時、ぼくは別に関係ないと思うんだけど、近くにいたというだけでモモちゃんに引っ張っていかれた。何のためだったと思う?」


「へえー」

 笹生は、面白そうに首を傾げた。

「そうだねえ――」


 戸野部さんと真倉さんも、同じように首を傾げていた。


「あれかな」

 すぐに笹生が、肩をすくめて言った。

「モモちゃん校外だと、なかなかその辺の人に先生だと信じてもらえないことがあるみたいだから」


「ああ」

 真倉さんがうなずいた。

「一人でも生徒がくっついてれば、少しはそれらしく見えるものね」


「単にそれだけの飾り? 付属品?」

 ぼくは、顔をしかめた。


「簡単に言えば、そんなものじゃないかと」

 笹生が苦笑した。


「あり得るな」

 戸野部さんも腕組みをしてうなずいた。

「人を人として見ないことあるからね、あやつは」


「りゃりゃ――」


 聞かない方が、よかったかもしれない。

 ぼくは、机の上に脱力してうなだれた。


 こうしてぼくは、かの人と関わりを持つのは極力避けようと意を強くした、わけだけど。

 やっぱり、何かの意志が働いているのかも知れない。

 天はなかなかぼくの希望を通してくれないらしかった。



 それでも数日は何事もなく過ぎて、週明けだった。


 転校一週間近くなってもまだ新しい校舎に慣れきらず、放課後などぼくはぶらぶらと校内を歩き回っていた。

 同じ場所を歩いていても、新しい小さな発見があったりして飽きなかった。


 第二棟の校舎は一年の教室と特別教室、放送室や生徒会室などが並んでいる。

 その二階へ下りた階段のところで、さらに下りるか廊下を進むか、ぼくは立ち止まって思案した。

 それがいけなかったらしい。


「わ、わ、きゃ、あ――」


 細高い声とともに、ぼくの肩に軽い衝撃があった。

 ばさばさと目の前に紙束が崩れ散ってきた。

 え?


「わ、ひゃ――すみません――」


 小柄な女の子がぼくの脇から前方へ、たたらを踏んで現れた。

 両手に抱えた紙の束をまき散らしながら。


 ぼくが変なところに立ち止まっていたのが、障害になったらしい。


「あ、ごめんなさい」


 ぼくもあわてて、手を伸ばしてその紙束の崩れをささえた。

 しかしすでに遅く、大半がもう床の上に舞い落ちていた。

 女の子はしゃがみ込んで手に持った山の崩壊を押さえている。そちらの落ち着きを確かめて、ぼくは床に散った紙を追いかけた。

 生徒会関係のプリントらしい。


 拾い集めながら、不意に不穏なイメージが頭をかすめた。


 小柄な女の子?


 嫌な予感に背中をひやりとさせながら、そっと横目でうかがう。

 しかし幸いに、しゃがんであたふたと紙の山をなだめている姿は、まちがいなく生徒の制服だった。

 さすがに、ここまで不運な関わりはつきまとってこなかったようだ。


 結構広く散らばった書類を、ぼくは手早く集めて回った。


「すみませんすみません、前をよく見てなくて」


 頭を下げる女子に、


「いやこっちこそ、変なところに立っていてごめんなさい」


 ぼくも謝りながら、拾った紙束を差し出した。


「どうもすみません」


 抱えた山に紙を上乗せ。その向こうに下げていた頭が持ち上がり。


 ぼくは一瞬、声を失った。


 何というか、危機を脱したと安心した瞬間それがまた襲ってくるという、ホラーの演出に会った、みたいな。


 目の前にあったのは、あの担任教師の顔だった。


 目を丸くするぼくに、きょとんと当惑の目が覗き上げた。


「え、あの――どうかしました?」


 それで、ようやく理解した。

 これは、あの人じゃない。そっくりな顔が存在すると、本人も言っていたじゃないか。

 姪、だったな。

 改めて見ると先生と違って髪は黒く、少し長めだ。


「あ、いや、何でもない」


 視線をそらすついでに、相手の学年章を確認した。

 二年生だ。


「本当にごめんなさい。こんなに運ぶの大変だね。一人で運んでいるの?」


「ああ、はい」

 担任にそっくりな顔が、にっこり笑った。

「いえ、慣れているのです」


 しかしまだ床に置いている山の方が量が多く、その手の上にさらに積み上げると、確実に前が見えない高さになる。

 今の事故は、ぼくの不注意と同時にまちがいなくそれが原因だろう。


「どこまで運ぶの?」


 向きを変えて、ぼくは床に積んだ山を整えた。


「あ、生徒会室、です」


 確か、この階だ。


「手伝うよ」


 言って、ぼくは床の山を抱え上げた。


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