ひとときの幸福

水の季節前期月、五週三日。


ネイクーン王城の王の執務室では、午前の一の鐘が鳴る前から、執務机に向かってエルノート王が座っている。

その側に宰相セシウム、正面に魔術師長ミルガンが立ち、ザクバラ国の対応について話していた。

机上には、先日送られてきた親書が再び広げられている。


一昨日よりセルフィーネは三国間の行き来を許され、実際に国境を越えた。

一先ずは、ザクバラ国から送られてきた親書の通りと言える。

初日は予想通り、西部の拠点に戻って来て、カウティス達と共に過ごしたらしい。

王城へ来るようにと伝えておいたので、昨夜は王城まで来て状況を説明して行った。




「『誠意には誠意で返すべき』とは、よく言ったものだ」

エルノートが吐き捨てるように言った。

セルフィーネからの説明では、リィドウォルはそう口にしたらしい。

「セルフィーネが好みそうな言葉を選んで話したようにしか思えない」

全般的に素直で純粋なセルフィーネの性質を理解し、もっともらしく、彼女が信じやすいように話して聞かせたように感じる。


セシウムが、執務机の上の親書に視線を落とした。

「しかし、だとすれば、一体何が目的でしょう。取り急ぎ諜者に確認したところでは、やはり数年地方等に追いやられていた、国王派の貴族達が多数中央に戻っているようですが、その者達の政策が影響しているのでしょうか?」



水の精霊が三国共有のものとなって、三国の空には同様に魔力が伸びた。

その護りの力は薄まったとはいえ、三国は同様に恩恵を受けている状況だ。

違う事といえば、水の精霊が留まる付近は、自然とその魔力が強まる傾向があるという事。

過去にネイクーン王国の水源に異変があると、その地に暫く留まっていたのはその為だ。

護りや浄化といった効果も、水の精霊が留まると強く表れるのかもしれない。


派遣している魔術士達の見解では、ザクバラ国は、国内に漂う病んだ淀んだ気を浄化したいのではないかという事だったが、もしそれが本当であれば、尚の事、国外に水の精霊を出す意味が分からない。



「ザクバラ国にいる魔術士達の定期連絡では、水の精霊様の回復が進み、地方では随分と病んだ気が改善されているということです。それもあって、制限を緩めたのでしょうか……」

ミルガンが疎らな口髭をしごく。

「それ位で、態度を軟化するだろうか? どうにも腑に落ちない。……ミルガン、魔術士達の定期連絡の間隔を狭めよ。密に連絡を取り合い、些細な事も取り零さぬよう徹底せよ」

「はい、陛下」

ミルガンが立礼すると、エルノートはひとつ頷く。

「セシウム、来月セイジェに付いてザクバラへ行く者の中に、諜者を組み込めるか。中央の……、王城の動きを探りたい」

「畏まりました」

セシウムも立礼し、すぐに動き出した。




エルノートは背もたれに身体を預け、使節団の主使として向き合った時の、リィドウォルの言葉を思い出す。


『 我が国の民の利になるならば、全ての手は尽くしたいと思いますので 』


あれは、あの者の本音だ。

それは、ネイクーンで乳母に刺されても、休戦協定を結ぶことにこだわった姿勢に表れている。

それが本当にザクバラ国の為になるのかは、他国人のエルノートには分からない。

しかし、尽くす手がどういうものであれ、リィドウォルは確かに、全てを縣けているように思えてならない。


「何もないはずはない……」

エルノートは薄青の瞳を細めて、机上に広げられた親書を見詰めた。






日の入り鐘を一刻過ぎて、西部国境地帯の拠点では、今夜もセルフィーネの楽し気な声がしていた。


「ザクバラ国にも、リグムの果樹園があるのを見つけたのだ。収穫がとても忙しそうで、子供達もたくさん手伝っていた」

艷やかな赤い実を、収穫した先から子供達が木箱に詰めていた。


「農村では、子供も重要な労働力ですからね」

相槌を打ちながら、ラードがカップにお茶を注ぐ。

「今日、ザクバラ側の堤防建造現場に行ったのですが、作業員達の話では、今年の水の季節に入って魔獣被害が少ないそうで、収穫量は近年で一番ではないかと言っていましたよ」

