決裂

セルフィーネは、震える己の身体を抱きしめることも出来ず、馬車の座面に横たわったままだった。



馬車を覗いた真っ黒な人形ひとがたは、セルフィーネを見て不気味に笑っただけで、何もせずに扉を閉めた。

暫くして馬車は動き出したが、あの恐ろしい黒い気配は、まるで馬車を囲っているように周囲にある。

その気配にどうしようもなく竦んでしまい、セルフィーネは唯一動かせる右手を、胸の前で握って耐えていた。

今どこを走っているのか、カウティスはどうなったのか知りたかったが、馬車の外に視界を広げたくても、黒い気配に邪魔されて上手くいかなかった。




やがて、ようやく馬車が止まり、扉に人の気配が近付く。

セルフィーネは浅い呼吸を繰り返して、扉を見詰めた。


扉を開けたのは、黒い騎士服を着た男だった。

黒い人形ひとがたに影響されているのか、僅かに騎士の身体からも黒い気配を感じて、セルフィーネは身を固くする。

騎士は、座面の下に半分落ちていた毛布を引き上げ、無造作に泥の塊のようなセルフィーネを包むと、荷物のように抱え上げた。


「いや。離して」


藻掻いてはみたが、少しも抵抗にならなかったらしく、騎士はそのままセルフィーネを運んで行く。

ジャリジャリと砂の上を歩くような足音から、固い床をコツコツと歩く音に変わる。

階段も上がったようだ。

話し声も幾らか聞こえたが、毛布でくぐもって、何を話しているのかよく分からなかった。



目的の場所に辿り着いたのか、セルフィーネは、突然騎士の腕から離されて、馬車の座面よりも固い所に下ろされた。

しかし、毛布は巻き付けられたままだ。

何も見えず、黒い気配が薄く纏わりつくように周りにあって、セルフィーネは震える指先で毛布を掻いた。

「ここは嫌だ……、出して」

ヒビ割れた唇から細い声が出たが、なんの反応もない。

満足に動かせない右手だけでは、巻き付けられた毛布を剥がすことは出来なかった。




どれ位そうしていただろうか。


人の話し声が聞こえると共に、黒い気配が濃くなり、セルフィーネは再び萎縮する。

毛布が引かれてビクリと身体を震わせた時、目の前が開けて、そこに立っている真っ黒な人形ひとがたを見たセルフィーネは、引きる程に息を呑んだ。



「はっ! 己が化け物のような姿になっておるのに、こちらを見て怯えておるわ。何とも滑稽こっけいだな」

ザクバラ国王が、セルフィーネが転がされている側の床を、杖の先でコツコツと叩く。

セルフィーネは泥の塊のような身体を僅かに縮め、苦し気に視線を落とした。


「そう思わぬか、リィドウォルよ」

王が振り返った所には、リィドウォルが黒い魔術士のローブを床に垂らし、片膝をついていた。





討伐隊の野営テントの前でリィドウォルと合流すると、王は討伐隊を近衛騎士の指揮下に置いて、街の中心近くにある領主邸に移動した。


領主邸の中も泥水が侵入したようで、一階は外と同じように、床や壁の下部が泥濘ぬかるみが乾いた後の砂にまみれ、多くの物が散乱していた。

一階に腰を据えられそうになく、仕方なく二階へ上がる。

危なげなく歩いていた王も、段差は具合が悪いのか、杖をついて手摺を持った。



そして今、領主邸の二階の応接室で、リィドウォルは目の前の王の姿に混乱していた。


その姿は、今のリィドウォルと年齢的には変わらない様に見える。

漆黒だった髪が灰墨色に変わっていることと、左頬の辺りに赤い肉塊が残っていることを除けば、以前の王に戻ったかのようだ。

身の内に湧き出るのろいを否定し、湧き上がる衝動を必死に抑え続け、ザクバラ国を導く真なる王で在ろうとしていた、あの頃に。


ただ、もやのように纏う黒い魔力が、あの頃とは違うのだと教える。


それでも、身を裂くような政変や使命を経ても尚、叔父の存在はリィドウォルを強く惹き付ける。

人として有り得ない若返りだと頭では分かっているのに、どうしようもなく思考を鈍らせた。



「……陛下、お身体の具合は良いのですか? このような所まで来られて、ご負担では……」

確認しなければならないことは、他に多くあるはずなのに、最初に口をついて出たのはそんな言葉だった。


リィドウォルの問い掛けに、王は目を細めて笑う。

落ち窪んでいた瞳の周りは張りが戻り、やや肉付きは薄いが、もう病的な印象はない。

「少し前から歩けたのだが、自由に動けないように見せる方が都合が良かったのでな」

リィドウォルが黒い眉を寄せる。

王は杖を持たない方の左手を握ったり開いたりして、しげしげと眺めた。

「……。大事ない」


一体何が馴染んだのか。

それを考えると、リィドウォルの喉がゴクリと鳴った。

そして初めて、確かめなければならない数々のことが頭をよぎった。


リィドウォルは立てた膝の上で、左手を握る。

