1-2 モモちゃん仁王立ち 2
「ぬ――」
身を起こして、コンクリートの上に座り直して。
どうするのかと見ていると、女の子はいきなりポケットから携帯電話を取り出した。
意表を突かれて言葉を失っているうち、ショッキングピンクの筐体をかざして、かしゃりと機械音。
カメラ機能で撮影されたらしい。
「な――何?」
さすがに驚き声を返すと、
「これ以上無礼をすると、これを証拠にするぞ」
得意げに、にやりと笑った。
「これで貴様、手も足も出せまい。私の言うことに逆らえまい」
「………」
いや、今の撮影、かなり間抜け面に映ったとは思うけど、何の証拠にもならないと思うぞ。
今ひょいと手を伸ばせば、簡単にその携帯奪い取れそうだし。
――やらないけど。
ぼくの沈黙を降参のしるしととったらしく、ふふん、ともう一度女の子は得意げに口を曲げた。
機嫌が直ったのなら、めでたくはある。
携帯をポケットに戻して、女の子は立ち上がって、ぱんぱんと膝やお尻の汚れを払った。
「中学生、か?」
じろ、と上目づかいに訊いてくる。
同じ高さの地面に立つと、女の子の頭はぼくの目より下だ。
ぼくの身長は百六十四センチだから、おそらく相手は百五十センチもないだろう。
「うん。明日転校してくるところだけど」
む、と口の中でうなった、ような。
「名は?」
「あ、
むむ、と考える顔つき。
考えても、思い当たる可能性はないと思うけど。
数秒考えて、呟きが返った。
「――奇兵隊、か」
時間かけて、そんな連想を考えていたのか。
「それ、高杉晋作だから」
連想されるのには慣れていたので、即答してしまった。
下の名前は親としては意識があったらしいけど、名字は全く被りもしないと思うのだが。
「ふん」
首を振って、いきなり女の子は後ろを向いた。
無言で、また小山をえっちら登り出す。
その背中に、ぼくは声をかけた。
「大丈夫? ほんと、怪我もない?」
小さく、ふん、と鼻を鳴らす音が返っただけだった。
まあ何ともないというなら。これ以上の関わりは避けた方がよさそうだ。
思って、ぼくは後ろを向きかけた。
その時、目の隅に違和感のある色彩をとらえた。
スロープを外れた山肌の草の中、さっきまで女の子がかけていたサングラスが転がっているのだ。
数歩で手が届く場所なので、ぼくは傾斜に足をかけた。
ひょいと落とし物を拾い上げて、
「おーい、忘れ物」
声をかけても、ペースを変えずに女の子は坂をよじ登っていた。
しかたなく、ぼくも草の斜面を登っていった。
芝よりも少し旺盛にしげっている緑の草は、運動靴でなければたちまち足を滑らせて、麓に逆戻りしてしまいそうな感触だ。
頂上では、小柄な女の子が両足をふんばらせて仁王立ちしていた。
遠く眺めやっているのは、頼りない記憶を信じれば、さっきぼくが出てきた中学校の方向だ。
「はい」
そばに寄って拾い物を手渡す。
当然のような顔で、女の子はこちらも振り返らずに受けとった。
もとのように顔に戻すことはせず、その手に持ったまま遠くに目を据えている。
高いところに来たために、気のせいか風が涼しく感じられた。
アキアカネの群れが一段と近くなって、音もなく二人の周囲を回っていた。
さっきも見たように、離れた木陰のベンチに子ども連れの主婦が何組か。
逆側、野球グラウンドのベンチに、ホームレスのような焦茶色の服の男が一人寝そべっているのが見える。
「ここへ来るのは、初めてか?」
低い声がぼくに向けられたものだと、一瞬遅れて気がついた。
「あ、うん」
「この辺はいいぞ。街中の騒がしさは、まだない」
「あ――そう」
いきなり落ち着いた言葉をかけられて、間の抜けた応えしかできなかった。
「トンボたちも、貴様を歓迎している」
「そう――だね、まるで」
つられて、あたりを見回した。
それにしても、何かいいことを言ってるような、無理矢理とってつけたような、どう受けとっていいか応対に困る言葉だ。
「悪いようにはせん。さっきのことは忘れろ」
「――え?」
「ここであったことは、誰にも言うな」
「は?」
「さもなくば、どんな目に会うか保障しない」
「えーと……」
預言者?
雪女?
