新時代の幕開け
見えなくても
光の季節前期月、二週四日。
イスターク司教は修繕中の神殿を出て、イサイ村より東にある、西部で一番大きなオルセールス神殿へ向かっていた。
年が明けて、御迎祭と祝週である第一週を無事に終えた。
今向かっている神殿には、オルセールス神聖王国から、ネイクーン王国の聖堂建築を急ぐよう度々通信が入っているようで、駐在している司祭からイスタークに助けを求める使いがやってきた。
イスタークには、市井の人々に直接関わっていたい気持ちと、聖堂を立てるべき場所や環境を自分の目で見て判断したいという思いがあった。
それで修繕中の神殿に居座っていたのだが、ずっとそこにいる訳にはいかないようだ。
まだ整備途中で、大型の馬車は通れない街道を、聖騎士エンバーと共に馬で進む。
「ネイクーン王国はこの季節でも過ごしやすいですね」
エンバーが周囲を見ながら言った。
「そうだね。厚手の上掛けは必要なかったかな」
前を開いた上掛けを摘んで、イスタークは笑う。
火の精霊の影響を強く受けるネイクーン王国は、本来ならもっと寒い今の季節も、朝晩に冷え込む程度だ。
太陽が出ている時間は、薄い上着でも足りる。
拠点の側を通り過ぎ、更に北へと進むと、堤防建造現場の近くまでやって来た。
祝週を過ぎて、作業員達の休暇も終わった。
現場も通常通り動き始めているようだ。
少し離れた所からでも、作業員達の活気のある声や、作業の音が聞こえてきた。
ネイクーンでは火の季節よりも、今の時期の方が屋外作業はやり易いのかもしれない。
「イスターク様、カウティス王子がおられます」
イスタークはエンバーが見ている方を向く。
先の足場を組んでいる近くで、職人や魔術士達が集まっている。
その中で一人だけ目を引く、青味がかった黒髪の青年がいた。
「……王子、イスターク猊下が」
簡易机の上に広げられた作業予定表を見ていたカウティスに、ラードが小声で知らせる。
カウティスは目線を上げた。
街道の方から歩いて来るイスタークとエンバーを見つけ、職人に声を掛けてそちらへ踏み出す。
イスタークの側まで来ると、立礼して挨拶を交わした。
「もう
イスタークが、柔らかく間延びした口調で言った。
水の精霊を失って、王子は暫く気落ちして動かないのではないかと思っていた。
「この地の復興支援は、私に任された職務ですので」
答えたカウティスの顔は、半月程前に見た時よりも、やや精悍に見えた。
紺の騎士服を着た身体も、更に引き締まって感じる。
少し伸びていた髪を短く切り揃えているからだろうか、今まで僅かに残っていた少年の様な雰囲気は、すっかり消え去ったように思えた。
「猊下、祝週の間、西部の多くの町村を回って頂いたと聞きました」
西部の国境付近は、特に神殿が少ないので聖職者が足りていない。
御迎祭を行えていない町村に、イスタークは祝週の間に簡易式を行って回った。
「西部の多くの民が、太陽神を無事迎えることができました。陛下に代わり、お礼申し上げます」
「聖職者として、やるべきことをしているだけです」
イスタークは微笑んで答える。
「聖堂建築については、祝週を明けてすぐ貴族院に議題として挙げております。纏まり次第お知らせしますので、もう暫くお待ち下さい」
カウティスの礼節を守る態度と、険を含まない雰囲気を感じ、イスタークは戸惑いを覚えた。
水の精霊の進化を促す為にイスタークが提案したことを、年末日にハルミアンから聞いたなら、王子は間違いなく反感を示すだろうと思っていたからだ。
「カウティス王子は、ハルミアンから……。いえ、ハルミアンは、図面を描いていますか」
言いかけて、イスタークは話題を替えた。
水の精霊が三国共有のものとなってしまった今、その話を蒸し返しても意味はないように思えた。
「はい。ネイクーン王国にとっても良いものを設計してみせると、熱心に机に向かっています」
「そうですか」
話を終えようとした瞬間、イスタークには、カウティスの身体の周りに極薄い魔力の層が見えた。
