発声練習
日の入りの鐘が鳴り、既に暗くなっていた空で、太陽が月に替わる。
その頃になって、王城の前庭はようやく静けさを取り戻していた。
新王の即位は神事のみだと前もって通達していたにも関わらず、王城の大門から前庭には、民が次々と祝いに訪れた。
一目新王の姿を見たいと思う者、祝いの言葉を投げたい者など様々だったが、どういう形であれ、新王即位を歓迎する国民感情の表れであった。
もしやそんなことも有り得るかもしれないと、新騎士団長の指揮の下、城外は勿論、城下や街道にもある程度の衛兵は配置されていたが、予想以上の人出に一時は混乱もあった。
エルノートの気持ちとしては、民に姿を見せたかったが、一度姿を見せては、話が広まり更なる人出に繋がってしまう。
大々的な祝いの催しは、フルブレスカ魔法皇国への反意ありと
「即位された当日だというのに、まだお仕事をなさるおつもりですか、陛下?」
改めてエルノートの執務室となった王の執務室で、まだ机の前に座って何やら文官達に指示を出している彼に、部屋に入って来たメイマナ王女が笑い含みに言った。
既に日付けが変わるまで一刻を切っている。
だが、貴族院との祝賀の宴を終えて、慌ただしい一日を締め括ろうという時間になっても、新王はまだ今日という日を終えるつもりはないらしい。
執務机に近付いて覗くと、どうやら、城下や近隣の町村に張り出す文書を制作していたようだ。
「祝賀式典が行われないと分かっていても、即位を
側に立ったメイマナは、ふっくりとした手を口元に当て、ふふと笑っている。
「いえ。即位式典が延期となった時は、一体どんな静かな一日になることかと思いましたが、実際は一日中、幸せで慌ただしい日だったと思いましたの」
自分の事のように嬉しそうに笑うメイマナを見て、エルノートはペンを置いた。
文官に最後の指示を出し終えると、立ち上がってメイマナの身体を引く。
「……慌ただしい一日だったが、確かに幸せな一日でもあったな」
幼い頃から思い描いていた国王というものになったのだという実感と、これから始まるのだという緊張感で、まだ昂ぶっている。
だが、そういう日を皆が共に喜んでくれている事を感じて、幸せな気持ちになった。
「即位おめでとうございます、陛下」
腕の中で、メイマナが微笑んで言った。
エルノートは彼女を抱く腕に力を込める。
「……この幸せな一日を、婚約者殿の胸に抱かれて終えたいのだが、良いだろうか」
「はい、……喜んで」
腕の中の体温が一気に上昇した気がして、それもまた幸せなことだと、エルノートは思った。
月光降り注ぐ夜、カウティスは泉の庭園にいた。
石畳を剥がされた庭園は、土の湿った匂いが混じっている。
「……控え目だが、盛り上がっている所はあるな」
泉から、セルフィーネの声がする。
城下の様子を見ているのだ。
喪中なので、盛大に祭りを行うわけには行かないが、街中様々な所で新王即位を祝っているのが見えていた。
カウティスも今日は、午後に近衛騎士達と城下に下りた。
祝う民の気持ちは嬉しいが、出来るだけ抑えるようにと呼び掛けに行ったのだが、新王の近衛騎士隊ということで、逆に
しかもカウティスは、王弟で最側近という認識をされている。
危うく騒ぎを大きくしそうだったので、早々に引き上げた。
「まあ、まだ抑えてくれている方だよな。これくらいなら、許されるだろう」
苦笑気味に言うカウティスは、言葉とは裏腹にとても楽しそうだ。
「即位を皆が祝っていて、嬉しいのだろう?」
「ああ、嬉しい」
子供の頃からずっと憧れ、目標にしてきた自慢の兄だ。
自分だけでなく、多くの民が兄を慕い、即位を喜んでいるのを感じて嬉しい。
兄が王になり、自分が側で力になる。
子供の頃から夢見ていた未来が、ようやく目前に開けた気がした。
「それに、体調もずっと良くなられたようだ。もう安心だな」
セイジェから聞いた話では、エルノートの薬の量は格段に減って、睡眠薬に頼らず夜を越せるようになっているらしい。
悪夢を見ることは、まだたまにあるようだが、そういう時は薬に頼らず、夜中の散歩をして気分を替えているという。
メイマナ王女とバルコニーで星を見ている事もあるというから、きっと何もかもを一人で呑み込むことは減ったのだろう。
「心に添う相手を見つけるというのは、奇跡のようなことなのかもしれないな」
泉の側で夜空を見上げ、カウティスは微笑んで言う。
「…………カウティスも、そういう相手が欲しいと思うか?」
噴水の水音に消されそうな程、細い細い声がした。
カウティスは、泉を見て笑う。
「俺にはそなたという者がいる」
「……でも、私は……」
カウティスは愕然とした顔で泉に身を乗り出す。
「セルフィーネ、まさか、俺の求婚を忘れた訳ではないだろうな? 俺の生涯の相手は、そなただぞ」
「忘れていない! 忘れてはいないが……。すぐにそなたの側に戻れそうにないから……」
尻すぼみに消えてしまいそうな声だ。
カウティスは身を起こして、両腕を広げる。
「セルフィーネ、おいで」
セルフィーネはカウティスの胸に添う。
朝露のような蒼い香りが、鼻先をくすぐるのを感じて、カウティスはそっと彼女を抱きしめる。
「何を弱気になっている? 俺は約束通り、そなたが戻るまで、いつまでだって待っているぞ」
「…………お爺さんになってしまったら?」
セルフィーネの心細い声がする。
