水面下 (前編)

水の季節前期月、六週四日。


ネイクーン王国の北部にいるカウティスは、日の出の鐘が鳴る前に、高い堤防の上からベリウム川を眺めた。

今は霧雨のような天気で、やはり月光は拝めない。

おかげで川の様子もよく分からず、ただ黒い水面が不気味にうねって、ゴウという濁流の音を立てているだけた。



昨夜、セルフィーネは確かに、自らが無事であることを伝えてくれた。

だが、あれからいくら呼び掛けても、再ひ水溜りの水は跳ねなかった。

水溜りではなく、川の水ならばと思って出てきたのだが、この濁流では川辺かわべりに近寄れないことは分かりきっていたのに、何をやっているのだろう。


カウティスは霧雨で湿った黒髪を掻き上げた。

焦りすぎるな、と心の中で自分を叱咤しったする。

今日、明日で、セルフィーネから再び反応があるかもしれないのだから。


……あって欲しいと思う。

なかったとしても、ザクバラ国で、以前のように苦しい思いをしていないことを祈っている。

そして、月が替わって無事にネイクーン王国へ帰って来てくれればと、今はそれだけを願う。



ザクバラ国があれ程に水の精霊を欲していたのは、何か狙いがあったからに違いない。

ネイクーン王国から水の精霊を完全に奪い取ることが出来ないまま、三国共有を受け入れているのは、水の精霊を奪うことだけが目的ではなかったからだろう。

ただその目的は、きっと水の精霊が魔力を十分に回復しなければ成し得ない。

だから今は動いていないのだろうと思っていた。


幸い、魔力の塊である精霊を、物理的に拘束することは出来ない。


セルフィーネが回復し、半実体を持つのは、予想では水の季節を終える頃のはずだ。

そして、火の季節前期月の終わりには、三国の協約改定の為の会談が予定されている。

そこまでは、今の微妙な均衡を保ちたい。



だが、もしも。



もしも、月が替わっても、セルフィーネがザクバラ国から帰って来なかったら……。


それは、水の精霊セルフィーネが三国共有になってから、ずっとカウティスの頭の片隅にくすぶっていた懸念だった。

フルデルデ王国との繋がりが強化されても、ザクバラ国の動向をエルノートや魔術士達が警戒していても、誰がどれ程手を尽くしていようともなくならない懸念。

いっそ、恐れと言ってもいいかもしれない。


この腕から、セルフィーネを奪われたなら。


その“もしも”を考えると、カウティスの頭は正常な思考を止めてしまいそうになる。

意識の奥底から黒い何かが湧き出て、カウティスの怒りを取り込んで膨れていくのだ。


鼓動が早くなり、胸が潰れそうで、呼吸さえ満足に出来ない。

セルフィーネを取り戻す為なら、何を犠牲にしても構わないような気さえする。

単身ザクバラ王城に乗り込み、立ち塞がる全てを斬り伏せてでも、セルフィーネを救い出す―――。

そんな考えさえ浮かんで、カウティスは強く目を閉じた。

ベリウム川の黒い濁流のような、その暗い感情に飲み込まれてはいけないと、強く頭を振った。



「わっ!」

カウティスが急に頭を振ったので、飛沫が飛んできて、後ろから声を掛けようとしていたラードがひるんだ。

「どうしたんですか、急に」

「……ラード」

振り返ったカウティスの顔を見て、ラードは濃い灰色の眉を寄せて、口を歪めた。

「……おかしなことを考えていたでしょう。まったく、こうも天気が酷い日が続くと、さすがに気が滅入りますからね」


ラードが空を見上げると同時に、遠くから日の出の鐘が響いた。

灰色のまだらな雲の向こうで、月が太陽に替わる。

昨日よりもずっと明るい陽光が、雲に覆われていた暗い空に広がっていく。


「ああ、どうやら集中雨は過ぎたみたいですね」

気が付けば霧雨も殆ど止んでいる。

「……そうだな。大きな被害が出なくて良かった」

カウティスは東の空に向かって目を細めた。

数日ぶりに見る朝日は眩しく清らかで、胸に残っていた黒いものをサッと溶かしていくような気がした。



「戻りましょう、王子。さっき近くの村の者が、焼き立てのパンと熱々のスープを届けてくれたんです。お約束通り激甘なお茶を入れて差し上げますから、一緒に頂きましょう」

励ましも気休めも口にしないラードに、カウティスの強張っていた身体が弛緩しかんする。

「ラード、パンにもジャムをたっぷり乗せて欲しいな」

「…………陛下が聞いたら顔色を失くされますよ」

ラードが呆れたように言うので、カウティスは兄の姿を想像して笑った。





集中雨への対策が成功したことは、午前には王城にも報告され、多くの者達が胸を撫で下ろした。



午後になって、王の執務室で公務に当たっていたエルノート王が、魔術師長ミルガンの報告を受けてペンを止めた。


「報告に違和感?」

「はい。ザクバラ国に派遣している魔術士達の各駐在地から、現在は日に二度通信を行っていますが、中央に派遣している代表者からの通信に、違和感を感じます」

ミルガンが一枚の紙を差し出した。


現在ネイクーン王国とフルデルデ王国では、魔術通信技術の提携がされている為、最新の魔術符を使って声で通信を行っている。

速度としては、魔術通信の中で一番速いものだ。

しかし、ザクバラ国では二つ前の技術である印字の通信を使っており、内容が届くまでに半刻近く掛かるが、通信した内容が紙に残る。



エルノートが受け取った紙には、焼けたペン先で書いたように、紙に焼け跡の文字が綴られていた。



  ザクバラ国魔術士との連携は順調。

  水の精霊は中央の神殿で動かず。

  神殿に魔術士、官吏の出入りはなし。



エルノートは薄青の瞳を細める。

特に変わりがなければ、日々の報告ならこの程度のものだ。

だが、この通信の違和感は、通信の内容ではない。

“水の精霊”に敬称がないのだ。

ネイクーン王国の魔術士なら、例え短い報告であっても、セルフィーネのことは誰もが必ず“水の精霊”と記した。

それは長い長い年月ネイクーン王国を守ってきた、水の精霊セルフィーネに対する敬意の表れだ。



「筆跡は今までと同じですので、書いた者は変わらないと思われます。ですから、もしかしたら、何かしらの異変を伝えたかったのでは、と……」

確信はないが、こちらに何か気付いて欲しくて、意図的に違和感を感じる文を送ったのではないだろうか。


ミルガンが思い悩んでいるような間を開けると、エルノートが紙を置いて言った。

「ザクバラ国へ派遣している全魔術士に、帰国命令を出せ」

「全員ですか?」

驚いて宰相セシウムが問い返した。

「全員だ。ネイクーン母国で問題が起こって、魔術士が全員緊急召集されたということにでもしておけ。地方派遣の者達は、技術提携を終えている所もあると報告も上がっている。まだ必要な地方には、母国での問題が解決次第、派遣員を編成し直して送ると伝えておけば良いだろう」

エルノートは机上の紙を指で叩く。

「……もしも、帰還に応じない者があれば、そこで何かしらの問題が起きているということだ」


ミルガンとセシウムが緊張の面持ちで、机上の紙を見詰めた。

「それだけではない。休戦中とはいえ、勇気を持ってザクバラ国へ赴いてくれた魔術士達を守らなければならない。守るべき者はセルフィーネだけではないのだから。……即刻命令を出すように」

王の迷いない言葉を受け、ミルガンとセシウムは共に立礼した。






午後になってセルフィーネは、リィドウォルに祭壇の間から移動するように指示され、指定された場所へ降り立った。



そこは、ネイクーン王国の魔術士達が囚われている留置場だった。

鉄格子の向こう側にいる魔術士達は、セルフィーネが降り立ったのを見て、一斉に鉄格子を握る。

「水の精霊様!」

「皆、無事か!?」

セルフィーネも鉄格子の方へ近付く。


「お前が立つべき場所はここだ」


鉄格子に触れようとした途端、リィドウォルに告げられて、セルフィーネは睨むようにしてリィドウォルが指した場所を見た。

鉄格子の向こうの魔術士達からも見える床に、大人が両腕を伸ばした程の直径の、丸い魔術陣が敷かれてあった。


「……それは?」

「立てば分かる」

リィドウォルが素っ気なく答えると、鉄格子の向こうからネイクーンの魔術士が小声で言った。

「魔石への魔力充填の符に似ています」


セルフィーネはいぶかしむようにゆっくりと近付く。

「立て」

リィドウォルの護衛騎士が、鉄格子の中に入って魔術士の側に寄ったのを見て、セルフィーネは急いで陣の上に立った。



セルフィーネが陣の上に立つと、ぼんやりと、魔術陣の文様が光を持った。

その途端、セルフィーネの足元から魔力が湧き上がり、円柱状に魔力が満たされた場になった。

しかし、その魔力が足元から迫り上がって来た途端、セルフィーネには悪寒が走った。

確かに魔力であるのに、冷たく不快な感覚に、セルフィーネは反射的に飛び退く。


途端に鉄格子の向こうで絶叫が響いた。


振り返ったセルフィーネの目に、護衛騎士が一人の魔術士の腕をひねり上げているのが映った。

護衛騎士が手を離すと、魔術士は床に落ち、苦悶の表情でうめき声を上げる。

緑色のローブに隠れて見えないが、その腕が折られたのだと分かり、セルフィーネはおののいた。


「酷い! 何故、こんな……?」

「説明がまだだったか? 今より、お前はこの魔術陣で魔力回復に努めろ。許可なく陣から出れば、魔術士の腕を折る。祭壇の間の時と同じだ」

黒いケープを揺らして魔術陣の側に立ち、リィドウォルが陣を指差す。

「お前の為に用意した陣だ。十分に魔力の場になっているだろう? さあ、ここに立て」


セルフィーネは唇を震わせる。

理不尽な仕打ちと、暴力的な光景に、思考が定まらなくなる。

「……いや。……もう、やめて……。何故……」

リィドウォルは眉一つ動かさず、黒眼をギラギラと輝かせてセルフィーネを見据える。

「立て。……もう一方の腕も折らねば分からないか?」

セルフィーネがビクリと大きく震えた。



魔力の纏まりが、ふるふると震えながら魔術陣の上に移動した。

それを見届けてリィドウォルは一つ頷いた。


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