とりあえずいろいろな連想が浮かんだけど、目の前の女の子とうまく結びつくものはなかった。
脇を見下ろすと、また険しさをとり戻した視線が突き上げていた。
「煮えきらん奴だな、分かったのか?」
「あ――うん」
ゆっくりと、ぼくは首を傾げた。
「でも、どんな目に会うかって、どんな?」
「知るか」
ぷんぷんという形容がぴったりな勢いで、頬が丸くふくらんでいた。
何か、ご機嫌をそこねたらしい。
参ったな、とぼくは内心頭を抱えていた。
経験上、あまり他人の機嫌をそこねずに会話をするのは得意な方だと思っていたんだけど。
この町の住民ってこんな難しい人柄が多かったろうか。
この女の子が特殊なんだろうか。
できれば、後者の方でお願いしたいものだと思う。
いきなり後ろへ向き直って、女の子は歩き出していた。
ぷんぷんと丸い顎を突き出したまま、土が露出した頂上の一角から、またコンクリートのスロープの方へ。
「あ、危ないよ」
わずかに段差になっている足場を見て、ぼくは声をかけた。
相変わらず年齢確認ができないままだけど、思わず小さな子どもにかけるみたいな言葉になっていた。
「バカにするな。見えてるわ」
ちらとこちらを振り返って、吐き捨てる。
しかし、よそ見をするから。
言わんこっちゃない、そのまま踏み出した足が――コンクリートの角を蹴飛ばした。
「あ、ちゃ――え?」
わたわたと両手が宙をかく。
あのままじゃ、前のめり真っ逆さまに滑り落ちるぞ。
マンガのギャグシーンなら、腹を抱えるところだけど。
そんなことをのんびり考える暇もなく、ぼくは一足飛びにそこへ駆け寄っていた。
「危ない――」
「触るでない」
とたんに、邪険に手が振り払われた。
白い指先にわずかにかすっただけで、ぼくの手は空を切り――。
「わ」
「え?」
弾みでバランスを失って、仰向けに倒れ込んでいた。
女の子が向かっていた、スロープの方へ。
立て直しのあがきも空しく、仰向けに傾き――
水平に――さらに下向きに――身体が逆さまになって――。
後頭部に衝撃が走り、目の前に火花が散った。
暗転。
気がつくと病院のベッドの上だった――
なんていうことを実際経験する羽目になるとは、思ってもみなかった。
目を開いた先に見知らぬ白衣の小父さんがいるのを知った時、マンガか映画かの中に自分が入り込んでしまったのかと、本気で疑ってしまったほどだ。
病室なのか診察室なのか分からない。
白衣の小父さん――まあおそらくお医者さんだろう――の向こうではナース服の看護師らしい女性が立ち動いている。
目の前の医者は、妙ににこやかに話しかけてきた。
「気分はどうだい」
目を天井に上げて、ぼくは数秒自分の内へ神経を向けてみた。
「頭の後ろが、痛いです」
「そりゃあ、コブができているからねえ」
のんびりと、医者は応えた。
横向きの寝姿のままそっと頭の後ろを手で探ると、ガーゼが貼りつけられていた。
「この後脳波も調べてみるけどね、まあ後頭部を打って脳震盪ということみたいだよ」
なるほど、とぼくはうなずいた。
「念のため訊くが、君、名前は?」
「あ――岾城慎策です」
自分の記憶がおかしくなっているってことはないよな。
一瞬不安になりながら、ぼくは応えた。
「ふん、まちがいないな」
「あの……」
肯定されて安心すると同時に、逆に疑問がわいてきた。
「ぼくの名前、分かっているんですか?」
「ポケットに生徒手帳が入っていたからね。ずいぶん遠くの中学だったが」
「あ、転校してきたところで、生徒手帳は前の学校のだから」
なるほど、と今度は医者がうなずいた。
「で」
医者はあまり興味なさそうに訊いた。
「何で、炎天下の公園で寝ていたんだね」
「あ――」
ぼくは記憶を探って、あたりさわりのない応えをした。
「知らない子どもと話しているうちに、足を滑らせて転んだみたいです」
「ふん、なるほど」
「あの、ぼくはどうやってここへ? 病院ですよね、ここ」
「うむ」
何をつまらんことを訊く、という表情だ。
「救急車で運ばれてきたんだよ。その、一緒にいた子どもが連絡したらしい」
「はあ、そうですか」
そうすると、救急車で搬送されるという、これも生まれて初めてのことをいつの間にかぼくは経験したらしい。
何とも、意識がなくてその実体験を覚えていないのが残念だ。
サイレン鳴らして赤信号を突っ切ったりとかいうことも、したのだろうか。
「まだ検査することがあるから、しばらくそうやって安静にしていなさい」
医者が立ち上がりながら言った。
「お父さんに連絡がついたから、もうすぐ来るはずだし」
白衣の背中を見送りながら、ぼくは首を傾げた。
どうやって、親父の連絡先を知ったのだろう。
少し考えて、ポケットにそれらしきものを入れていたことを思い出した。
転校手続の書類を入れていった封筒が、親父の名前と会社名が書かれた使い古しのやつだった。
中学校で書類だけ提出して、用済みの封筒はそのままポケットにねじ込んでいたのだ。
今回の場合、そんな偶然が幸いしたということになるのだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます