水盆からの声

光の季節前期月、六週二日。

リィドウォルは、ザクバラ国の魔術士館へ足を運んだ。


日の入りの鐘が鳴ってから、既に二刻は経とうというのに、魔術士館の中には多くの魔術士達が残っていた。


「宰相閣下」

リィドウォルと同年代の魔術師長が気付いて立礼すると、次々と魔術士達がそれに続く。

「私に立礼する必要はないと言っただろう、ジェクド」

リィドウォルが皮肉めいた笑いで魔術師長を見る。

魔術師長ジェクドは軽くリィドウォルを睨み、フンと鼻を鳴らす。

「あれ程、魔術師長に押してやったのに、俺に押し付けて意地でも文官を貫きやがって。しかも、結局俺よりも上の宰相になったのだから、立礼くらい甘んじて受けろ」

リィドウォルは無言で口の端を上げた。



リィドウォルは、魔術素質の高い魔眼持ちだ。

魔眼の暴走を防ぐ為、幼い頃から魔術を学ぶことを義務付けられたが、本人はあくまでも文官志望であった。

貴族院からの命令で、仕方なく魔術士館に席は置いたが、階級は上げず、末位のままだ。

しかし、その攻撃的な魔術の実力は、魔術士館の誰もが知るところだ。

それでも、二十代の頃に王の許しを得た日から、先月宰相に就いた日までずっと、文官としての肩書を保ってきた。



「それで、水の精霊は?」

「報告によれば、ネイクーン王国との国境付近に移動したようだな」

リィドウォルの問いに、ジェクドは机の上に広げてあるザクバラ国の地図を見て、人差し指でベリウム川から少し離れた辺りを指す。

「先週、国内に入ってからずっとこの辺りにいて動かなかったが、今日の昼間初めて動いた。ここまで移動したらしい」

人差し指は、ベリウム川の川縁に動かされた。


リィドウォルは僅かに目を細める。

示された所は、対岸にネイクーン王国側の復興拠点がある辺りだ。


「フルデルデ王国へ嫁した魔術士からの報告では、水の精霊は、協約の十日間よりも二日早くネイクーンへ戻ったらしい。どうやら三国の協約に大人しく従うつもりはないようだな。我が国からも早々に立ち去るつもりかもしれんぞ」

どうする、とジェクドが視線で尋ねる。


「ザクバラ国は他の二国とは違うのだということを、水の精霊には教えておかねばならないな」

リィドウォルは軽く鼻で笑うと、近くにいた魔術士に向かって指示をした。


「銀の水盆を持って来い」






三国の協約に従い、ザクバラ国に入ったセルフィーネは、ネイクーン王国との国境から少し離れた空で、結局動けないまま数日を過ごした。


昼間は大気に溶けて、出来るだけ消耗するのを防ぎ、夜には月光を浴びて回復を目指すことを繰り返す。


しかし、他国ではそれで少しずつ回復できるのに、ザクバラ国では消耗する一方だった。

昼間は言うに及ばず、夜間に月光を浴びている時ですら、何か不快なものがまとわり付くような気がして、落ち着かない。

いっそのこと、目を閉じてしまおうかと考えたが、こんな不快な状態で目を閉じるのも気が進まず、また、万一思った時に目覚めることが出来なければ、来月一日のネイクーン王国に戻れる日を過ぎてしまいそうで怖かった。



