2-1 モモちゃん生徒の味方 1

 翌日、一日遅れの初登校となった。


 朝の職員室には、二日前とは比べものにならない大勢の教職員が立ち動いていた。

 前の中学の職員は十人もいなかったから、ぼくには何とも新鮮な光景だ。


 けれど、あの時男の先生に教えてもらった席に、小柄な担任の姿は見えない。


「あの――」

 隣の席の若い男の先生に、訊ねてみた。

「桜井先生は、いらっしゃいませんか」


「おお、転校生だね、君」

 気さくに応えて、若い先生はあたりを見回した。

「モモちゃんは、まだかな。まさかまた遅刻じゃないと思うが」


 空耳か?

 いくつか不穏な言葉が聞こえた気がするんだけど。


「ちょっと待っていなさい。いくらあの子でも、新学期早々そんなに遅刻ということはないと思うから」


 生徒の――それも転校生の前で、少しは言葉を選ぶ気はないのだろうか、この先生。


「誰が遅刻だって?」


 どこからか低い声がして、その先生もぼくも、びくりと身をすくめていた。

 廊下側の机脇にそびえた書類棚の陰から、小柄なスーツ姿がいきなり現れたのだ。

 前触れもなく――ってもちろん、こんな時前振りをする律儀者もいないだろうけど。


「陰口は、本人がいない時にしてくれ」

「あ、ああ――失礼」


 座っていても我が担任と同じくらいの高さになるその男の先生の顔が、妙に強ばっていた。

 一瞬そちらを冷たくにらんで、すぐに興味をなくしたように桜井先生はぼくに目を移した。


「ふん、今日はちゃんと来たな」


 どうにも、歓迎されている気がしない。

 いくら転校慣れしている身でも、いい加減落ち込んできそうな気がするぞ。


「職員の打合せが終わったら教室に連れていくから、少し廊下で待っていろ」


 やっぱり冷たくあしらわれて、ぼくはすぐに職員室から追い払われた。

 所在なく廊下に立っていたら、まるで立たされ坊主みたいだ。

 ほら、向こうを通り過ぎる女生徒が、気のせいかこちらを見て笑っているみたいだ。


 みじめな気分をたっぷり味わわされたけれど、正味は十分くらいだったろうか。

 ようやくがたがたと音がして、教員たちが出てきた。

 その中でももったいをつけたみたいに後の方から、小さな姿がようやく現れた。

 これは全国共通なのかも知れない黒い出席簿と、書籍を数冊脇に抱えて。


「行くぞ」


 素っ気なく告げて、前に立って歩き出す。


 一分後、ぼくは二階三年C組の黒板の前に立って、新しい同級生たちに向かっていた。

 総勢三十七名。

 考えてみると、それだけで前の学校の全校生徒数に近い。

 後頭部に貼られたガーゼがみっともないのは我慢して、大きく頭を下げる。


「××町の△△中から来ました、岾城慎策です」


 型通り口上を述べて。あと何か気のきいたことを続けるべきか、一瞬言葉を切って考えた。

 そして、すぐに思いとどまった。


 生徒たちの緊張したみたいな視線は、当然少しの間ぼくに注がれていたが、すぐに隣へ移ったように見えた。

 転校生が珍獣扱いなのは不思議はないけど、隣の小さな姿はそれ以上に興味を惹き続けているようなのだ。


「夏休み最終日に怪我をして始業式を欠席するという粗忽者だが、まあみんな、仲よくしてやってくれ」

 あっさりとひどいことを、桜井先生は静かに言った。

「それで、戸野部とのべ


「はい」


 呼ばれて、中央一番後ろの席の女子が背筋を伸ばした姿勢で応えた。


「それから、笹生ささぶ


「はーい」


 窓際中ほどの、人懐こそうな男子。


「学級委員二人、特に転校生の世話を頼む」


 はい、ともう一度二人は低く応えた。


「岾城はあの二人に何でも訊くように。この学校のしきたりをたたき込んでもらえ」


 何だか物騒な響き、だけど。


「はい、分かりました」


 素直に、ぼくは頭を下げた。


「それはいいとして」

 一息つくや、先生は改めて教室を見回して、声を低めた。

「内密な重要事がある」


 目に見えて、一同の緊張が増した。


「何だ」

 真面目顔で応えたのは、最後尾の戸野部さんだ。

「重要度は?」

「レベル2だ」


 さらに、教室中の空気が固くなった。


「大事だな」

 戸野部さんが、静かにうなずいた。

「して?」


「うむ」


 先生もうなずいて、教卓の上に身を乗り出した。

 生徒全員の姿勢も、心なしか前傾になる。

 それへ向かって桜井教諭の声はさらに低まった。


「実は、校長が授業中密かに巡回するという情報がある」


 うむ、と応えたのは、また戸野部さんらしい。


 それにしても、教師の口から出るには妙に違和感のある言葉という気がする。


「おそらく二三日の間。充分心してもらいたい」


「心得た」


 先生の言葉に戸野部さんがひそめ声で応え、全員が無言で小さくうなずいた。

 まるで時代劇の忍者集団の密談だ。

 静聴の様子も、全体の統率のとれ方も。


「くれぐれも油断するな」

 囁くように言って、桜井先生は教卓の前に姿勢を戻した。

「連絡は以上だ。ああ、岾城」


「あ、は、はい」


 いきなり興味の先を戻されて、ぼくはあわてて声を上げた。


「お前の席は、あの一番後ろの空席だ」

「あ、はい、分かりました」


 今の一幕の前に座らせてくれてもよかったんじゃないか?

