進化 (後編)

土の季節前期月、最終日。


世界に三つ目の聖堂の落成式は、雲ひとつない晴天に恵まれた。

式は午後の一の鐘から始まるが、昼の鐘半を過ぎた今、会場となる前庭には、参列する殆どの人が集まっていた。


高位聖職者の側には、基本的には正聖騎士が付く。

准聖騎士のカウティスは、前庭の柵に沿って立つ周辺警備に就いていて、門から少し離れた所にいた。




「エルノート陛下です」

側を通ったラードに耳打ちされて、カウティスは前庭に入ってきた一行を見た。


近衛騎士に挟まれて歩いてきた国王は、銀糸の刺繍が入ったクリーム色の詰め襟に、緋色のマントを揺らしている。

久しぶりに見るその姿は、威風堂々としていて、自信に満ちている。

王としての威厳も増したように思えて嬉しく、カウティスは思わず頬を緩ませた。


途端、エルノートがカウティスがいる方を向いた。

気付かないだろうと思ったのに、すぐに目が合う。

彼は僅かに右手を上げ、薄青の瞳を温かく細めた。



昨夜イスタークから話を聞いて、カウティスはずっと迷っていた。

それなのに、兄と目を合わせた途端、熱いものが胸の奥から込み上げる。


戻りたいと望んでも良いのだろうか。

ネイクーン王国の為に生きたいと、そう言っても許されるだろうか。

そんな想いが、カウティスの中で抑えられない程に膨らんでいく。


聖職者として五年以上生きていても、今も自分の心はネイクーンに向けられているのだと思い知らされた。





午後の一の鐘が鳴り、落成式が始まった。


多くの参列者を迎え、真新しいベリウム聖堂は、陽光を受けて輝きと喜びに満ち、式典は恙無つつがなく進行していく。



落成式が終わりに近付く頃、参列者の誰かが、東の空から飛んでくる鳥のような影を見つけた。

その影は物凄い速さで近付く。

それが鳥ではないと気付いた時、誰かが『魔獣だ』と呟いた事で、場は混乱に陥りかけた。



「大丈夫、あれは竜人だよ」


さっきまで聖職者が使っていた拡声の魔術具で、ハルミアンの声が一帯に大きく響いた。


「式典に参加しに来ただけだから、安心して」

壇上に突然現れた、見目麗しいエルフが光を散らすように微笑む。

エルフの登場と、竜人が翼竜の姿で式典にやって来ているという前代未聞の事態に、皆混乱を通り越して激しく困惑した。




困惑の内に、前庭に白い翼竜が降りた。

輪郭が歪むように崩れて変態すると、薄い鱗の鎧を纏ったような、大きな人の形になった。


その姿を間近で見たカウティスは、強く歯軋りした。

白くのっぺりとしたその顔は、忘れたくても忘れられない。

セルフィーネを痛めつけ、強引に契約更新をした、竜人ハドシュだ。


カウティスは、身の内から湧き上がる怒りを必死に押さえる。

のろいが消え去った今、膨れ上がって呑み込まれるようなことはなかったが、吐く息には怒気が濃く漏れた。



ハルミアンが『式典に参加しに来た』と言ったのに、ハドシュは壇上のハルミアンを一瞥いちべつすると、迷いなくカウティスの前に歩いて来て、深紅の瞳で見下ろした。

カウティスを前にすると、喉元の傷がズキと痛んで腹立たしさが込み上げ、思わず口を開く。

「……相変わらず、小賢こざかしい目付きだ」


長剣の柄に手を伸ばしたい衝動を耐えるカウティスの目の前に、ハドシュは何かを握った大きな手を突き付ける。

カウティスは盛大に眉根を寄せたが、手を出すまで黙って待っている様子のハドシュに、嫌々ながら手を出した。


「……は、未だにお前の側を望むらしい」


そう言って掌に置かれたのは、紫水晶のような魔石だった。




カウティスは目を見開く。

掌に置かれた拳ほどの魔石は、固く冷たいのに、流れる水のようにも、吸い付く肌のようにも感じ、ただ一人の女性ひとを想像させる。

目の前にハドシュがいて、ここがどこで、どれだけの人々が注目しているのか、全て頭から消え去って、思わず声に出して名を呼んだ。



「セルフィーネ」



その呼び掛けに応えるように、突如、魔石が形を変えた。


ゆらりとカウティスの掌から立ち昇り、空中で淡い光を放つ。

それは徐々に人の形を成して、おぼろに小さな女性の裸体を映した。

青紫の長い髪、白い肌、細い手足。

確かにセルフィーネの姿だったが、魔力が少ない為か、実体どころか半実体にもなり得なかった。


集まっている人々は、突然の神秘的な現象を目撃し、落成式の事も忘れて見入った。


