信頼関係 (後編)
臙脂色の鳥はふらついたように下がって、泉の縁から落ちた。
黒い地面に落ちる前に羽ばたいて、縁に舞い戻る。
「な、何で? 何で教えちゃうのっ!?」
黒い嘴をパクパクさせて、ハルミアンは上擦った声で叫んだ。
セルフィーネは首を傾げる。
「ハルミアンが興味があると言うから。言ってはいけなかったか?」
「駄目に決まってるじゃないか! 聖職者じゃないって管理官を
臙脂色の鳥は、抗議のように羽根をバタバタとさせながら言う。
しかし、セルフィーネはキョトンとしていた。
「私は神聖力を持っているが、聖職者ではない。それに、ハルミアンになら教えても問題ないだろう?」
「どうして? 僕が悪い事に利用したらどうするのさ! もしかしたら、オルセールス神聖王国に君を差し出すかもしれないよ!?」
セルフィーネがあまりにもあっさりと聖紋を認めた事に、何故か理不尽にも苛立って、ハルミアンは
しかし、セルフィーネは当然のように言った。
「そんなことは有り得ない」
鳥は、ぱかと嘴を開いた。
「…………何で?」
「ハルミアンは、何があっても私の味方だ。以前、そう約束してくれた」
ハルミアンは息を呑んだ。
『 同じ妖精界に住まう者として、長い命を持つ者として、君の側で進化を最後まで見届ける。何があっても、君の味方でいるよ 』
以前、そう言って約束した。
セルフィーネは、それを信じているのだ。
言葉を失くしている鳥を見下ろし、セルフィーネは微笑む。
「あの時、とても嬉しかった。今はまだこんな不充分な魔力だが、私もいつか、ハルミアンの役に立ちたい」
鳥は嘴を震わせ、小さな身体を細くした。
「……どうしてそんなに信用してくれるの? 僕は、ネイクーンの人間でもないのに」
「マルクが教えてくれた。何処の国の者でも、私が信用できると思えば信じてみても良いのだと。考えてみれば、既にハルミアンはそういう一人だったな」
セルフィーネは心地良さそうに息を吸って言った。
「本当にここは、とても心地良い……」
ガラスの覆いの中で、魔力の纏まりが複雑に美しく輝く。
「いつも私を助けてくれて、ありがとう。私は、ハルミアンが好きだ」
セルフィーネの素直な言葉が、ハルミアンの胸に刺さった。
西部国境地帯の聖堂建築予定地に、ハルミアンは視界を戻す。
作業員達の休憩所から少し離れた大きな木の根元に座り、王城に使い魔を飛ばしていたのだ。
目を瞬いた途端、焦茶色の瞳がハルミアンを覗き込んでいて、驚いて飛び上がる。
イスタークが側で片膝をついていた。
「わっ! な、何!? どうしたのっ」
その反応に、周りに出来ていた
「エルフの坊や生きてたぞ」
「なんだ、驚かすなよ」
ハルミアンは状況が分からず、キョロキョロと辺りを見回す。
どうやら、休憩中の作業員達が集まって来ていたようだ。
「やはり使い魔を飛ばしていたのか」
イスタークが、安堵したように小さく息を吐いた。
側で険しい表情をしていた聖騎士エンバーも、表情を緩める。
「まったく、人騒がせな。使い魔を使うなら、誰からも見えない場所でやるか、一声掛けてからやりたまえよ」
イスタークが立ち上がって、膝に付いた土を払う。
周りの人々が、わいわいと雑談しながら散っていく。
そこで初めて、ハルミアンは状況を理解した。
視界だけでなく、他の感覚も同調させた使い魔を遠くまで飛ばせば、その間術者の感覚は鈍くなる。
反応なく座り込んでいたハルミアンを、誰かが倒れているのかと勘違いしたのだろう。
それできっと、
「……ごめん。少しだから大丈夫だと思ったんだ」
ハルミアンが小さくなると、イスタークは溜め息混じりに言う。
「皆、心配してくれていた。後で礼を言うと良い」
そう言いながら彼が緩めた襟元に金の珠を仕舞うのを見て、ハルミアンは目を瞬いた。
使い魔を飛ばしているのだろうと思いながらも、もしもの時の為に、金の珠を握ろうとしてくれていたのだろうか。
「……君も、心配してくれたの?」
「具合の悪い者がいれば、心配して当然だろう。私は聖職者だ」
聖職者としてと言うのに、さっき側にあった顔が友人を気遣うものだったように見えたのは、きっと願望のせいじゃない。
フォーラス王国で一緒にいた頃と雰囲気は随分違うのに、久し振りに間近で見た焦茶色の瞳は、あの頃と全く変わらなかった。
ハルミアンの胸の奥が、どうしようもなくギュッと引かれる。
「ありがとう。……僕は、君が好きだよ」
セルフィーネの素直な気持ちに触れた直後だからだろうか、ハルミアンの心からの気持ちが溢れた。
イスタークは面食らって、焦茶色の瞳を見開いた。
「君は……急に何を言っている」
「……あの頃から、ずっと君のことが大好きだった。あの時、変な自尊心で誤魔化したりせずに『君と一緒にいたいから、行かないで欲しい』って言うべきだったんだ」
フォーラス王国でハルミアンと別れた時のことを言っているのだと分かって、イスタークは濃い眉を強く寄せる。
