1-3 モモちゃん仁王立ち 3

 少し落ち着いてみると、部屋の中には病院特有の薬品のような香りが漂っていた。

 窓の外が紅くなってきたのを見ると、夕暮れ時だ。

 おそらく一時間程度、ぼくは意識を失っていたことになるのだろう。


 間もなく、あわただしい様子で親父が入ってきた。

 いつもはとぼけた表情の多いこの人が、珍しくシリアスだ。

 それを思うと、さすがに申し訳ない気になった。


「おい、頭を打っただと? どんな具合だ」


「お医者さんの話では、ただの脳震盪。たいしたことないみたい」

 努めて落ち着いて、ぼくは応えた。

「一応もう少し検査してみるそうだけど」


「そうか」

 溜息をついて、しわの寄った背広姿の親父はそばのパイプ椅子に腰を下ろした。

「いや――検査結果を見ないと安心できないな」


「悪いね、心配かけて。ドジこいて転んじまった」

「気いつけろよ、まったく」

 長々と、親父は溜息をついた。


 まだ荷物も片づいていない引っ越し翌日にもう出社という仕事好き人間が、こんな理由で早退というのも無念だろう。


 それをぼくが口にすると、

「アホ」

 苦笑いで、にらみ返してきた。


 最愛の一人息子の無事に替えられるか、などとくすぐったい言葉にされても困ってしまうので、紋切型の返しはありがたかった。


 ぼくが小学一年の時、母を交通事故で亡くしている。

 自分も一人っ子で親とも早くに死別している親父には他に家族と呼べる存在もなく、勢い一人息子のぼくの建康等については普通以上に過敏なのだ。

 普段はどこの父親もそうだろうという程度に放任でいい加減にも見えるのだが、少しでも何かがあると心配性と笑い飛ばすこともできないほどの素顔が覗く。

 親に心配をかけるわけにはいかないと、年に数回程度ながらぼくも自省してしまうのは、こんな時だ。


 その後は、親父が医者とのやりとりなどをしてくれて、ぼくは大きな機械で検査を受けた。

 合間に医者とは別の人にも事故の状況を訊かれたが、同じように足を滑らせたと答えた。

 あの女の子とのやりとりについては、問題にならない限り触れないことにした。

 自分で転んで頭を打った、そのこと自体に嘘はないのだから。


 しばらく待たされた後、親父とぼくを並べて、医者が「異状なし」と告げた。


「まあ腫れてコブになっているから、二三日はずきずきくらいするかも知れない。念のため、明日一日くらいは安静にしていなさい」


 そうしろ、と親父もぼくに念を押してきた。

「さっき中学には連絡を入れて、明日は休みということで伝えておいたから」


 手際がいいなと感心しながら、ぼくは素直にうなずいた。


「それにしても、たいしたことにならなくてよかったね」

 医者が軽く笑って言った。

「事故の後も、そのまま炎天下に長時間寝ていたらたいへんなことになったかも知れないが。見ていた子どもがすぐに一一九番連絡してくれたのと、通りかかった男性が直射日光をさえぎるように処置してくれたらしい」


「そんな人がいたんですか?」

 初耳で、ぼくは訊き返した。

「どんな人だったんでしょう」


「ああ」

 医者は少し言いにくそうになった。

「どうも近くにいたホームレス風の人らしいね。救急隊員が着いた時には、その人から、見ていた子どもが足を滑らせて転んだと言っていた、と説明を受けたと。その時にはその子どももいなくなっていて、その人自身は見ていたわけじゃない、自分は無関係だと言っていたそうだ」