カウティスはわざと不機嫌そうな顔をして見せた。
「何だ? 俺が年寄りになったら、相手にしないつもりなのか?」
「そんな訳ない。子供でも、年寄りでも、カウティスが好きだ」
頬が緩みそうになるのを堪えて、カウティスは頷く。
「ならいい。年寄りになっても待っている」
セルフィーネは何も言わない。
昨夜戻った時の事を思い出し、カウティスの胸は痛んだ。
セルフィーネにとって、ザクバラ国の十日間はとても辛いものだったのだろう。
しかし、ただ大気に溶けて十日間を過ごしただけで、ここまで気力を損なったのだろうか。
それとも、ザクバラ国の誰かと接することがあったのだろうか。
だとしたら、ザクバラの者達はどのようにセルフィーネを遇したのだろう。
ふと、前々から
リィドウォルが、セルフィーネに手を伸ばしていないだろうか、と。
セルフィーネの魔力を舐めるように見ていたあの目を思い出し、カウティスは思わず拳を握る。
水の精霊が三国のものとなった今、リィドウォルが何もしない訳はないと思えた。
リィドウォルに会ったかと、喉元まで出かかった問いを、無理矢理飲み込む。
気分を変えようと、カウティスはわざと明るい声を出した。
「フルデルデ王国では、アナリナとも話せたのか?」
セルフィーネの気持ちが浮きそうな話題として、アナリナの名を持ち出した。
「話せた。アナリナはとても元気だった。フルデルデ王国の国風と、とても合っているように感じた」
セルフィーネの声が少し元気を取り戻したので、カウティスは内心ほっとした。
「国風? 例えば?」
「フルデルデ王国は明るくて、とてもおおらかだ。神殿の外へ出れば、治療院や孤児院では細かいことは言われないらしい」
思わずメイマナ王女を思い浮かべて、微笑む。
「確かに、アナリナには合っていそうだな」
「のびのびとしていたぞ」
セルフィーネが小さく笑う。
ネイクーンでは、度々女神官に叱られていたアナリナだ。
細かくあれこれと言われないのは、きっと嬉しいだろう。
「フルデルデ王族にも会ったのか?」
「何人かには会った。女王は頼れる母親のようで……」
言いかけたセルフィーネの言葉が切れた。
「セルフィーネ?」
セルフィーネは、フルデルデ女王の言葉を思い出した。
『 三国共有は始まったばかりだ。これからどうなるかは分からないからな、焦らず、出来ることからだぞ 』
そうだ、まだ始まったばかりだ。
それなのに、この心細さはどうした事だろう。
魔力が消耗すると、これ程心も弱くなるものだろうか。
焦らずに、回復するところからだと分かっているのに、リィドウォルに水盆から言われたことが重く沈んだままだ。
『お前はザクバラ国のもの』
『ザクバラ国領土から出ることは許さない』
ネイクーンに戻ったというのに、まだ身体中に
セルフィーネが黙ってしまったので、カウティスは少し考えてから、強い声で言った。
「よし! 発声練習するか」
突然降ってきたカウティスの言葉に、セルフィーネは思考が止まる。
「…………発声……練習?」
「ほら、そなたは昨日から声が出てない」
セルフィーネはカウティスの顔を見上げて、思わず目を瞬く。
消耗していて、確かに昨日はまともな声が出なかったが、人間の発声練習が必要とは思えない。
「セルフィーネ、俺に続いて声を出せ」
言ってカウティスは、スウと息を吸うと叫んだ。
「ネイクーンが大好きだーっ!」
「カウティス、今は夜だ。そんな大声で……」
驚いてセルフィーネが止めると、カウティスは眉を上げる。
「なんだ、小さな声だな。声を出せと言っただろう。ほら! ネイクーンが大好きだーっ!」
「カウティス! カウティス、待って!」
戸惑ってカウティスの口に両手を当てるが、見えないセルフィーネの手を当てても、口は塞がらない。
「私はネイクーンの精霊だーっ! ははっ、何だか楽しくなってきたぞ」
本気で楽しそうに笑うカウティスに、セルフィーネは戸惑いながらもドキリとした。
「
『 何の制限もない 』
その一言が、セルフィーネの心に染み入る。
そうだ、ここはネイクーン王国で、目の前にはカウティスがいる。
見上げると、カウティスの青空色の瞳がこちらを見ていた。
「私は……、私はネイクーンが大好きだ……」
セルフィーネはカウティスを見詰めたまま、声を出す。
「……私はネイクーンの水の精霊だ」
やっと言いたいことを言うつもりになったセルフィーネに、カウティスは笑みを深めた。
「まだ小さいぞ、もっと大きな声で言え!」
「私はっ……私はネイクーン王国の水の精霊だ!」
セルフィーネは大きく息を吸った。
「私は、ザクバラ国のものじゃない!」
セルフィーネが叫んだ言葉に、カウティスは思わず言葉を失った。
「ザクバラ国のものじゃないっ! ザクバラ国のものじゃ……」
「セルフィーネ!」
悲痛な叫びを聞いて、せめて今だけでも力一杯抱きしめてやりたいと、カウティスは切に願った。
皮手袋の右手を握り締め、空に白く輝く月を強く睨む。
神聖力を与え、進化の可能性を示したくせに、勿体ぶってセルフィーネを苦しめるのはやめろ!
俺達の絆を思うように利用しようというのなら、代わりに今! 力を貸せ!
睨んだまま、カウティスは心の中で月光神に熱く叫んだ。
――――力を貸せっ!
右掌が、チリと焼けた。
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