薄く薄く、紫と水色の魔力が、カウティスの身体を包んでいる。
それは魔力素質の高いイスタークでさえ、注意深く見なければ分からないような微弱なものであったが、確かにカウティスの身体を包み込んでいた。
「水の精霊の魔力が……」
思わず呟いたイスタークに、カウティスは目を見張る。
「……猊下には、見えるのでしたね」
そして僅かに口を歪めた。
「羨ましい……」
イスタークは焦茶色の目を瞬いて、空を見上げる。
雲ひとつない青空には、目の荒い織物のように、水色の
以前の薄い層のように、決して手放しで美しいとは言えないものだったが、何故か目を引く魔力だ。
しかし、水の精霊がここにいると分かる程の、強い纏まりは何処にもない。
イスタークは、ネイクーンの水の精霊は、世界に漂い神の意志に沿う、物言わぬ虚ろな精霊に戻ったのだと思っていた。
「……水の精霊の意思は、消えていないというのですか……?」
驚きに目を見張るイスタークに、カウティスは薄く笑んだ。
「彼女は、決して消えないと約束しましたから」
深夜、拠点から近くの川原に下りて、カウティスはベリウム川の水際に立った。
その手には、セルフィーネが最後まで身に着けていた、カウティスの濃紺のマントが握られている。
少し離れて、後方にマルクが控えていた。
空は、昼間と同じ様に雲一つなく、丸い月が降らせる青白い光は、遮る物もなく川面を輝かせる。
「……セルフィーネ」
カウティスは、水面に向けて手を伸ばして呼んだ。
一拍置いて、足元に程近い水面が、小魚が跳ねたようにピシャと小さく動き、波紋を作る。
――――ただ、それだけだった。
「セルフィーネ」
再び呼んでも、もう何も起こらない。
「……王子、今日は、おそらく左頰に触れられました」
マルクが、申し訳無さそうに言った。
「そうか……」
新年へと日付けが変わる瞬間に、セルフィーネは声にならない叫びを上げて、カウティスの腕の中で身を
痛みに耐えるその姿を見て、おそらくカウティスが辛さを顔に出してしまったのだろう。
セルフィーネは、痛みを隠して微笑んだ。
苦し気な微笑みだった。
それでも彼女は笑ったまま、とうとう目に見える姿を消した。
大気に溶けるようにして、彼女はその存在を保っているのだとマルクは言った。
それが本来の精霊の姿だというから、今はもう、苦しくはないのかもしれない。
一週目の五日間は、どんなに呼び掛けても反応はなかった。
六日目の早朝鍛練の時に、泉の水が僅かに跳ね、その日から、呼び掛ければ時折反応がある。
月が冴え冴えと輝く夜には、こうして存在を伝えに来てくれる。
魔術素質のないカウティスには、魔力が見えない。
三国に広げられて、歪な層になっているという、空の魔力も。
そうなっても、カウティスの周りにだけは薄く薄く残されているという、水の精霊の護りの魔力さえも。
カウティスは自分の左頰に掌を当てる。
魔力の見えないカウティスに、それでも僅かに触れようとしてくれるセルフィーネを、マント越しに抱きしめてやることさえ叶わない事が辛かった。
「……いつも、そなたを想っているから」
カウティスは拳を握り、深く息を吐いた。
「毎晩付き合わせて、悪いな」
いたたまれない様子で控えていたマルクを振り返りながら、声を掛ける。
「いえ、私も水の精霊様の無事を確認したいので、大丈夫です」
「……名を呼んでくれと言われたのではなかったのか?」
マルクは身を小さく縮めて恐縮する。
「そんな、王子の前で呼んだり出来ませんよ」
カウティスは、やや目を細めた。
「……私がいない時にだけ呼ぶ方が、意味深に感じるのだが……」
「ええっ!? あっ、でも、そうですよね、すみません」
焦るマルクの様子に、カウティスは思わず、ははっと声を出して笑う。
そして、笑えた自分に何処か安堵した。
『笑っていて』と、セルフィーネと約束した。
カウティスは顔を上げた。
見上げる空には、冴え冴えと月が輝いている。
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