 あの公園の野球グラウンドの方にそんな風体の人がいたことを、思い出した。

 それと、あの女の子が完全な子ども扱いになっているのに少し違和感があったけれど、まあいいか、とぼくは思っていた。


「じゃあ、その人にお礼しなきゃいけませんね」


「別にいいんじゃないかな」

 興味なさそうに、医者は首を振った。

「関わりになりたくなさそうにすぐ離れていったそうだから、もうその男、その辺にいないんじゃないか」


「そう、ですか」


 もう帰ってよし、と医者が立っていくと、親父も会計手続などだろう、少し待っていろ、と言って部屋を出ていった。

 ベッドの縁に、ぼくはしばらく所在なく座っていた。


 少しして、ドアの開く音に、親父が戻ってきたかと顔を上げて。


 驚いて、ぼくは言葉を失っていた。


 戸口には、小柄な女性が立っていた。

 勤め人らしい、ベージュのスーツ姿。

 短めに切りそろえた栗色の髪。

 不機嫌そうな表情に、きつい目つき。


 だが、そんな一切のことよりも何よりも。


 その人の顔は――

 あの公園で会った女の子にそっくりだったのだ。


 呆然と、おそらく間抜けな顔をしていただろうぼくをじろっとにらんで、幼げな顔つきと社会人らしい服装にギャップのあるその女性は、おもむろに口を開いた。


「岾城慎策、だな?」

「は――はい」


 返事が、一拍遅れた。

 ますます、間が抜けた印象になってしまっただろう。


「お前の新しい担任になる、桜井さくらい百奏ももかだ」


 担任? ――ああ、先生なのか。


「あ――ああ、初めまして」


「まったく」

 小柄で童顔の外見に似合わず、桜井先生は顔をしかめた。

「転校前日に事故で病院に運ばれるやつなど、前代未聞だ」


「はあ――すみません」


 あなたによく似た女の子のせいで、などとここで持ち出すわけにはいかなそうだ。


 こっちは休みなのに呼び出されて、などと小柄な先生はぶつぶつ独り言を言っている。

 もう一度謝るべきなのか、ぼくは真剣に思い悩んだ。


「まあ、いい」

 勝手に自己完結したようだ。

「明日は休むということだな。しっかり安静にして、治して登校してこい」


「あ、はい」


「明日は始業式だけだから、それほど面倒はない。あさって以降は授業も始まるからな、何日も休んで遅れられると面倒だ」


 何となく、こちらの怪我の心配より自分の都合を主張している気がするんだけど。

 気のせいだと思いたい。


 それにしても。

 にこりともしないで戸口に仁王立ちした担任の顔を、ぼくはもう一度見直した。

 こちらは気のせいとは思えないほど、似ている。

 服装はもちろん、髪の長さと色が明らかに違うけど、それ以外はそのままあの女の子と瓜二つじゃないだろうか。

 言い換えればこの先生が、あまりに見た目が子どもっぽいということにもなる。


「何だ?」


 急に、桜井先生がますます不快そうに眉を上げた。

 それで、ぼくも気がついた。あまりにじろじろ無遠慮に観察してしまったようだ。


「私の顔が、何か面白いか?」

「あ、いえ、別に」

「お前、もしかして――」

 じろりとにらみ、子どもっぽい唇が突き出た。

「どこかで私と似た顔を見たとか、か?」


 ぼくは、目を丸くしてしまった。


 この先生があの子と同一人物でないなら、そんな連想しようもないと思うのだが。

 他人の心を読む能力をこの人が持っているのでない限り。


 そんなぼくの疑念さえ読みとったかのように、先生はふんと鼻を鳴らした。


「時々あるのだ、そんな勘違いが。私とそっくりな顔の中学生がその辺をうろついているのでね。まあ、血のつながった姪だが」


 なるほど。ぼくは、無言でうなずいた。


「もし私の想像が当たっているなら、お前が見かけたのは姪の方だと思うぞ」


 ぼくは黙ったまま、心の中でもう一度うなずいた。

 医者や他の人にも言わなかったように、できるだけあの女の子のことは口に出さないでおくに越したことはないと思ったのだ。


 誰にも言うなと釘を刺された、それに安易に逆らって、たとえば雪女の祟りよろしく凍死させられるのも嫌だから。


 ぼくの反応が少ないのを軽蔑したように、ふん、ともう一度桜井先生は鼻を鳴らした。


