暗流

水の季節前期月、二週五日。



ザクバラ国の王城に、タージュリヤ王太子が帰ったのは三日ぶりだった。

即位後の足固めの為、数日中央を離れて地方領地に出向いていた。


王城に入ってすぐ、王が意識を回復していると知らされ、取り急ぎ身支度を整えて王の居室に入ったのは、午後の二の鐘が鳴った頃だった。



  

タージュリヤは王の居室に入る。

部屋の中は、もう薬香は焚かれていなかった。


彼女は前室の向こうにある寝台を見て、息を呑む。

何重にも垂らされていた天蓋が、頭側を残して全て巻き上げられている。

中央の巨大な寝台の上には、大きなクッションで支えてはいるが、背筋を伸ばして上体を起こした王が座っていた。


タージュリヤは濃紫のドレスの裾を捌き、部屋に染み付いた薬香の香りの中、寝台へ近付いた。

大柄な王の身体は、相変わらず痩せ細り枯れ木のようだったが、伸びた灰墨色の髪は一本に編まれ、まばらであった髭は剃られて、顔周りはすっきりしていた。


「陛下、タージュリヤでございます」

寝台の側に立って立礼し、軽く伏せた目を開けば、王が寝台の上で首を捻り、タージュリヤを見ていた。

落ち窪んだ目が動くのは何処どこか作り物のようだったが、その黒眼には、確かに生の輝きと懐かしい光が灯る。

「……タージュリヤ、我が愛しい孫娘よ」

声は掠れていたが、その語調は柔らかだった。

タージュリヤは思わず膝をついた。

王が差し出した、骨の浮き出た手を取る。

「御祖父様、よくぞお目覚めに」

王は目を細めて小さく頷いた。




「そなたは、ようも政変を成した。本来ならば、そなたの父がせねばならぬことであったのに、役割を放棄したまま逝ったか……」

国王は既に、リィドウォルや侍従頭から、この二年間の出来事等はおおむね聞いているようだった。


「私が不甲斐ないばかりに、苦労をさせた」

「いいえ、御祖父様。御祖父様の跡を継ぐ者として、成すべきことを成しただけです」

タージュリヤの頬を、骨の浮いた固い指が撫でた。

「良い面構えだ」

満足そうに王は微笑んだ。



王は、掠れた声でゆっくりと話す。

時折痰が絡むように咳払いするが、咳き込んで話が止まるようなことはなかった。


タージュリヤは、祖父の回復に舌を巻いた。

これだけ話していても、意識が混濁する事もなく、疲れた様子もあまりない。

せめて、意識を保ってそれなりに会話できるまで回復してもらいたいと思っていたが、ここまで短期間に回復するとは思っていなかった。

これも竜人の血を継ぐ血筋だからなのだろうか。



「陛下、この二年間の事をお聞き及びなら、私が譲位の準備を進めていることもご存知だと思います。このまま進めることを、お許し頂けますか?」

背筋を伸ばし、改めて緊張の面持ちで尋ねるタージュリヤに、王は小さく何度も頷く。

「勿論、そなたが王太子であるからには、次の王はそなただ。順を追って準備を整えよう。しかし、まずは婚姻が先である。聞けば休戦の条件としてネイクーン王国から王弟を迎えるとか。身辺を整えて、より確固たる王太子の座を築くことから始めねばならぬ」


「……はい、陛下」

タージュリヤは一瞬躊躇ためらったが、深く頷いた。


王が譲位を認めたことで、今は十分であると思えた。

何せ王は、意識がしっかりとして、会話が出来るようになったばかりだ。

それに、国王が存命しているのならば、せめて婚姻という大きな節目を越えてからでなければ、容易に即位には辿り着けまい。

タージュリヤはもうすぐ20歳という若さで、王太子として正式に立ってから、まだ季節一つ分しか経っていないのだから。




「して、水の精霊が三国共有となったというが、呼び出す為にはどのようにしている?」

さすがに疲れてきたのか、王が深く息を吐いて、背に当てた大きなクッションに体重をかけた。

「今は、水の季節前期月の二週ですから、ネイクーン王国にいるはずです。我が国に滞在するのは五、六週になりますから、五週目に入ってから、水盆に呼び掛ければ現れるかと」

