2-3 モモちゃん生徒の味方 3
次の日も、授業に関しては何事もなし。
桜井先生の時間だけは、前日と同様に異様な緊張が続いていた。
この日は外からの観察の気配もなく、黒板下部に小さな字だけが書き並べられていた。
それでもやっぱりためになる気がする。
前の学校でも一度習った内容だけど、校外模試あたりで出題された時は、こちらのまとめの方が役に立つ感じだ。
授業の後、笹生にそんな話をすると、うんうんと同意のうなずきをしていた。
昼休みは、昨日のような質問攻めも疲れたので、笹生に案内してもらって校内を少し歩き回った。
渡り廊下を抜けた別棟にある特別教室の並びを教えてもらい、戻ってきた。階段を降りた、時だ。
「ふぎゃ」
妙な声と、ぱしゃりと小気味のいい音声がどこからか聞こえた。
周りを歩いていた生徒たちの話し声が、一瞬にして消えた。
隣の級友と顔を見合わせて、おそるおそる振り返る。
背後だった方向で、廊下の両脇に人影が分かれていくところだった。
まるで、聖人の前に海が割れるみたいに。
しかしその中央に見えたのは、海中の道ではなく――。
小さなスーツ姿が、両手万歳の俯せの格好に寝そべっていた。
こんなところで行き倒れか?
一瞬思って、すぐにぼくは自分の考えを打ち消した。
もちろん、つまずいたか滑ったかで転んだ図だ。
べったりと潰れたカエルみたいな、妙にユーモラスな。
それにしてもあんな小柄なスーツ姿、心当たりは一つしかない。
――我が担任だ。
それにしては。教師が倒れたところだというのに、誰も助け起こしに行く者はいないようだった。
わずかに不思議に思いながら、ほとんど考える余裕もなく、ぼくはそこへ駆け寄っていた。
「大丈夫ですか、先生」
よく磨かれた床の面に、顔が密着して。短い栗色の髪がぷると震え。
「ぶ――ふ」
くぐもった、低い声がもれた。
一瞬、こんな光景をどこかで見たという記憶が頭をよぎった。
「う……」
低いうめき声から少し遅れて、がば、と顔が持ち上がった。
「あ」
遠巻きにしたギャラリーから、小さな声が聞こえた。
「生きてる」
そりゃ当たり前、と思う。
こんな場所の転倒で、やすやすと命に関わるもんか。
「うう――」
子犬がうなるみたいな、声。
にらみ上げる大きな目の上で、額の真ん中が赤くなっていた。
くす、とどこかで女子の殺した笑い声が聞こえた。
ぼくも思わず笑い顔になりそうなところを、必死に噛み殺していた。
いつもにこりともしないしかめ面が、妙に可愛らしく見えたのだ。
「あ、先生どうぞ。掴まって」
手を差し出すと、一瞬ためらってから、すぐに小さな指が掴まってきた。
「大丈夫ですか?」
「む――うむ」
わずかに泣きそうに歪みかけて、先生の白い顔は引きしまり直って見えた。
「当たり前だ、こんなの」
「ですよね」
立ち上がって、すぐにぼくの手を放して、先生はぱたぱたと膝のあたりを払った。
「大丈夫だ」
「大丈夫だ」
囁き声が、飛び交って聞こえた。
ギャラリーの中に安堵の空気が広がる、ような。
心配だったのなら、誰か早く助け起こせばよかったのに。
思って見回すと、生徒の歩く流れが徐々に戻っていくところだった。
少し離れて、笹生は律儀に待ってくれている。
「大丈夫なら、よかったです」
「うむ……」
口数少ないのは、もちろん照れくささからだろう。
思って、ぼくはそこから身を退いた。
「じゃ、失礼します」
「うむ」
戻ると、笹生も笑いを噛み殺した顔で並んで歩き出した。
予鈴が鳴り出したので足を急がせながら。
それでもぼくは訊かずにいられなかった。
「何だったんだ、今の。何でみんな、怖がったみたいに」
「うん……」
自分も照れたみたいに、笹生は頭に手を当てた。
「まあやっぱり、モモちゃんが泣き出したらどうしようかって、一瞬思っちゃうんだね、みんな」
「泣き出し――」
その意味を、少しの間考えた。
「そうしたら、そばにいた人の責任になるの?」
「まあ――その可能性もあると、思ってしまうんだね」
どこまで恐ろしがられているんだ、あの人?