「じゃあ、あさって待っている」

 結局戸口近くに立ったままだった先生は、そのまま向きを変えた。

「朝、職員室に来なさい」


「はい、分かりました」

 ぼくは、ていねいに頭を下げた。

「わざわざありがとうございました」


 軽く片手を挙げて、小柄な先生はそのまま出ていった。


 入れ違いに、親父が戻ってきた。

 今し方担任の先生が来たと教えると、

「それは会いたかったな。一度挨拶しなきゃと思ってたんだ」

 と、悔しがっていた。

 タイミング的には廊下ですれ違っていてもおかしくない気がするが、きっとあの見た目を学校教師とは思いもしなかったんだろう。


 親父がタクシーを呼んでくれて、ようやく家に帰ることができた。

 とは言っても車に乗っていたのは十分足らず、かなり近所の病院だったらしい。

 これくらいの距離、普通ならうちの親父は迷わず徒歩を選択するところで、一応大事をとってくれたらしい。


 四階建てアパートの三階の新居はまだ一泊を過ごしただけで愛着の持ちようもないのけど、それでもやっぱり帰ってくると安心できた。

 この夜だけはいつにない父親の過保護を受けて、ぼくは早々にベッドに入った。


 翌朝も、頭痛が悪化していないか、などとしつこくぼくに確認して、前の日よりやや遅く、親父は出勤していった。

 まあ、この日が無事に終われば、少し安心も戻るだろう。

 そのためにも、親にも担任にも言われた通り、一日大人しく回復に努めようとぼくは思った。


 放置していた引っ越し荷物の整理を少しした程度で、ほとんど自堕落にぼくは一日を過ごした。

 夕方になって、怪我の状態も問題ないと判断して、夕食の買い物に出た。

 昨夜の、久しぶりの親父の料理はあれっきりとしたい。

 ここ数年でかなり根絶に向かったはずの味覚バカが、あっという間に復活してしまいそうだ、あれでは。

 一晩くらいなら懐かしいと言ってもいいけれど。

 何しろ母が死んでから三四年程度は、あの父の手料理で生き延びていたのだ。

 今思えば、よくぞという気がしてくる。

 思い切ってぼくが我が家の炊事を受け持つことにしたのは、小学四年の時だ。


 親父の好きなハンバーグと野菜スープの下ごしらえをして、一段落したところで、買い忘れに気がついた。

 ハンバーグの肉汁に醤油と中濃ソースを混ぜるのが、いつもの作り方だ。

 慣れ親しんだ瓶ソースがないと、あの味にならない。

 まだ親父の帰宅には早いと判断して、ぼくはもう一度近くのスーパーに買い出しに出た。

 こないだまで住んでいた海辺の町を思うと、こういう点ではずいぶん便利になった実感がある。


 買い物袋を下げてアパートの入口近くまで戻ってきたところで、反対側から歩いてくる親父の姿を見つけた。

 少し日も短くなってきて、街灯に照らされた歩道に、見慣れたひょろりと高いシルエットだ。


「おい、もう大丈夫なのか」


 まだ少し離れたところでぼくを見つけて、声をかけてきた。


「うん、一日何ともなかった」

「なら、いいが。まだ無理するなよ」


 分かってる、と応えながら。

 ふと意識を戻すと、後頭部にわずかながら疼きのようなものは残っていた。

 少しずつ薄まって、遠からず消えてしまいそうな感覚だ。

 それでもかすかに前日の事故の瞬間が頭をよぎった。

 あの時の女の子の存在が何となく身近に蘇った気がした。


 少し遅れて、え、とぼくはあたりを見回した。

 今、本当にあの子がいたような気がした。

 もちろん気のせいのはずで、結構行きかう人影はあるが現実にはあの小さな姿は見つからない。


「どうした?」


 近くに寄ってきた親父が、心配そうに覗き込んできた。


「いや」

 あわてて、ぼくは首を振った。

「何でもない」


 まさか、亡霊に取り憑かれたわけでもないだろうに。

 絶対、単なる気のせいだ。


「何でもないよ」

 もう一度くり返して、ぼくは笑った。

「早く上がろうよ。すぐ、ハンバーグ焼くから」


「おお、それは楽しみだ」

 親父は、だらしなく顔を緩めた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る