 思いながらもちろん言い返しはせず、ぼくは机の間を縫って後ろへ向かった。

 席は戸野部さんの隣、一つ廊下側だ。

 よろしく、とそちらへ軽く会釈して、席に着いた。

 相手からもうなずくような会釈が返って、


「いろいろ疑問はあるだろうが」

 戸野部さんがこちらを見ないで囁いた。

「くわしくはあとで説明する」


「あ、うん、よろしく」

 ぼくも声をひそめて応えた。

「でもとりあえず、今の重要事って?」


「とりあえずは、普通に真面目に授業を受けていさえすればいい。多少のことにはあわてずに。今のやりとりを冷静に観察できていた君の様子なら、まず大丈夫だ」

「そう――なの?」


 はなはだ心もとないながら、それで納得するしかなかった。

 朝のホームルームが終わって一息入れる間もなく、もう一時間目の授業が始まるのだ。

 何しろ、英語の担当はそのまま桜井先生らしい。


 ただそんな雑事以前に、その最初の授業は驚きの連続だった。


 まず桜井先生、ぼくがこれまで見た英語の教師の中でも図抜けていると断言していいほど、発音がいい。

 英文を流暢に読み上げて、的確な説明が加えられる。

 多少声が小さいとはいうものの、さすがに都会の学校は違う、とそれだけで手放しで感心してしまう。


 それだけでも十分な驚きなのだが、別の意味でも度肝を抜かれた。


 説明を筆記するために、先生が黒板に向かう。

 背の低さのため、どう見ても黒板の半分より上には手が届きそうにない。

 普通の中学生の教室なら、ここでくすくす笑いが起きるところだ。

 しかしこのクラスではその瞬間、一斉に全体の緊張が高まったように見えた。

 みんなが真剣にノートを開き、シャープペンシルを握りしめる。

 どうしたことかと、あわててぼくもそれに倣った。


 理由は、すぐに分かった。

 桜井先生は無理に背伸びする様子も見せず、すぐ自分の目の前、黒板の下三分の一くらいの場所からチョークを走らせ出したのだ。


 しかも、その字が、小さい。

 一番後ろのこの席からだと、両目の視力一.五のぼくでも目を凝らして判別するのがやっとというところだ。


 しかも、しかも。

 黒板を三分の一しか使わないのだから当然、すぐに書く場所はなくなる。

 それをこの先生は前に戻って、生徒の写す状況を確かめることもないまま、ためらいなく消してしまうのだ。

 普通なら、生徒からごうごう非難が飛ぶところだ。

 それをこのクラスは、全員が文句を言うこともなく一心に遅れまいとシャープペンシルを動かしている。


 どうもぼくは、規格外れに自分勝手な先生と、信じられないほど生真面目な生徒たちの中に放り込まれたらしい。

 しかしそんなことを思い馳せる余裕もなく、ぼくも回りに負けず必死に板書を写す手を動かすしかなかった。


 書いては消し、また書いて消して書く。

 それが三度ほどくり返されて、今度は生徒を指名して英文を読ませる時間になった。

 授業時間は半分ほど過ぎたところだ。


 その最中、桜井先生は指名した生徒から目を離さないまま、ぴくりと顔を引き締めた。

 いきなりものも言わず黒板の前へ一飛びに戻るや、残っていた小さな文字をさっと消し去った。

 瞬間、生徒たちの間にさらに緊張が走った。

 今まで見えなかった前の隅から先生は木の台を持ち出してきて、それに乗るや何事もなかったかのように、今までの三倍くらいの大きさの見やすい文字を黒板の最上部から書き始めていた。

 一糸乱れない動作で、全員がそれを書き写し出した。


 ぼくの席からは、その原因がすぐに理解できた。

 前の戸口の小さなガラス窓の外、ちらりと髪の薄い頭が覗いて見えたから。

 それは、二日前に紹介された校長の頭部にまちがいなかった。

 しかしあれ、ぼくより廊下側の一部の席からしかほとんど見えないと思う。

 もちろん桜井先生の位置からは全く見つけようがないはずだ。

 それなのに、気配で察したとしか思えないほどの素早さで先生は対処して、生徒たちもすぐさまそれに合わせているのだった。

 この事態を予想していたらしいとはいえ、ものすごい危機管理能力というか。

 感心するほかない。


 前の戸のガラスに、校長の頭部が消えた。

 と、まもなく、今度は後ろの戸の陰に同じ頭部が覗くのが、ぼくの目の端に見えた。

 おそらく後ろに位置を変えて、さっき以上に先生の様子が見えているのだろう。

 その間も、前半以上に非の打ちどころのない調子で、声を張り上げて桜井先生は授業を続けた。

 生徒一同も理想的と思えるほどの態度でその授業を受けていた。


 チャイムが鳴るとさすがに、ほう、と生徒たちの口に溜息がもれた。

 ぼくも筋肉の緊張を緩めて横目で見ると、いつの間にか校長の頭は消えていた。

 にこりともせずに授業終了を告げて、桜井先生は一言「ご苦労」と言葉を残して足早に出ていった。


 逆方向に向き直ると、隣の戸野部さんも姿勢よく背筋を伸ばしたまま、息をついているようだった。

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