「さすがに、転校生の前では少し格好つけようという意識が働いたみたいだね、モモちゃんも」
「そう――なの?」
「たぶん、ね」
顔を見合わせて、ぼくたちはゆっくり首を振った。やれやれ。
この日は、同じ方向へ帰る男子グループと途中まで話して歩いた。
通学路を少し外れた大型スーパーマルマルの二階にある、本屋やCD・ゲームショップを教えてもらった。
CDの好みを披露し合ってひとしきり盛り上がった後、塾へ向かう級友たちとそこで別れた。
ぼくは夕食の買い物をしていくと告げると、変な顔をされたけど。
事実だから、しかたない。
六時からだという塾時間に合わせてダベっていたので、結構遅くなっていた。
しかし予想外に、この時間になるとスーパーマルマルの割引が始まっていることが分かって、この点はラッキーだった。
中学生としては少し所帯染みすぎていると反省しながら、なかなか満足できる買い出しができて大きなビニール袋をぶら下げることになった。
外に出ようとして、ふと思い出した。
いつも立ち読みをしているマンガ雑誌の発売日だ、今日は。
ここの二階が立ち読み可能かを、チェックしていなかった。
荷物が重いのは気になったが、ついでだから寄っていくことにした。
さっき一通り回った、二階のテナントショップ街。
エスカレーターを上がってすぐは衣料品。
中央を過ぎてCDショップ。
奥の壁側に書店とゲームショップが並んでいる。
CDショップから流れる音楽を片耳に聴きながら進むと、書店の雑誌コーナー前に出た。
マンガ週刊誌の棚を探して見回して。
ぎょっとした。
探し求めた一角へ進む途中、少女マンガのコーナー前に、立ち読みしているらしい小柄な水色のスーツ姿の女性がいたのだ。
どういう巡り合わせやら。運命を嘆く暇もなかった。
こちらをふと見上げて、目を丸くした担任教師の顔と正面から向き合ってしまった。
「何だ、お前」
読んでいた雑誌をさっと背中に回して、先生はにらみつけてきた。
「何でこいつ、こんなタイミングばかり――」
後の言葉は独り言のようだったけれど、こちらも同感だった。
そちらへ目を向けずにそっと棚に戻す雑誌は、かなり低年齢向けのマンガ誌だ。
何だか外見と似合いすぎて、ぼくは思わずこぼれそうになった笑いをあわてて抑えていた。
「中学生の寄り道は、感心しないぞ」
「あ、すみません」
逆らわないことにして、ぼくは応えた。
「食料品の買い出しがあったもので」
「お前、家事担当しているのか」
ちらと目を丸くしかけて、すぐに気づいたようだ。
「そうか、父子家庭だったな」
「はあ、まあ」
「じゃあ、料理もするのか」
「まあ、一応」
「ふむ。感心だな」
この担任からほめ言葉らしいものを頂戴したのは、初めての気がする。
転んだところに手を貸しても「うむ」だけだったものなあ。
まあ、羞ずかしかったんだろうけど。
「先生も、ここの本屋の常連なんですか」
「うむ」
おおげさに見えるほど大きく、うなずいた。
「常に情報収集に努めるのは、教育者の常識だ」
「たいへんですねえ」
「おう」
応えながら、さりげなさを装って教育関係の雑誌の棚へ向けて足を移動させている。
別にそこまでとりつくろう必要ないとも思うのだけど。
「じゃあぼくは、帰って飯の支度を――」
断って、後ろへ向き直る。
歩き出そうとした、とたん、異様な電子音が耳をつんざいた。
「きゃ」
「なに――」
周りの客たちが、口々に声を上げた。
ちょうどぼくが向いた方向に、その原因が見えていた。
隣のゲーム店、出入口のセンサーだ。
今店を出たところらしい丸く太ったワイシャツ姿の少年が、呆然と立っている。
店内から、出入口のすぐ内側にいた学生服の客を押しのけるようにして、制服の男性店員が出てきた。
何人もの人が足を止めて、ワイシャツ姿の少年に注目している。
通路を歩いていた、買い物途中の主婦たち。
店の内や外に、青いブレザーの女子高生。
通路を縫うように、職員らしい背広姿の男の人が足早に寄ってきた。
店員が、すぐに少年の前に寄っていた。
「失礼ですが、荷物を拝見させていただけますか」
「あ、え、え――」
少年は怯えきった顔で、きょときょと首を震わせている。
よく見ると、うちの中学の生徒かも知れない。
店員に立ちはだかれた逆方向。
背広の男性が近づいているのを見て、少年の泣きそうな絶望の表情が深まった。
それでもきょろきょろ、救いを求めるように視線が泳ぎ回った。
「あ――」
その顔がわずかに明るくなったのは。
何と、こちらを直視してだった。
正面に視線が合った気がして、ぼくは一瞬あわてた。
え? 知らない顔だぞ、たぶん。
「先生――」
小さくもれたその声で、ようやくぼくも、さっきまで会話していた相手の存在を思い出した。
振り返ると、あれ?
気のせいか、小柄なスーツ姿はぼくの陰に隠れた、みたいな。
「桜井せんせえ――」
かすれたコールが、せっぱ詰まって聞こえてきた。
「先生」
ぼくはちらりと後ろを見た。
「呼んでますよ」
「ち」
舌打ち、聞こえてますよ。
一呼吸置いて、溜息がもれた、気がした。
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