タージュリヤが几帳面に説明すると、王の眉がピクリと動いた。


「……共有であるというのに、他国にいる時には召喚に応じないというのか?」

「三国の協約では、そういう取り決めになっております」

王は唸るような音を喉から響かせて頷いた。


「…………少し休む」

そう言って王が目を閉じてしまったので、タージュリヤは立礼し、後を侍従頭に任せて下がった。






日の入りの鐘が鳴って一刻半。

セルフィーネは、拠点の居住建物の広間にいた。


今夜日付が変わると、セルフィーネはフルデルデ王国へ移動する。

フルデルデ王国へ滞在する二週間は、二国間を行き来しても良いことになっているので、水源にさえ問題がなければ明日またカウティス達と会える。

それが分かっているので、以前よりも随分心持ちは違う。

しかし、セルフィーネにとっては、やはりネイクーン王国を出なければならない決まりの夜は、胸がサワサワと落ち着かない気持ちになった。


「明日、またここに来ても良いか?」

「勿論だ。というか、俺はそなたが帰ってくるつもりだったぞ」

セルフィーネが聞けば、カウティスが当然のように言って笑った。

「お待ちしております」

マルクとラードも頷く。

ようやく魔術符を額に貼らなくなったハルミアンが、人差し指を立てる。

「セルフィーネ、王子に会いたいのは分かるけど、ネイクーン王城の魔力集結も活用して、ちゃんと回復するんだよ?」


夜は月光神殿の祭壇の間が一番回復出来るが、日中は泉の庭園に造られた覆いの方が、若干回復量が多いかもしれない。

何にせよ、ネイクーンへ戻れるからといって、ずっとカウティスの側にいれば回復は出来ないのだ。


回復したいが、カウティスの側にもいたい。


板挟みではあるが、実体化を目指す以上は回復優先だ。

「………………分かった」

返事までの間に物凄い葛藤が感じられて、ハルミアンは苦笑した。




日付が変わる直前まで、セルフィーネはカウティスの部屋にいて、二人きりで過ごしていた。

カウティスは見えないセルフィーネを抱きしめて、朝露のような蒼い香りを深く吸い込む。



「アナリナには、私の新しい姿を見せようと思う」

カウティスの胸に添っていたセルフィーネが言う。

「相当驚くだろうな」

セルフィーネが前の半実体を手に入れたのは、アナリナがフルデルデ王国へ移動してからだった。

水盆の上に現れていた人形ひとがたしか知らないのだから、新しい姿を見れば驚くに違いない。


「火の季節に帰って来る頃には、きっと拠点ここでも姿を見せられるだろう」

以前のように、ここでセルフィーネを抱きしめる。

それを想像すると、カウティスの胸が高鳴る。

「楽しみだな」

「楽しみだ」

不安なこともあったはずなのに、今は素直に『楽しみだ』と言えて、セルフィーネは幸せな気持ちになった。


「……カウティス、好きだ」

小さな声で言えば、カウティスは頬を緩めたくせに顔を僅かに反らす。

「そなたは、マルクもラードも、ハルミアンも好きなのだろう?」

セルフィーネはカウティスを見上げて、目を瞬いた。

「……もしかして、この間のことを根に持っているのか?」

この間、皆を好きだと言ったら、カウティスが不服そうな顔をしていた事を思い出した。

「別に。そなたが俺を一番好きなことは、十分に分かっている」

口ではそう言うのに、カウティスの口は僅かに歪んでいて、セルフィーネはふふと笑った。

「笑うところか?」

眉根を寄せ、より歪ませたカウティスの口元に、セルフィーネは見えない手を伸ばした。


以前はカウティスが妬くと不安になったのに、今は何だかくすぐったくて、胸の奥が引かれたような気分になる。


「……早く、触れて欲しい。こんなことを思うのは、カウティスだけだ」

カウティスの眉根が開いて、はあと熱い息を吐いた。

「ずるいぞ、セルフィーネ。そんなことを言われたら、もう何の文句も言えないではないか」

「やっぱり根に持っていたな?」


二人は共に笑って、日付が変わるギリギリまでそうして添っていた。





日付が変わり、水の季節前期月、三週一日。


雲が多く、月光の乏しい空を駆け、セルフィーネはフルデルデ王国へ入った。


前と同じように王都のオルセールス神殿に向かうと、月光神殿の祭壇の間に降りた。

しかし、アナリナの気配がない。

それで、そこから視界を広げてアナリナを探した。


アナリナは、フルデルデ王国の西に位置する、ザクバラ国との国境に近い街にいた。

その街の神殿の前庭で、夜空を見上げている。

セルフィーネは、アナリナは自分を待っているのだと感じて、すぐに空を駆け、そこへ向かった。



「セルフィーネ!」

空を駆けて神殿の前庭に降りると、水路の前で待ち構えていたアナリナが、大きく手を振って迎えてくれた。

「久し振りね! 絶対気付いてくれると思って、待ってたの」

アナリナが青銀の髪を揺らして微笑んだ。


「巡教中か?」

「そうなの。今月の後半に西部こっちへ出発の予定だったんだけど、王女様の降嫁先に集団で怪我人が出たとかで、助けを求められて前倒しになったのよ」

アナリナが悪戯いたずらっぽく笑う。

「今夜はこっちの神殿に来る?」

「良いのか?」

「言ったでしょう? 今フルデルデ王国で、私に異議を唱えられる神殿関係者はいないの」

アナリナがわざとらしく胸を張って見せる。

ふふ、と笑うセルフィーネの魔力が、嬉しそうに輝いた。

「では、一緒にいる。アナリナに話したいこともある」

「私もあるわ。今夜は二人で夜更かしね!」




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