「言ったはずだ。君が何と引き止めても、結果は変わらなかったと。今更何と言っても私が魔術士に戻ることはない。なぜ何度も蒸し返すんだ」
ハルミアンは緩く首を振る。
「馬鹿だよね。でも、ただ正直な気持ちを伝えるべきだったんだって、今頃気付いたんだよ。……君との時間はとても素晴らしいものだったって。魔術士でなくなっても、これからも君との時間を持ちたいんだって、言えば良かった」
イスタークの眉根が僅かに開いて、困惑が滲む。
「…………魔術士でなくても? 何を言って……。それではまるで……」
それではまるで、私という一個人を大事に思っていたように聞こえるではないか……。
ハルミアンは、真っ直ぐに立ってイスタークを見詰めた。
カウティスに感謝を伝えられた時、セルフィーネに信頼を示された時、彼等の気持ちが直に届いた。
誤魔化して、別の方法で願いを叶えようとする自分の胸に刺さり、酷く揺さぶられた。
心からの気持ちは、きっとあんな風に伝えなければいけなかったのだ。
「魔術士でも聖職者でも、イスターク、君という人が好きなんだ。僕は君の側にいて、君の役に立つ者でいたい」
ハルミアンの深緑の瞳が、曇りなく輝く。
イスタークが目に見えて
額を押さえ、視線を逸らす。
「待て、君がその、……好意を向けてくれていることは分かった。だが私は聖職者で、君は魔法士だろう。私の為に役に立ちたいと言われても……」
その様子で、ようやく気持ちの欠片が彼に届いたのだと、ハルミアンは嬉しくて小さく笑った。
「うん、僕もどんな役に立てるか分からない。だから、ちゃんと自分の力で役に立てるように、これから何が出来るか考える。……だから、水の精霊の聖紋は探さないことにするよ」
エンバーが僅かに目を
「……水の精霊の聖紋?」
狼狽えていたイスタークが、目を瞬いて額から手を下ろす。
「自分の努力以外で役に立とうなんて、虫のいい話だった。ごめん、やっぱり僕には出来ないや」
ハルミアンの視線が自分の後方にあるのに気付き、イスタークはエンバーを振り返った。
その表情は、高位聖職者のものに戻っている。
「……どういうことかな、エンバー」
「お聞きの通りです。水の精霊の聖紋を探すよう、ハルミアン殿に依頼しておりました」
エンバーは姿勢を正す。
「私はイスターク様に、いずれは聖王の座に就いて頂きたいのです。その為にも、
「よく分かった」
イスタークが手を上げて、エンバーの話を切った。
「聖騎士エンバー。今ここで、私の専属聖騎士の任を解く」
エンバーが鋭く息を呑んだ。
「代わりの聖騎士は追って召喚する。君は即刻本国に帰還するように」
「お待ち下さい! 何故ですか!? イスターク様の専属は、ずっと私が任されております!」
「任命権は
イスタークは、有無を言わさぬ強い口調で言って、固い瞳でエンバーを見据える。
「管理官が無しと判断したものを、なぜ一般人に確認させようとする? 聖職者の矜持は何処にいったのだ、エンバー」
エンバーは顔を歪め、反論する。
「お言葉ですが、水の精霊は特殊です。我々が触れられない者を確認するには、一般人であろうともハルミアン殿に頼む他に手はありません」
「聖職者の力で確認できないのなら、それは既に神の意志だ。一般人に任せるものではない」
何の
「神聖力という特別な力を持つ者が、多くを捨ててでも聖職者として生きるのは、それが神から直接与えられた
イスタークよりも、頭一つ分大きな身体のエンバーが、完全に押されていた。
イスタークの覇気に、思わず一歩下がる。
イスタークの固い瞳には、今や怒りと共に聖職者としての誇りが溢れていた。
「その役割を果たす為に、神聖力を持たない者を利用するなど、勘違いも
エンバーがその場で膝を折る。
「イスターク様! どうかお聞き下さい! 私は……!」
しかし、イスタークはにべもなく彼から視線を外した。
「聖騎士エンバー。君は私の信頼を損ねた。本国に戻り、もう一度聖騎士としての在り様を見つめ直しなさい。これは命令だ」
「猊下!」
少しも視線を戻さないイスタークに、エンバーは一度乞う様にハルミアンに視線を向けたが、すぐに逸らし、歯軋りするようにして頭を下げた。
「…………では、せめて、代わりの聖騎士が到着する迄お側に。お一人の時に猊下に何かあれば、責任を負う者は私一人ではありません」
「……許可する」
そう答えたイスタークの声に、エンバーに対する親しみはもうなかった。
半ば呆然として、二人の遣り取りを見ていたハルミアンのところへ、イスタークが近付いて目礼する。
「ハルミアン、聖職者の立場にある者が、身勝手な理由で君を惑わせたようだ。謝罪する」
「そんな……」
エンバーの提案を受け入れたのは自分だと言いそうになったが、今の二人の遣り取りを見ていて、これが
「…………謝罪を、受け入れます」
よく考えてから、呟く様に口にしたハルミアンに、イスタークは、再会してから初めて彼に微笑んだ。
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