マルクがカップを受け取って言った。


魔獣は、人や家畜を襲うものばかりではない。

田畑を荒らす害獣扱いのものや、鉱山で鉱物を食い荒らし、大規模な討伐隊が組まれるようなものまで、様々だ。

ザクバラ国には、近年特に魔獣の出現が多く、果実の収穫前に魔獣に荒らされることも度々だったようだ。



「セルフィーネのおかげだな」

「私の?」

カウティスが笑顔で言うので、セルフィーネは首を傾げた。

「そなたの魔力が三国に広がって、今月から特に回復が進んでいる。きっと、その影響だ。……ザクバラ国は、これからもっと魔獣の出現が減るだろう」

結局は、まだセルフィーネに守られているのを認めたようで、カウティスは何となく悔しい気持ちが湧く。

しかし、セルフィーネは嬉しそうな声で言う。

「もしそうなら、嬉しい。どこの国でも、民が笑っていられるのが一番だから」


カウティスは、ふと息を吐いて黒い眉を下げた。

セルフィーネにとっては、既に三国の民は等しく、見守るべき大切なものなのだろう。


セルフィーネが慈しみの心で民を見守るように、自分もまた、心からネイクーンの民を大切に思っているつもりだ。

それなら、守られるのが悔しいなどと、一人で情け無いことを考えている場合ではない。

自分が民の為に出来ることを、もっともっと探せば良い。

そしていつか必ず、セルフィーネと共に民を見守っていると、自信を持って言えるようになる。


「……セルフィーネに負けないよう、私ももっと精進せねばな」

呟くカウティスの密かな決意の横顔を見て、ラードは黙って小さく笑んだ。



「それにしても、いつもザクバラ国内を見ているのか?」

会話をしていると、セルフィーネは果樹園だけでなく、地方の民の暮らしを見知っている様子だ。


「神殿で回復している間、人間の生活を良く見ておこうと思ったのだ。私は思っていたよりも、人間の当たり前の生活をよく知らなくて……」

言い淀むセルフィーネに、カウティス達は顔を見合わせる。

「……人間が髪をくのは知っているが、どうやるのかはよく知らないし、カウティスの騎士服の着方は知っているが、ドレスの着付けは知らない。リグムジャムの味は知っているが、……作り方は……知らない……」


ジャムの味を知った時のことを思い出して、思わず声が小さくなっていくセルフィーネだったが、カウティスも彼女のその反応に、血が上りそうだった。


「人間の生活に興味を持たれたのですか?」

カウティスの反応には気付がなかったが、魔力の纏まりが温かな色合いで揺れているので、マルクが尋ねた。

セルフィーネはコクリと頷く。

「……実体を持った時に、人間の生活を知っている方が、カウティスと一緒にいられるかと思って……。気が早かったか?」

「そんなことはない!」

カウティスが食い気味に答えた。


誰に何を言われたわけでもなく、実体を手に入れた後の事を、セルフィーネが自主的に考えていることに感動した。

想像することが苦手だというセルフィーネが、自分との未来を想像し始めている。


「知りたいことを、色々見ておくと良い。実体を手に入れた後の事も、きっと想像出来る」

「手に入れた後の事……」

カウティスは微笑んで、香りのする方へ手を伸ばした。

「そうだ。もうすぐそなたは実体を手に入れて、俺の下に戻る。そして、ずっと一緒に生きていくのだから」 

セルフィーネの胸に温かな光が灯る。


カウティスの手を握り、セルフィーネは微笑んで頷いた。




日付が変わる少し前に、セルフィーネとカウティスは離れる。


「また、明日にな」

澄んだ青空色の瞳を細めて微笑むカウティスに、セルフィーネの胸は強く引かれる。

どうしようもなく愛しい気持ちが溢れて、そっと歩み寄り、黙って彼に口付けた。


「っっ、セルフィーネ、ザクバラへ戻したくなくなるだろう……!」

こっそりと口付けたつもりだったのに、カウティスにはあっさりとバレてしまって、抱きしめられて驚いた。

「分からないと思ったのに……」

ドキドキしながら小さく言うと、カウティスが頭上で熱い息を吐いた。

「そなたの気配も香りも、俺には分かるのだぞ。……確かにまだ実体はないが、もう、ずっと前から、俺はそなたをちゃんと感じている」


セルフィーネの頬がサァと色付く。

胸が熱くて熱くて、苦しい。


「………………嬉しい」


苦しくて、幸せで、それだけ言うのが精一杯だった。






日付が変わるギリギリに、セルフィーネは国境を越えた。


雲に半分覆われた月を見ながら、ザクバラ国中央のオルセールス神殿に戻った。

天井から、スルリと祭壇の間へ滑り込む。



今夜は、長椅子の最前列にリィドウォルが座っていた。

顔色があまり良くないように見えるのは、祭壇の間が薄暗いせいではない気がする。

水盆に水が張ってあるのを確認して、セルフィーネは声を出した。


「もう、体調は良いのか?」

声を掛けられたことに驚いたのか、リィドウォルは黒い文官服の肩を僅かに震わせた。

「……体調?」

「昨日は、王城の寝台で眠っていたようだったから」

リィドウォルは眉根を強く寄せる。

「王城を見たのか? 陛下も?」

「色々な所を見ていて、おぬしが具合悪そうに眠っていたのを、偶然見付けただけだ。国王の所は見ていない」

正直言って、国王の居所は見るのも避けたかった。

「そうか……」

リィドウォルが、安堵なのか落胆なのか分からない息を零した。




「それよりも、あれは……ネイクーン王国の魔術士では……?」


セルフィーネは、入口付近に人がいることに気付いた。

昨日と一昨日、ここに来ていた高位魔術士と、護衛騎士が一人の若い魔術士を連れていた。

後ろ手に拘束されている若い魔術士が着ているのは、ついこの間までマルクが着ていたのと同じ、ネイクーン王国の魔術士が纏う緑色のローブだ。

「そうだ。あの者だけでなく、ネイクーンの魔術士を後五人、留置場に入れてある」

「留置場……。何故?」

長椅子に座ったまま、何の表情も表さず、リィドウォルはセルフィーネを見上げた。



「今この時より、お前がこの祭壇の間を一歩でも出れば、ネイクーンの魔術士の片腕を折ることにする」




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