ザクバラ国内に入って七日目、陽光の下で大気に溶けていたはずのセルフィーネは、あまりの息苦しさと、まとわり付く気配に耐えきれず動き出した。

せめて、月光神に浄化されたベリウム川沿いにいようと思った。

ザクバラ国内に留まる残り三日を、何とかそこでやり過ごせば、ネイクーンに戻れる。


ザクバラ国側の復興拠点や、町村を避けて、川沿いの上空に留まる。

しかし、そこまで戻ってしまうと、目を向けてしまうのは対岸だった。

拠点の建物の屋根が連なるのを遠目で見て、胸が潰れる気持ちになる。

いけないと思いながらも、上空から川原に下り立った。


キラキラと陽光を弾く川面が、セルフィーネを拒絶しているように見えて、眉を寄せる。

目前でサラサラと音を立てるベリウム川が、初めて境界線に思えた。



すぐ向こうに、カウティスのいる拠点があるのに。

空を駆ければ、すぐにでも彼の胸に飛び込めるのに。

セルフィーネは、もう動けなくなり、ただ対岸を眺めていた。





日の入りの鐘が鳴って、二刻。

ネイクーン王国の西部国境地帯では、拠点近くの川原にカウティスが走り下りた。

緑のローブを乱しながら後に続いたマルクが、対岸を指差す。

「王子! あそこに」

カウティスはマルクの指差す方に目を向ける。

魔術ランプを持って来たラードが、ランプを高く掲げた。


今夜は月光を遮る雲はないというのに、ザクバラ国側の対岸は、生い茂った木々のせいなのか、人の灯した明かりがないと真っ暗だった。


「セルフィーネ」

カウティスは対岸に目を凝らす。



対岸に水の精霊の魔力を見つけたのは、拠点に滞在していた緑ローブの魔術士だ。

七日前に拠点から出て行った時よりも、ずっと弱った水の精霊の魔力の纏まりが、まるでネイクーンこちら側に助けを求めるように対岸で震えていた。


知らせを受けたカウティスは、即座に川原へ向かった。

しかし、魔術素質のないカウティスには、対岸で震えているというセルフィーネが見えない。

そのもどかしさ以上に、二人きりの時以外は気丈な振舞いであることが殆どのセルフィーネが、助けを求めるように見えるという魔術士達の言葉に、カウティスの胸は突かれる。


「マルク、セルフィーネの様子は!?」

カウティスは対岸から目を逸らさずに、側に控えるマルクに聞いた。

「……ここを出た時よりも、魔力が弱くなっているようです」

マルクが拳を握る。


見上げる空の魔力も、セルフィーネがザクバラ国に入ってからというもの、少しずつではあるが輝きが鈍っている。

ハルミアンが心配していた通り、ザクバラ国の空気は、彼女にとって害になっているのだ。



「王子? 何をするつもりですか!」

突然、カウティスが靴を脱ぎ始めたので、ラードが砂利の上にランプを置いた。

対岸向こうまで行く。マルク、水の抵抗を下げてくれ」

「無茶です! 中洲へ行った時とは違う。何の準備もなしに、しかも夜間に川に入るのは自殺行為です!」

ラードに止められても、振り切るようにしてカウティスはマルクの顔を見るが、マルクも固い表情で首を横に振る。

「魔術符を準備しなければ、抵抗を弱めても長く保ちません。王子、セルフィーネ様の前で身を危険に晒すのですか?」

「!……しかしっ……」


カウティスは再び対岸に目を凝らす。

変わらず暗い川原で、ザワザワと風が木々を揺らしている。

「フルデルデ王国でそうしたように、セルフィーネをザクバラから早く戻すことは出来ないのか!」

カウティスはラードを振り返るが、ラードは灰色の瞳を細めて苦々しく口を開く。

「……協約に反します。ザクバラ国の承諾の下でなければ、いさかいの元になるでしょう」


本当に何も出来ないのか。

対岸を見詰め、カウティスは無意識に騎士服の上から胸のガラス小瓶を握り締める。






気付かない内に太陽は月に替わっていた。

降り注ぐ青銀の光で、僅かに力を得たセルフィーネは、対岸にカウティス達が下りてくるのを見た。

自然と涙が溢れそうな感覚があったが、まだ姿を持たないセルフィーネの頬には、何もない。


戻りたい。

カウティスの側に、行きたい。

切に願うセルフィーネの耳に、フルデルデ王国の魔術師長の言葉が甦った。


『 あなたの契約のあるじは、竜人族ただ一人だと聞いています。あなたが真に守らなければならないのは、あるじとの契約だけ。人間が勝手に決めた協約に従わなくても、契約違反にはなりませんよ』



――――戻っても、良いだろうか。

自分の我儘わがままで、三国の協約に反しても、構わないだろうか。



靴を脱いで川に入ろうとするカウティスの姿を見て、戻ろう、カウティスの側に行こうと、セルフィーネは僅かに足を動かした。

その時、ネイクーン王族が水盆から呼び掛ける時のように、直接頭に声が響いた。



「水の精霊よ、聞こえるか。私はザクバラ国王城よりお前に語り掛けている」



セルフィーネは動かそうとしていた足を止めた。


「お前は既に、三国共有のものとなった。つまりは、お前の全てはザクバラ国のものでもあるということを忘れるな」


“お前の全てはザクバラ国のもの”


その言葉はセルフィーネの心をえぐる。

三国のものとなっても、心だけはずっと、ネイクーン王国の水の精霊のつもりだった。


「三国の協約に反し、この十日間、僅かにもザクバラ国領土を出ることは許さない。他の二国とは違う。ザクバラ国内にいる間に協約を違えることあらば、我が国はすぐにネイクーンとの休戦を破棄する」


セルフィーネは息を呑む。

この声の主は、一体誰だ。

ザクバラ王族なのか。

セルフィーネは目を動かし、語り掛ける者を水盆の水の中から見上げた。



水盆を覗き込み、語りかけているのはリィドウォルだった。

暗い色をした黒眼が水盆を覗き込んでいる。

その黒眼の奥に、血のような紅が滲んでいる気がして、セルフィーネは逃げるように視界を戻す。



「もう一度言う。この十日間、僅かにもザクバラ国領土を出ることは許さない。……警告はしたぞ、


セルフィーネは、身体を震わせた。


対岸にたたずむカウティスの姿を一度だけ見て、サッと身をひるがえすと空に駆け上がり、国境地帯を離れた。





「あ……」

マルクが声を漏らしたので、カウティスは振り返る。

マルクは対岸の空に視線を上げ、弱々しく言った。

「セルフィーネ様が、ザクバラ国の内地に向けて行ってしまわれました……」


「セルフィーネ……」

カウティスは月光の輝く夜空を見上げ、彼女の名を呟いた。




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