「セルフィーネ!」

カウティスは堪らず手を伸ばす。

セルフィーネは目を閉じて眠っているようにも見え、伸ばしたカウティスの手は、彼女の身体を擦り抜けた。

それでも、カウティスは歓喜に震える。


セルフィーネは、やはり消えていなかった。

俺達の約束は、今も生きている。


喉の奥を詰まらせて、僅かに笑んだカウティスが、セルフィーネの頬を指先で撫でた。





キン、と耳鳴りがするような音を立てて、精霊達が騒ぎ出した。

聖職者達は、聖堂の周囲を取り巻く精霊の数に気付いて驚愕する。

水の精霊と土の精霊月光神の眷族達が集まり、まるで月夜のように、青白い光を振り撒いていた。


イスタークと共に、参列者の最前列に座っていたアナリナが、ふらりと立ち上がる。


「アナリナ?」

イスタークが気付いて見上げたアナリナの横顔は、精霊の光を見つめて恍惚こうこつとしていた。

「………………分かったわ……。それで、私を聖女にしたのね」

アナリナが、目に見えない誰かと話すように言った。


「いいわ、お望み通りあげるから、ちゃんとやってよっ!!」


アナリナの頭頂から、一本の針を突き刺すような痛みが走った。

歯を食いしばる彼女の目が、一瞬で青銀に変わる。



ドッと魔力の圧が掛かり、この場にいる誰もが身動き出来なくなった。

呼吸もままならない場に、青銀の光を纏う月光神の御力が降りる。

大きな神の手が、ゆっくりとセルフィーネの身体を愛おしむように撫でた。 

おぼろな姿であったセルフィーネの身体が、月光神の指先が触れるところから、魔力を吸い込むようにして徐々に輪郭を明確にしていく。

やがて完全な一人の女性の身体を創ると、神の御手みては、彼女を真新しい石畳の上に横たえる。


同時に、この場にいる全ての者の頭に、一つの言葉が降りた。



――― ニンフ ―――



それは、今ここに誕生した、新しい種族の名だ。




突如として圧が去り、人々は膝をついたり、椅子の上で脱力した。

崩れ落ちるアナリナを、イスタークとカッツが咄嗟とっさに両側から支えた。

今のが聖女の“神降ろし”だと気付いた人々が周囲を取り囲み、息を呑む。


ぐったりと二人に寄り掛かって、息も荒いアナリナが、掠れた声で言う。

「……褒めて下さい、イスターク司教」

焦茶色の瞳を細め、イスタークは小さく何度も頷く。

「…………お疲れ様。長い間、君は本当によく頑張りましたね、アナリナ」

イスタークが、心から労るように言った。


脂汗を流しながら、アナリナは満足気に微笑んだ。

彼女の長い髪は、生来の黒髪に戻っていた。





カウティスは急いで白いマントを脱ぎ、真新しい石畳の上に横たわる、美しい全裸の女性を包んで抱き上げた。

そして、その確かな重みに息を呑む。


青味がかった紫の細い髪が、サラリとカウティスの腕を流れる。

陶器のような滑らかな肌は、僅かにひんやりとして柔らかな弾力があり、白い首筋には、薄く血管が見えた。


カウティスは震える指先で、彼女の淡く桃色に色付く頬に触れた。


長いまつ毛がふるりと揺れて、閉じていた瞳がゆっくりと開かれる。

その紫水晶の瞳は、幼い頃に出会った時と少しも変わらない。

彼女の輝く瞳に、不甲斐なく泣きそうに歪んだカウティスの顔が映ると、花がほころぶように彼女は微笑む。


「……カ、ウ、ティス」


生まれて初めて、生身の喉で発声した言葉は、誰よりも愛しい人の名だった。

カウティスは堪らず彼女を強く抱きしめる。

精霊達が歓喜に湧き、光を振り撒きながら聖堂の周辺を一斉に飛び回った。


ハドシュはその光を見上げる。

長く生きてきた中で、初めて精霊の光が美しく眩しいと感じた。

彼は深く長く息を吐くと、隠匿の魔法を使って静かに去って行った。





「…………おかえり、セルフィーネ」

カウティスは彼女を強く抱きしめたまま、耳元で震えるようにささやいた。

「会いたかった……」


セルフィーネの白い腕が、マントからそっと差し出されて、カウティスの背に回る。


その確かな感触は、セルフィーネが遂に進化を成し遂げた事を教えていた。




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次話完結です!

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