「……陛下、こちらには、何故おいでに? 王城は今、王太子殿下にお任せになっておられるのですか?」

「国主の権限は、残らず私にある。どうして王太子に任せられようか」

王の表情は変わらず、左手を眺めているままだった。




宰相そなたが水の精霊を連れて王城を離れた途端、この時を待っていたとばかりに、王座の転覆を目論もくろんで動いた者達がいる」

突然、王の声音に冷ややかなものが混じり、リィドウォルは小さく息を呑む。


「事もあろうに故意に国土を荒らし、王太子を担ぎ出した者達だ」

言って王が杖を振ると、開いていた扉から、近衛騎士が男を二人引き摺るように連れて来て、冷たい床に転がした。

王が顎をしゃくると、近衛騎士は再び扉から出て、護衛騎士のイルウェンと同様に廊下に控える。


リィドウォルは転がされてうめいた二人を見て、目を見張った。

目の前で苦痛に顔を歪めているのは、後ろ手に縛られた魔術師長ジェクドと討伐隊長だ。

二人共既に随分と痛めつけられ、全身血と土にまみれている。

リィドウォルと視線が合うと、ジェクドが一瞬顔をしかめた。



「……もしや、そなたまで陰謀に加担しておらぬかと危惧したが、我が一の忠臣であるそなたには、いらぬ心配であったな」

王がリィドウォルに向かって満足気に一つ頷く。

そして突然杖を振り上げると、討伐隊長の肩に向かって勢い良く振り下ろした。

静かな室内に鈍い音と呻き声が響く。

セルフィーネが震えながらキツく目を閉じ、リィドウォルは顔を顰めた。


「賢く従順なタージュリヤをそそのかして、謀反を起こさせようとは! れ者め!」

再び杖を振り下ろし、次はジェクドに視線を向けた王に、リィドウォルは声を上げる。

「お待ち下さい、陛下! それでは、王太子殿下は今どちらに? 王城は!?」


『王太子を唆して謀反』と、王の口から出たということは、既に王城で事は起きたのだ。


王がぐりと眼球を動かして、リィドウォルを凝視した。

「王太子は王城で取り押さえるよう指示してあるが、こうなっては王城あの地はもう立ち行かぬ。これよりはここに新たな居城を据える。そなたは急ぎ地方貴族に召集をかけ、この領街をザクバラの拠点とするよう武力を集めよ。入れ替わりにこの地の領民は、地方へ送ってやれ」



リィドウォルは一瞬言葉を失った。

血の気が引き、握っていた左拳が細かに震える。


「……そんなことが……」

「出来ぬと思うか? ここには水の精霊この者がいる。この魔力をってすれば、叶わぬことではない。直ちに命に


めいは下された。

リィドウォルに拒否する術はない。


しかし、心臓が軋むのも構わず、リィドウォルは王を見上げた。

「……陛下……何を仰っているのか、お分かりなのですか。王城を捨て、王太子殿下を捨て、被災した領民を捨てると? 王城に置いてこられた臣下達はどうなりますか?」

彼等の中には、血の契約に縛られて、王太子に刃を向けざるを得ない者も多いはずだ。


まだ王に乞うようなリィドウォルの視線に、王は微笑する。

「……リィドウォル。私はそなたを信じている。そなただけは、生かしてやりたいのだ」

王はゆっくりと言った。


その懐かしく優しい声音を聞き、リィドウォルは胸を突かれた。

今までもそうだった。

生かしてやりたいと言い、すまないと謝罪しても、王は決して血の契約を解かない。


リィドウォルの求めるものを知っていて、懐柔の声で心を撫でるのだ。




リィドウォルはギリと歯を食いしばり、声を絞り出す。

「……今までずっと、いつか本当に叔父上がのろいを克服して下さると信じて、見て見ぬふりをしてきました。いいえ、私が信じたかったのです。……しかし、それが間違いでした」

その苦渋の声に、王の顔から親しみの情が消えていく。


リィドウォルは胸を押さえて立ち上がる。

垂れ下がる黒い前髪の間から、怒りを滲ませ始めた王の顔を見据えた。



「叔父上、貴方はのろいに負けたのです! 最早ザクバラ国の偉大なる王ではない!」



「リィドウォル!」

杖を振り上げた王の腕を、リィドウォルは力一杯掴んだ。

「例えこの心臓が破れても、こうなる前に止めるべきだった!」


それが本当の忠義であっただろうに。

それが、敬愛していた叔父を引き戻す、唯一つの手段であったかもしれないのに。


心臓が突かれるような痛みに、王の腕を掴んだリィドウォルの手が一瞬緩んだ。

その隙を見逃さず、王はリィドウォルを振り払う。

床に転がったジェクドの身体に足を取られ、リィドウォルがセルフィーネの前に倒れた。




「そなたも私の忠臣ではなかったか」

見下ろすザクバラ国王から黒い気配が湧き上がり、醜悪に顔が歪んだ。

「さらばだ、リィドウォル」


リィドウォルの心臓に、見えない杭が打たれた。


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